そもそも「黄泉戸喫(よもつへぐい)」とは?
字面もそうですが、「ヨモツヘグイ」という言葉の響きも聞き慣れない方のほうが多いでしょう。この「黄泉戸喫」とはどのような意味で解釈していくべきか、また、そのルーツはどこにあるのか、詳しく説明します。
黄泉の国の食べ物を食べること
「黄泉戸喫(よもつ・へ・ぐい)」とは、黄泉の世界で料理されたご飯を、死者たちと同じように口にするという意味です。同じ読みで、「黄泉竈喫」という字で記されることもあります。黄泉の世界の火で調理された食べ物を指しているため、ここでは「料理」という語を使っています。
『古事記』が由来
「黄泉戸喫」という語句は、日本に現存するなかで最古の歴史書である『古事記』の上巻にも登場し、黄泉の国との境界を理解するための重要な言葉ともなります。『古事記』に登場するのは、かの有名なイザナキノミコトとイザナミノミコトです。
漢字で書くと「黄泉戸喫」
黄泉、すなわち「ヨモツ」とは「黄泉国」、つまりあの世を指します。「戸」とは「へっつい」、すなわち「竈(かまど)」を指しています。「喫」の字は、口に入れる、食すという動作を表現するものです。なぜ「戸」が「竈」を指すかというと、大年神の系譜中にある、「大戸比賣神。此者諸人以拝竈神者也」という表記が元になっています。
「黄泉国」は、『古事記』で最初に明記された「異界」です。ちなみに、『古事記』における「黄泉国」の読みは、「ヨミノクニ」と「ヨモツクニ」の二つがあり、一般的には「ヨミ」と読まれていますが、確実に「ヨミ」と読める表記はないため、確定していません。
「黄泉戸喫(よもつへぐい)」をするとどうなるの?
もしも、黄泉の国でもてなされた料理を食べてしまったり、なんらかの事情で料理を口にしてしまったとしたら、一体どうなってしまうというのでしょうか。『古事記』の中で「黄泉戸喫」という文言が出てくるお話から、その謎を紐解いていきましょう。
『古事記』の「黄泉国」について補足しておくと、火の神である「迦具土神(かぐつちのかみ)」を生んだことで焼け死んだイザナミを追って、イザナキが黄泉国を訪れるところからお話は始まります。イザナキは、「まだ国を作り終えていない、一緒に帰ろう」と、イザナミに語り掛けます。
現世に戻れなくなる
イザナミは最初、迎えに来たイザナキに対して、「会いに来てくれたことは嬉しいが、もうよもつへぐいを済ませてしまった」と伝えます。「黄泉戸喫」をしてしまったら、よっぽどのことがない限り、足を踏み入れた異世界からは抜け出すことはできないのです。
協力者がいれば戻れる可能性がある
イザナミが、イザナキと共に現世へと帰るために、「しばらく黄泉の神と相談してくるから待っていて」と言う場面があります。すでに黄泉戸喫を済ませてしまっていても、生の世界、現世からやってきたイザナキを頼りに、死者の世界である黄泉国から抜け出そうとしている様子がうかがえます。
「見るな」のタブー
イザナミは、「黄泉の神と相談している間は、私の姿を見に来てはいけません」とイザナキに伝えます。しかし、あまりにも長い時間であったため、痺れを切らしたイザナキは覗いてしまうのです。そこに居たイザナミの姿は、現世で目にしていたものとはかけ離れ、身体からは蛆虫が湧いていました。
その姿を見たことで、イザナキは恐ろしくなり逃げだします。イザナミの姿を目にしてしまったことで、イザナミが「黄泉国の住人」になってしまったのだ、と視覚的に認識してしまったため、現世に連れ戻すことは不可能だと理解したのです。
「黄泉比良坂(よもつひらさか)」にまつわる話
黄泉と現世の境であり、帰路であった「黄泉比良坂(よもつひらさか)」。今もなお残っています。さきほどの『古事記』のお話の中ではどのように描かれたのでしょうか。また、現在の「黄泉比良坂」についてもご紹介します。
「黄泉比良坂」とは
イザナキが、現世に戻る際に通った場所です。「黄泉比良坂」は、黄泉国の出口の役割を担っています。イザナキは、黄泉国からの最後の追手であったイザナミから逃れるために、黄泉国の出口にあたる場所を、巨大な岩で塞いだのでした。
國學院大學古事記学センターの解説によれば、「ヒラ」は崖状の地形や傾斜地をあらわし、「サカ」は境界を意味するとのことです。しかしこれは『日本書紀』における語句の解釈であり、『古事記』における「サカ」は、現代とさほど意味が変わらない、という説もあります。
観光名所「黄泉比良坂」
『古事記』の地として愛され、パワースポットとしても注目の観光名所です。この「黄泉比良坂」には、「天国へ手紙を送るポスト」が設置されているのです。便箋に筆記用具、書くスペースまで充実しています。もしもあの世へと旅立った人、もしくはペットに言葉を届けたいなら、ここで手紙をしたためるのも良いかもしれません。
また、現在では、心霊スポットとしても注目を集めるようになっています。この世とあの世との境界とされている場所ですし、不気味な雰囲気が漂うこともあるのかもしれません。これ以上足を踏み入れてはいけないという注意喚起の看板も実際に存在します。
ゲームの中の「黄泉比良坂」
スマホ向けのオンラインRPGに、「ひねもす式姫」というゲームがあります。「ひねもす式姫」に登場するステージのひとつに、「黄泉比良坂」があります。このステージでのルールは特殊で、戦闘が終わっても、体力と魔力は回復しません。「黄泉比良坂」という場所の特徴を捉えた興味深いシステムです。
ギリシャ神話における「黄泉戸喫(よもつへぐい)」
ギリシャ神話においても、「黄泉戸喫」に類似したお話が存在します。ここで紹介するのは、「ペルセポネの冥界下り」、もしくは「ペルセポネの略奪」と呼ばれる神話です。ギリシャ神話ではどのように描かれているのか読み解きます。
「ペルセポネの冥界下り」が似ている
女神・ベルセポネは、野原で水仙の花を摘もうとしたとき、冥府の神・バーデ―スに連れ去られてしまいます。何日も冥界で過ごさざるを得なくなっていたペルセポネは空腹に耐えかね、バーデ―スからもらったザクロの12粒のうち、4粒を口にしてしまいます。補足すると、食したのは6粒だったという説もあります。
冥府のものを食べてしまったら、冥界に属さなければならないといった決まりがありました。ですが、ペルセポネは様々なことが考慮された交渉の末、食べてしまった粒の分だけ、つまり1年のうちの三分の一の期間だけ、冥府で過ごすことになったのでした。
ザクロという果実について
ペルセポネが受け取ったのはザクロでしたが、ザクロという果実はギリシャ神話において「豊穣のシンボル」とされていました。ペルセポネもまた、「豊穣の女神」であったので、とてもゆかりのある果実でありました。ここでは、ザクロについて少し掘り下げてお話します。
ザクロの花言葉
ザクロはその果実の中にぎっしりと種子が詰まっており、美しい花を咲かせることから、「成熟した美」という肯定的な花言葉を持ちます。その一方で、安易にバーデースから受け取ったものを食べてしまったというペルセポネの行動から、「愚かしさ」という否定的な意味も持っています。
ザクロの味は人の味?
「ザクロは人肉の味がする」と見聞きしたことがある方も少なくないでしょう。本当に人の味がするわけではありません。「ザクロ人肉味説」は、鬼子母神像がきっかけです。子どもを抱え、右手にザクロとされる果実を持っています。鬼子母神は、自らの子育てのために人の子を捕らえて喰っており、人々から恐れられていました。
そのため、鬼子母神は「子どもが食べられない代わりに、人の味のするザクロを持っているのだ」という噂が立ちました。ザクロの味についての、よろしくない噂です。しかし、実際には右手にもっているのは吉祥果という果実であり、ザクロで表現されるようになったのは中国文化の影響を受けてのことです。
仏壇に供えたものを食べるのは「黄泉戸喫(よもつへぐい)」なのか?
お盆やお彼岸、法事の際には、仏壇にお供え物をします。お菓子や果物を供えたり、ときには一汁一菜の食事をお供えします。お供えした食事は、基本的には下げて食べるのが良いとされていますが、ここでは、「あの世」との一種の境界でもある仏壇に供えたものを口にしても良いのか、という疑問について回答します。
よもつへぐいにはならない
供えていた食べ物を仏壇から下げて、それを口にしても、「黄泉戸喫」にはなりません。理由をお答えすると、仏壇にお供えしたものはすべて、現世で調理したり、調達したものであるからです。仏壇から下げたものは食べたほうが供養にもなりますから、むしろ口にした方が良いのです。
「黄泉戸喫(よもつへぐい)」を治すと言われる食べ物
治す、という意味とは少し異なるかもしれませんが、「黄泉戸喫(よもつへぐい)」をしたときのように、身体が急速に衰弱したり、「霊障」に遭った場合、この世の食べ物を口にできなくなる場合があります。そんなとき、どのようなものを口にすれば良いのか、少しお話します。