狭い村で近親婚を繰り返すうちにこのような分裂病に似た症状の発症を疑い、血縁も調べましたし、遺伝子の調査もされたようですが、さこにはなにも要因となるものはありませんでした。子供のころは普通で、20歳を過ぎたころから人付き合いをしなくなるのは、長い抑圧されたことが原因と考えるほかはないのかも知れません。
おじろくおばさは感情がもてなくなってしまう
おじろくおばさは感情が持てなくなってしまうほどに感情を押し殺して生きてきたのです。いえ、押し殺していたわけではなく、考える必要がない、するべきことは兄や家人が指示します。せっせと働けば、家族として扱ってもらえます。
無駄口は禍の元です。例の小さい大国が良い例です。トップの意に沿うように働けば、悪いことは起こりません。口をきかなければ腹の底は見えません。ただ、タバコの密売をしていたおじろくもいて、売ったお金は小遣いにしていたといいます。
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おじろくおばさは紡績工場の発展とともに消滅
長野近隣で紡績工場は岡谷製糸所を指します。岡谷製糸所は過酷な労働環境で、映画にもなりました。当時の山間部は食べるのにやっとでした。でも皆が皆んな泣きながら働きに出たわけではありませ。一部の貧しい者たちにとっては一筋の光だったのです。
職場ができお金を稼げるようになった
製糸所に送り込まれる少女たちは、口減らしといわれ、貧しい家の子どもでした。製糸所に子供を送った家は、陰口をきかれ、それはそれで肩身が狭かったものです。ただそれほどまでに貧しい家の子は喜んで出かけて行ったと聞いています。製糸所で、働く女性たちの言葉が残されています。厳しいし、辛いけど、家にいるよりまし。
少女たちは、誰に遠慮なく自由な時間が与えられます。目のまえに自分の飯が置かれることに目を見張ったといいます。岡谷の製糸所の暮らしは悪くなかったと実際に女工として働いた老人から話を聞きました。彼女は帰ってから家でお蚕さんから繭をとり、機織りを生涯続けました。手に職をつけて戻って来たのです。
女工の賃金と村の生活
富岡製糸所が世界遺産に指定されました。女性が働ける場所ができたことは女性の社会進出への足掛かりになりました。長野やその近隣県の者は岡谷製糸所に行きました。底は地獄で行ったら生きて帰れないと言われて出かけて行きました。
岡谷の製糸所は小さな製糸所がほとんどで、女工さんの数は3人くらいの規模から、多い所で12、3人でした。その小さい家内工業のような製糸所が輸出高世界1まで駆け上がって行きました。町には活気がありました。
女工の賃金と待遇
明治の始め頃の女工の労働時間は一日12時間。食事は1日3回、7銭5厘でした。当時女工宿舎は結核の患者が多数いて、宿舎をともにしていたといいます。外出するときには屈強な男がつきそいました。屑糸をたくさん出した女性が裸に剥かれ意識不明で路上に倒れていたところを通行人に発見され通報する事件が起きました。
上記のタイトルは『鐘紡の女工虐待監獄のごとし』という当時の報道記事です。そから近代化に向かい、国営の富岡製糸所は、良家の子女がこぞって働くほどの水準になりました。岡谷の製糸所の1870年代の記録によると、女工は一番下が9歳であり、賃金は出来高制で1年で12園ほどだったといいます。
都会の工場よりのどかだったようで、週に半日早上がりの日があり、日中で暇があれば野山で遊んだとあります。明治14年くらいになると天竜川流域の女工が増えたとあります。それだけの現金を持ち帰ったらおばさの立場ではなくなるでしょうね。
大福餅が1銭で2個買えた時代です。当時の1円は2万円くらいの価値に相当します。また林業もその頃には上向き、神原村の暮らし向きも多少は上向いていたのではないでしょうか。おじろくおばさは20代なかばになればまた家に戻ってきます。
おじろくおばさは現代社会にも当てはまるのか
現代社会には社畜という言葉が新たに生まれました。自分の感情を抑えて働く、会社のためなら悪いことでも指示された通りにやってしまう。まさに飼いならされた社畜だと揶揄されています。おじろくおばさに通じるところはあるのです。
社畜
社畜といわれるほど、魂までは売り渡していないのかもしれません。でも、知らないだけでそのような厳しい環境で働いている方々もいます。最近では、大手コンビニチェーンのオーナーが本部の意向で過酷な労働環境に置かれていることが問題になっています。
会社のため、家族のためという意識の中に自分のためという思いがあれば社畜ではないのですが、あまりにも厳しい労働環境に置かれてたら、自分のためという思いは消えてしまいます。マインドコントロールされた機械のようです。
引きこもり
引きこもりとは違います。少なくとも、仕事をしているのです。近所の人に挨拶をしないのは、自分自身を一人前だと思っていないのです。前に出てはいけない。自分のような厄介者が家にいることが、外に知られたくないのです。あくまでも厄介になっていると思いこんでしまっているのです。労働に対する対価など考えられない時代でした。
姪や甥は、おじろくおばさをないがしろにはしていません。ときに遊び相手だったり身内のおじさん、おばさんなのです。やはり成人を過ぎた長男だけは、彼らを厄介者扱いします。引きこもりと違うのは、彼らは逃避はしていない。自己防衛しながら、したたかに生きています。
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日本の隠したい身分制度
最近では学校で士・農・工・商・エタ・非人という身分制度は教えてないのですが、そういった身分制度はなかったと訂正しました。身分ではなく職業の区分であるとされています。2000年頃から間違いだったと記載がなくなりました。
実は更に酷い格差があった
身分制度は、武士、平民、賎民に分かれていましたが、学校では身分制度はないと教えられます。黒歴史ってことですね。身分制度とは絶望的に這い上がれない格差です。江戸時代には湯屋がありましたが、入れるのは平民までです。えた、非人は同じ湯には入れません。身分制度を撤廃したときには百姓が一揆を起こしました。
同じ立場が我慢できなかったのです。賎民の起源は古く、元は賎業を課せられた奴隷です。賎民制が廃されて、それに係るエタ、非人、猿飼、ささら、おんぼう、鉢開きなどを四民平等としました。非人とエタとの間には上下関係はなく、同等の扱いです。これが身分でなく職業区分とするなら、職業の差別はあるわけで、官僚思想そのままな日本です。
身分違いは大変なことだった
江戸時代の日本を考えたとき、職業は世襲であり、選択の自由などありませんでした。生まれ落ちた所でそれより上は望めないのです。近世の戸籍制度が確立する中でえた、非人は百姓町人と台帳を分けられました。身分制度の底辺として確立し、賤民が作られました。賤民は盗賊同類とされ、明暦二年には賤民の隔離監視されるべきだと唱えられました。
またエタと非人の間に支配関係が生まれました。その立場を利用して、賢く生き抜いた集団もありました。和泉国の泉郡南王子村では、雪駄製造のみが許されてまいしたが、皮の値下げ交渉を集団で行ったり販路の拡大に尽力し、財力を身にゆきました。すると近隣の百姓や町民が自らこの村に入り賤民になる者が現れました。
昭和の劇場型犯罪!もまた、社会の在り方を問うています。
戸籍を持たないサンカ
この国には戸籍すらないサンカと呼ばれる人たちがいました。定住することなく、山から山に移動して、寺の軒先や洞穴などに寝泊まりしていました。明治時代にはその数20万人とも言われ、地方によって呼び方もちがいます。犯罪組織やアウトローの噂もありました。
サンカの生活
地域によって、川漁をしたり、竹細工や蓑をつくり農村で売っていた。また地方によってはささらや箒を売ったりして現金収入も得ていたようです。昭和30年代に入り明治時代の人別から漏れた者も漏れなく国家に吸収されたことになっています。サンカのことはまだはっきりとはわかっていません。
今の日本にはすでに存在していません。サンカについて書かれた本が後に偽物だとされたり、聞き取りだけで検証されないまま世に出たのです。サンカこそが日本に残された最大のミステリーかも知れません。最近ではまた秘密結社説なども論じられていますが、いまのところはミステリー、オカルトの域を出ていないのです。
おじろくおばさは人道的に残してはならない制度
時代のせいにはできないですよ。ギリシャ時代でも報酬は支払われていました。農耕民俗は食料を自分の手で作りますから、自分のためですね。労働はしているのですが、お金にならない労働なので、養ってもらっていると思いこまされています。
働かざるもの食うべからず。無駄飯食い。そんな立場に置かれている者にぶつける乱暴な言葉に対する防衛手段は耳を貸さないことです。唯一できる自己防衛が心を閉ざし語らないことだったのです。村社会は得てしてその残忍さに気がつかない。
食べられなくなるのは明日は我が身ですから「あの厄介者さえいなければ」日常的に乱暴な言葉をぶつけます。日本社会はおば捨てなど、酷い因習もありました。今も格差は広がっています。繰り返さないことです。
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