当時小学校に在日朝鮮人は4~5人とわずかな割合でした。朝鮮人とからかわれ、弁当を床へひっくり返されたりと同級生や担任教師などからいじめや差別を受けていました。金氏は5年生で中退し、丁稚奉公に出ます。しかし定職につくことがかなわず、度々犯罪を犯して逮捕され刑務所や少年院に入ることを繰り返していました。
金嬉老の人物像
幼少期から、いじめてきた同級生に対して年上であっても対抗したり取っ組み合いをしたりと喧嘩っ早い性格であったことが窺えます。また、家庭が貧困だったことに劣等感があったためか、小学校中退後は詐欺や窃盗、強盗などの金銭にかかわる犯罪で何度も逮捕されており、人生の大半を刑務所で過ごしたともいわれています。
金嬉老の事件後から没後まで
1999年9月、金氏は韓国に渡航することを条件に仮出所しました。韓国政府の援助もあり、母親の故郷である釜山で新生活を始めることになります。韓国での人気は高く映画を作られるほどでした。日本の親族からの仕送りもあり不自由ない暮らしでしたが、この生活も順調にはいきませんでした。
夫人の窃盗・逃亡
1979年に金氏はある女性と獄中結婚をしていました。釜山ではこの夫人とともに暮らし始めていましたが、2000年の4月頃、夫人が現金や預金通帳を含め約600万円を窃盗し、行方を眩ませました。夫人は指名手配され、約1年半後に窃盗・私文書偽造容疑で逮捕されます。
金氏の再逮捕
金氏自身も、この年の9月に内縁関係となった女性の夫を殺害しようと計画して夫の自宅へ押し入り、約1時間に渡って監禁し、竹やりで脅したり布団に火を点けたりしました。この事件で金氏は殺人未遂、放火、監禁などの罪に問われて逮捕され、2年6ヶ月の懲役刑になります。これがきっかけで金氏の人気は地に落ちてしまいます。
金氏の晩年
晩年は日本にある母親の墓参りに行くことを理由として、韓国政府を通じて日本へ入国許可申請を出していました。しかしそれは叶わず、2010年に前立腺がんを患い、釜山市内の病院で亡くなりました。享年は82歳でした。
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事件の舞台となった「ふじみや旅館」
金氏が立て籠もり事件を起こした「ふじみや旅館」は明治時代に創業した旅館でした。もともとダム工事で訪れる職人たちが止まりに来る温泉宿として人気でしたが、金嬉老事件を気に知名度が上がり、館内の一室には事件当時の写真資料が展示されるなどしていました。
金氏に追悼の意を示した女将
金氏が亡くなったことで様々なメディアがふじみや旅館へ訪れましたが、女将は旅館を閉め取材には応じませんでした。その中で韓国メディアからの取材には応じています。当時のことはもう終わったことであり、口にしたくないという思いがありながらもインタビューに答えました。その中で、金氏への追悼の意を示しています。
「金氏の突然の死亡ニュースを耳にしてびっくりした」と言い、「悪縁ではあったけど、天国で平穏に暮らすことを祈る」として、憐憫を情を示した。望月氏は、「いやおう無しに、私の人生の半分以上を金嬉老事件と一緒に暮らしてきたことになる」と言い、「40年余りが過ぎた出来事を、いまさら口にしたくはない。もはや全て終わったことだ」と、気持ちを打ち明けた。権氏が韓国に戻った後のいかがわしい事件も耳にしたようだった。「金氏が帰国後、幸せな余生を暮らすことを願ったが、そうでもなかったらしく、残念だ」と話した。引用:東亜日報