人民寺院の悲劇|集団自決を決行させた教祖の正体や幻の音源テープとは?

1955年に創設された宗教団体「人民寺院」。弱者の拠り所の存在から独裁国家へと変貌を遂げたその経緯とは!?教祖ジム・ジョーンズの生い立ちや恐怖の集団自殺に至るまでの概要のまとめ!今回は一人で聞けない幻の音源テープや衝撃の映像化に成功した映画も紹介いたします。

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人民寺院を振り返る

まずはこの「人民寺院」について、どういった団体なのか?、教祖のジム・ジョーンズは何者なのか?、本稿で取り上げることになる集団自殺を決行してしまったのか?などの概要についてまとめます。

アメリカの宗教団体

この人民寺院は英語では「Peoples Temple」を言い、1957年にインディアナポリスで設立されました。人種差別や貧富の格差を巡る変革の動きが渦巻く激動の時代の真っただ中でした。このような時代背景が人民寺院を生んだとも言えるでしょう。

教祖の名はジム・ジョーンズ

この教団の教祖はジム・ジョーンズといいます。宣教師の娘と結婚し、聖書の教えに感化された彼は、猿の訪問販売で資金を作ったあとで、恵まれない黒人や高齢者などを対象に福祉施設を設立し、救いの手を差し伸べる活動を始めたのです。当初はメディアなどの注目を集め、好意的に受け止められていました。

自殺者の数は1000人近く!?

その後は聖書の教えから徐々に離れていき、信者の拡大を図る中で、怪しげな心霊療法を取り入れていきます。その際に受け入れた寄付で、彼が設立した教団の規模は大きく拡大し、信者の数も増加していきました。しかし、ジム・ジョーンズが徐々に狂気に取りつかれていくなかで、集団自殺という悲劇を起こしてしまったのです。

人民寺院教祖ジム・ジョーンズとは一体何者?

ここでは、人民寺院なる組織を設立するに至ったジム・ジョーンズについて、幼少期から少年時代までの生い立ちについてまとめます。子供時代からキリスト教や死といったものごとに強い興味をいだいていたようです。

ジム・ジョーンズの生い立ち

ジム・ジョーンズは1931年5月13日にインディアナ州の貧しい家庭で産声をあげました。幼い頃より猫をナイフで切り殺して葬儀の真似事をしてみたり、教会のミサを途中で退席した友人に対して銃で威嚇したり、とやや周囲を気味悪がせる行動を取っていたようです。

父親は過激な人種差別主義者

ジム・ジョーンズの父親は過激な人種差別主義者であり、アメリカの秘密結社で白人至上主義を唱えるクー・クラックス・クランに属していました。そんな父親は、ジム・ジョーンズが幼少期のころには、ジム・ジョーンズや母親を捨てて、家を出て行ってしまいました。

母親の夢は息子が宗教家になること

一方の母親は、そんな父親だったので、子供たちを育てるために複数の職業を掛け持ちするなど苦労しました。また、黒人など貧しい人を助けようと活動するボランティア精神の強い持ち主だったと言われています。母の息子への願いもこのような心を持った宗教家になってほしいというものでした。

なぜ人民寺院が設立された?

前項ではジム・ジョーンズの生い立ちをまとめましたが、恵まれていたとは言い難い幼少期を過ごしました。ここでは、その彼がどうような目的を持って人民寺院を設立するに至ったかを見ていきたいと思います。

当初は社会福祉活動の一環だった

彼が育った地域は聖書を信じる信仰が厚い場所だったこともあり、彼は黒人差別をやめるような活動をはじめました。また、宣教師の娘である妻の勧めで紹介されたメソジスト教の牧師となり、貧しい人に食事などを提供するなど、社会福祉活動に精を出したのでした。

次第に心霊療法を行うように…

次第にそのような慈善活動で注目を集める中で、少年期に徐々に育っていった「自分は特別である」とのスピリチュアルな感覚が表に出てきます。カリフォルニア州ユカイアに移り住み、信者とともに孤立した環境で生活を行なうなかで、目の見えない信者の視力を回復するヤラセを行うなど、高額の献金を伴う心霊療法も行うようになっていきました。

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そしてジム・ジョーンズの暴走が始まりだす…

当初は社会福祉活動の一環であった人民寺院が、徐々に異様な集団へ変貌を遂げていくようになっていきます。閉じた空間で救世主のように崇められるジム・ジョーズが徐々に暴走を始めていくようになっていきます。

きっかけはキューバ危機

人民寺院が設立された頃のアメリカを取り巻く政治社会情勢は、第2次世界大戦後の米ソの冷戦やキューバ危機などを背景に世界の先行きに不安を抱かざるを得ない状況でした。核戦争の勃発もまことしやかに言われるなかで、人々の気持ちにジム・ジョーンズを受け入れる隙が生まれやすかったのです。

ついには「ジョーンズタウン」建設!

ジム・ジョーンズは自らが救世主であるかのようにふるまい、信者数も増加し2500人規模まで拡大しました。一方で、既存のキリスト教勢力からの攻撃やジム・ジョーンズのふるまいに嫌気がさした脱会者による告発などから逃れるため、南米ガイアナのジャングルに「ジョーンズダウン」と命名した集落を建設するに至ったのです。

異常なまでの猜疑心!徹底的な情報漏洩対策とは!?

ジム・ジョーンズの独裁的な姿勢が次第に強まっていく中で、彼の中で他者に対する猜疑心が高まっていきます。周りが信じられなくなり、外部への情報漏洩に敏感になっていき、過度な規則やルールを集団内の人々に課していくことになります。

マスコミへの攻撃

彼は集団内の実態を隠すためにマスコミへの攻撃を強めていきます。批判的な態度を取るマスコミには集団内の実態を広めると様々な不利益を受けることになるといった脅迫状を送ったり、執拗に無言電話をかけ続けるなど、陰湿な方法でマスコミを攻撃しました。

脱会者への脅迫

また、マスコミに対して情報を流す脱会者に対してもストーカー行為を繰り返し、集団内の実態がばれないように隠蔽工作を強めていったのです。その方法には、電話を盗聴して情報を流しているかどうかを確認したり、ごみを漁って脱会者を脅迫するネタを探したり、といったこともあったようです。

ついに国が動きだす!待っていた悲惨な結末とは

次第に集団内の実態が明るみに出てくると、被害者たちからは集団に属する人たちを救済するように要望が国に寄せられるようになってきます。ついに国も動き出し、調査に乗り出すことになるのです。

ライアン議員の視察

1978年11月に、マスコミや被害者の会などによる要望に基づき、アメリカ下院議員であったレオ・ライアン氏がマスコミ関係者を複数引き連れて、ジョーンズタウンを訪れて実態調査に乗り出すことになりました。訪問当初は、事前の想定に反し、牧歌的な雰囲気が広がるジョーンズタウンに驚きもあったようです。

不意打ちの射殺…

しかし、ジョーンズタウンに押し込められていた脱会希望者が一行に救出を願い出る行動に出たことで、裏に隠れていた異常さがライアン議員などに知られることになり、事態は急変します。視察を終えて帰国しようとした一行をジム・ジョーンズの命を受けた信者が襲撃、ライアン議員は射殺されてしまったのです。

人民寺院終わりの始まり!勇断自殺決行へ…

ライアン議員一行に対する不意打ちをきっかけとして、ジム・ジョーンズが設立した人民寺院は狂気の沙汰に突き進んでいき始めます。設立当初の善行が大きく音を立てて崩れていってしまうのです。

最後の夜を命じたジム・ジョーンズ

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