おじろくおじろくばさとは?昭和まで続いた長野県での嘘のような悲しい奴隷制度

おじろくおばさはまだ他家に行くよりも生まれ育った家のほうが、なんぼかましだったのです。だから、彼らは家のためによく働いたといいます。生まれて育った家で小遣いも与えられないのはむしろこのあたりでは、あたりまえのことでした。

おじろくおばさの精神疾患と人格

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暗い家の隅に丸まった背中の者がいても、来客は話し掛けません。または誰かいるか?と問いかけます。誰もいないと返事が返ります。彼らは誰でもないのです。この家の厄介者で、なんの権利も、なんの権限もありません。かかわらなければ問題は起こりません。

おじろく同士、おばさ同士で話しをしないのかと聞きとり調査の時の質問には話したくもないし、話しても面白くもないと答えました。結局、精神科医は彼らは分裂病なんだろうか?と疑問を残します。

精神疾患によって人付き合いも困難で常に無表情

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目に精気がありません。深く刻まれたしわには苦悶の表情はあっても笑うという表情はありません。笑えるような人生ではなかったのです。腹いっぱいにならなくとも文句を言う先もありません、そんなものなのです。悲しいという感情も持たなかったと言います。

生きる意外に目標はありません。死ぬまで生きるような暮らしに、希望など見出せません。早くお迎えが来ないかと、ぼんやりした頭で考えます。想像ではありません。少し前のこの国の山間ではよくある話で、年寄りがよく呟く言葉でした。

幼少期は普通に育つ

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幼少期は家族の一員として普通に育っていくのですが、教育は最低限しか受けさせません。昭和の時代でも、下の子供を背負って学校に行きます。弟や妹を背中にくくりつけて、学校に行きます。家族総出で暗くなるまで仕事をします。義務教育が終わればひたすら労働です。学校にも行ったのか、行かなかったのか。義務教育の制度も名ばかりでした。

町がいくら発展しようが田舎の暮らしが楽になることはありません。今よりも酷い格差社会を背景におじろくおばさは存在していました。たまたま発覚しただけです。神原村だけではないのです。日本はまだカーストも存在していました。そこは行政の手が届かない村であり、家でした。

成長するにつれ奴隷として扱われ、それに適応した人格へ

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そんな土地で先祖代々過ごしてきた者にとっては、出て行け、追い出すぞ!と言われることが何よりも怖かったのです。1964年『精神医学6月号』に近藤廉治のレポートが載りました。インタビューを試みたものの彼らはほどんど話しません。催眠鎮静剤のアミタールを注射してのインタビューになりました。

彼らはいつも身ぎれいな服をきちんと着ていたそうです。自分の身の上が不幸だとは思っていません。今この状態でいられることに満足しています。これは幼少期から、枠からはみ出すことを抑えつけて育てた極端な洗脳です。自分の意思など持ったらこの閉ざされた社会では生きて行けません。人の悪口など持ってのほか。疑問は持ちません。

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レポートでは趣味を持たないと言っていますが彼らは労働を負担と感じていないので、暇なら藁をなうとか、繕いものをするとか、労働と趣味の区別がないだけです。よくも悪くもこれより他生きるすべを知らなかったのです。そうなると広域の社会問題です。神原村の問題ではありません。性質は至って素直で、甥や姪の世話もよくします。

おじろくおばさのいる家は栄えると重宝がられていますが本人はそれで満足だと話すのです。あるいは、この医師は田舎の暮らしの経験がないのではないかと、ある年齢の山間部の者なら、こんな無表情で寡黙な老人は幾らでもいました。社会と付き合う必要もないですから、面倒なことは家長がやってくれます。

おじろくおばさはこの風習に反抗できなかったのか?

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おじろくおばさは生まれたときからこの環境のなかにいたので、暮らしに対しての疑問がないのです。ご飯を食べられない、飢えるより辛いことがあるのでしょうか。少なくとも飢えるときには家族一緒です。

反抗する気持ちが芽生える隙がないのです。信頼できるのは、一日中こき使う家の者だけなのです。理不尽な使い方はしません。嫌な寝ころんでしまえばいいのです。病気になれば世話もしてくれます。生涯で彼らが怒った姿を見たことがないといいます。

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