世界の女戦士たちを総まとめ。美しく勇猛な女戦士はフィクション以外にも存在した!

特に1万3千の大軍を伏兵として運用した羌族との戦いは、史上最初の大規模伏兵として記録されています。また、司祭して神権政治であった殷王朝の大事な勤めもこなしました。婦好墓と呼ばれるお墓にはたくさんの武器や翡翠でできたお宝が埋められていました。

女戦士は日本にもいた!美しいサムライガールたち

さてさて、次は更にズームアップして我らが日本の女戦士をピックアップします。日本で最古の女性リーダーと言えば卑弥呼。そこから脈々と受け継がれてきた女性リーダーの活躍を紹介していきます。

華やかな美貌の持ち主「巴御前」

平安時代末期、「色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と讃えられる女性がいました。信濃の国、今の長野県の武将・木曾義仲の側室であり、馬の上から敵を正確に射抜くことができたと言われています。

宇治川の戦いで戦に負けた義仲は巴御前に自分を置いて巴御前だけでもどこかに逃げ延びるよう説得します。最初は共に行くことを願った巴御前でしたが、最後は従うこととなりその後の行方は伝わっていません。現在、何箇所かに巴御前のお墓と言われる場所があります。

影響力は将軍以上「北条政子」

源頼朝の正室であり、その死後は長男の頼家、次男の実朝が幕府の権力を握りますが暗殺され血筋が途絶えます。これに焦った政子は僅か2歳の源家の血を引く藤原頼経に継がせ、自ら尼将軍となり鎌倉幕府の政治を行いました。

朝廷と争った承久の乱で御家人を奮い立たせた「頼朝公の恩は山よりも高く、海よりも深い」という演説はあまりにも有名ですね。演説のかいもあり、後鳥羽上皇に勝利をおさめました。その後、鎌倉幕府は安定した政権を握りました。

幕末のジャンヌダルク「新島八重」

幼い頃から銃の取り扱いに慣れていた八重は戊辰戦争においても武家の娘として銃だけでなく自ら剣をふるい活躍しました。その後新島襄と結婚したあとでも欧米式の男女平等を信念に持ち、同志社女学校の設立に携わったり日本赤十字社で看護婦として戦場で活躍しました。

近現代史における女戦士

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古き良き時代のみならず近年にも目を向けてみましょう。近代においても女性が世界的に認められることは発展途上国においては特に大変なことです。現在は世界的には大きな戦争がない時代ですが、少し遡れば第一次世界大戦や第二次世界大戦もありました。

今も内戦や争いは世界的規模ではなくとも弱いものが虐げられ命を落とす悲しい出来事が完全になくなることはまだありません。しかし、いつの時代にも戦場を駆け抜ける救世主となるような女戦士の存在があります。

ロシア婦人部隊を創設「ヤーシカ」

第一次世界大戦中の軍人ヤーシカこと本名は「マリア・ボチカリョーワ」。1914年に入軍したマリアは最初女性の軍人が珍しいこともあり、からかいや嫌がらせを受けることもありました。しかし、彼女が戦場に出向き負傷しながらも実力のみで3つの勲章を授与されると見る目が一気に変わりました。

1917年にマリアは女性のみで編成された部隊を作りたいと願い出て「婦人決死隊Women’s Battalion of Death」を結成をしました。数々の厳しい訓練や試験を経て選別されたメンバーでしたが、宮殿の警備を行っていたところボリシェビキ赤軍に襲われ解散に追い込まれてしまいました。

イスラム国と戦ったクルド人女性たち

クルドには全員女性だけで構成された国際支援組織から何の援助も受けずにおおよそ一万人を組織するYPJという民兵の集団がいます。全てクルドのコミュニティーから物資や食料も調達しています。兄弟組織としてYPGという組織もあります。

クルド人の居住地域に争いを持ち込もうとするもの全てに対抗している組織でイスラム国ISIS相手にも対抗しています。「私達は政府に頼ることなく自分たちで地域を守る必要がある」という言葉はなにかあると社会のせいにしてしまいがちな私達の心にも刺さりますね。

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