おじろくおじろくばさとは?昭和まで続いた長野県での嘘のような悲しい奴隷制度

長野県の村で実際に行わていた「おじろくおばさ」という風習は、長男長女よりも後に生まれた兄弟姉妹を奴隷化してしまう恐ろしい制度でした。その風習により、おじろくおばさとなった人たちは人格まで変わってしまうほどでした。彼らは何を思い、何を感じ生きてきたのでしょうか。異常なこの風習について徹底解説していきます。

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好奇心に突き動かされてただひたすら忙しい日々を送っています。
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おじろくおばさとは

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おじろくおばさとは長野県の一部の地域に昭和の時代まで残っていた因習です。ただまだ知られていないだけで日本各地の農村地帯には似たような因習のある村は存在します。庄屋制度のような制度も親族間で最近まで存在しているのです。

長男長女より下の兄弟姉妹は奴隷となる風習

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おじろくおばさは長野県神原村(伊那郡天龍村神原)で昭和40年代まで実際にあった独自の制度です。長男、長女のように先に生まれた兄弟姉妹の奴隷となり、死ぬまで働かされていました。こうした制度は山林に囲まれた閉鎖された地域であったため、世間には発覚しないで、脈々と続いていました。

たまたま調査が入ったのがこの地区だということです。調査したのは昭和36年で精神科医の近藤廉治でした。おじろく2人とおばさ1人から聞き取り調査をし、また村の長老のたち数人からも聞き取り調査をしました。結果、精神病ではなく、家族からの疎外感もない、家族のためにひたすら働く、町に出た事もあるが仕事のためだけです。

おじろくおばさとは人格まで変わってしまう恐ろしいもの

おじろくおばさは明治5年当時人口2000人の神原村に190人がいました。昭和40年代でも3人が存在していました。世間との交流が禁じられていたために、本人からの情報はほとんどありません。

どれほど悲惨だと言うのでしょうか。おじろくおばさは本当に家畜同然の扱いをされていたのでしょうか。そこには社会の辛い現実があるのです。辛いと感じるのはこの話しを知った部外者の我々だけであると伝えておきます。恐ろしいのは、村の者にとっても当人にとっても異常だとの自覚はありません。

嫁ぐか養子に入らない限り結婚もできなかった

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嫁ぐといっても嫁いだ先でも馬や牛のような働き手として嫁ぐのです。自分の意思で嫁ぐわけではありません。家に残っても自分の姪や甥よりも立場が下です。後から来た嫁に使いまわされるのです。戸籍の表記は「厄介」です。多くの者は、童貞であり処女のまま生涯を終えます。

厄介という扱いであるため祭りなどの集まりにも参加できませんでした。参加したくなかったのかも知れません。彼らはあまり他人と接触したがらないのです。主人は祭りの時のご馳走は食べずに持ち帰り、家族と分け合っていました。おじろくおばさも家族ですから、家族と分け合って口にすることはできました。

おじろくおばさという風習が生まれた時代背景

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1673年に幕府が出した分地制限令から、農民でも嫡子単独相続が定着しました。家督を相続するのは長男だけです。この時代の名残でしょうか、日本では長兄制度の傾向がまだ根深く残っています。

長男さえいれば、先祖代々が残した土地を受け継いでいけます。家という単位で考えたときに、長男さえいれば、あとは必要ない厄介者だったのです。でも家の者も村の者も厄介者と感じてはいない、むしろ重宝しています。それにしても戸籍の表記が厄介とはどんな社会なのか。

農地の少ない山岳地帯だった

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天竜市神原地区は山岳地帯でした。冬の寒さは厳しく一族は肩を寄せ合って暮らすような土地です。一人が富めば一人が貧しくなるような厳しい暮らしを強いられていたのです。林業で生計を立てるといっても、日々の現金収入はないに等しい状況で、次の現金収入まで、畑作で繋ぎます。

狭い畑で採れた作物を家族で分け合って食いつなぐような暮らしです。農業や漁業と違い、木が育って現金になるのは一年単位ではないからです。植樹してから30年先、60年先を見据えての仕事です。日々の暮らしを支えるのは薪を売ったり、炭焼きが頼りでした。

人減らし の意味合いも大きい

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狭い土地で食べて行くのには、結婚を制限して人口を抑制するしかなかったのです。人が増えれば、食べる口が増えることになります。長男は土地を相続する代わりに一族を養うため、厄介が増えることを恐れました。必要なのは地面を相続できる跡取りだけなのです。働き者の娘なら、貰い手があるかも知れません。

若いうちは貰い手を探すこともしましたが、どの家も食い扶持ぎりぎりの生活で、嫁をとるゆとりもないのです。また自分たちがおじろくおばさであることはわかっています、どうあるべきか教え込まれています。他のことには寛大な親も、兄との上下関係は教え込みます。生涯兄を手伝うように仕込まれているのです

16世紀~17世紀から始まり、昭和にも数人が存在した

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それだけに厳しい土地だということです。生きて働く以外に考えることもないような仕組みになっていました。朝早起きて家畜の世話をして、夜まで田畑で働いていれば、衣食住は保証されています。このあたりの村々はどこもそれほど変わりません。

おじろくおばさはまだ他家に行くよりも生まれ育った家のほうが、なんぼかましだったのです。だから、彼らは家のためによく働いたといいます。生まれて育った家で小遣いも与えられないのはむしろこのあたりでは、あたりまえのことでした。

おじろくおばさの精神疾患と人格

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暗い家の隅に丸まった背中の者がいても、来客は話し掛けません。または誰かいるか?と問いかけます。誰もいないと返事が返ります。彼らは誰でもないのです。この家の厄介者で、なんの権利も、なんの権限もありません。かかわらなければ問題は起こりません。

おじろく同士、おばさ同士で話しをしないのかと聞きとり調査の時の質問には話したくもないし、話しても面白くもないと答えました。結局、精神科医は彼らは分裂病なんだろうか?と疑問を残します。

精神疾患によって人付き合いも困難で常に無表情

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目に精気がありません。深く刻まれたしわには苦悶の表情はあっても笑うという表情はありません。笑えるような人生ではなかったのです。腹いっぱいにならなくとも文句を言う先もありません、そんなものなのです。悲しいという感情も持たなかったと言います。

生きる意外に目標はありません。死ぬまで生きるような暮らしに、希望など見出せません。早くお迎えが来ないかと、ぼんやりした頭で考えます。想像ではありません。少し前のこの国の山間ではよくある話で、年寄りがよく呟く言葉でした。

幼少期は普通に育つ

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幼少期は家族の一員として普通に育っていくのですが、教育は最低限しか受けさせません。昭和の時代でも、下の子供を背負って学校に行きます。弟や妹を背中にくくりつけて、学校に行きます。家族総出で暗くなるまで仕事をします。義務教育が終わればひたすら労働です。学校にも行ったのか、行かなかったのか。義務教育の制度も名ばかりでした。

町がいくら発展しようが田舎の暮らしが楽になることはありません。今よりも酷い格差社会を背景におじろくおばさは存在していました。たまたま発覚しただけです。神原村だけではないのです。日本はまだカーストも存在していました。そこは行政の手が届かない村であり、家でした。

成長するにつれ奴隷として扱われ、それに適応した人格へ

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そんな土地で先祖代々過ごしてきた者にとっては、出て行け、追い出すぞ!と言われることが何よりも怖かったのです。1964年『精神医学6月号』に近藤廉治のレポートが載りました。インタビューを試みたものの彼らはほどんど話しません。催眠鎮静剤のアミタールを注射してのインタビューになりました。

彼らはいつも身ぎれいな服をきちんと着ていたそうです。自分の身の上が不幸だとは思っていません。今この状態でいられることに満足しています。これは幼少期から、枠からはみ出すことを抑えつけて育てた極端な洗脳です。自分の意思など持ったらこの閉ざされた社会では生きて行けません。人の悪口など持ってのほか。疑問は持ちません。

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レポートでは趣味を持たないと言っていますが彼らは労働を負担と感じていないので、暇なら藁をなうとか、繕いものをするとか、労働と趣味の区別がないだけです。よくも悪くもこれより他生きるすべを知らなかったのです。そうなると広域の社会問題です。神原村の問題ではありません。性質は至って素直で、甥や姪の世話もよくします。

おじろくおばさのいる家は栄えると重宝がられていますが本人はそれで満足だと話すのです。あるいは、この医師は田舎の暮らしの経験がないのではないかと、ある年齢の山間部の者なら、こんな無表情で寡黙な老人は幾らでもいました。社会と付き合う必要もないですから、面倒なことは家長がやってくれます。

おじろくおばさはこの風習に反抗できなかったのか?

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おじろくおばさは生まれたときからこの環境のなかにいたので、暮らしに対しての疑問がないのです。ご飯を食べられない、飢えるより辛いことがあるのでしょうか。少なくとも飢えるときには家族一緒です。

反抗する気持ちが芽生える隙がないのです。信頼できるのは、一日中こき使う家の者だけなのです。理不尽な使い方はしません。嫌な寝ころんでしまえばいいのです。病気になれば世話もしてくれます。生涯で彼らが怒った姿を見たことがないといいます。

幼少期からの刷り込みで自然に状況を受け入れている。

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おじろくおばさはずっとこの家で生活しています。外に行けばバカにされたりじゃけんにされたりするので、家がいいのですよ。少なくと親族であることは事実ですから、おじろくおばさはに暴力は振るわないのです。

病気になられたら困りますし、寝込まれたら大変です。とりあえず、面倒は見ます。三度の飯は与えます。寒くないように着物も着せます。それだけで、衣食住には足りますから。先祖代々文句を言う者などおりませんでした。

外界と上手く関われず戻ってくる者も

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どんなきっかけで家を出されたのか、経緯が書かれていないので分かりませんが、小銭さえ持たない彼等が家を出るのはよほどのことがあったと想像できます。食べていけるのなら、そこで家を守るのが仕事と刷り込まれています。外界と遮断された世界に生きた者が交れなかったのもうなづけます。

おじろくおばさが家を出るのは、親が亡くなり長男が跡を継いだときだったり、嫁が入ったときだったりしました。自分がいることで、この家の負担も限界だと感じたときに家を出ます。死に場所を求めて死にきれなく戻ることもあります。彼らは語りませんから事実はわかりません。いつのまにかいなくなり、いつのまにか部屋の隅に座っています。

おじろくおばさの問題点

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本当につい最近まで日本にこんな制度があったのかと驚くばかりですが、それは日本社会が未だに過去の封建制を引きずっているからです。元々日本は身分制度を土台としてきました。武士が1番偉いと決められていたのです。

意義など唱えたらたちまち打ち首です。農業などの1次産業が身分制度の2番目だとは到底信じられないと、その理不尽な内容は授業にも度々出てきました。農民が2番目に偉いとしたのは、この悪しき制度の隠れ蓑だったのです。

人格を認めず奴隷化してしまう

おじろくおばさはあってはならない制度でした。人を家畜のように扱い奴隷化してしまう制度は、今の時代では到底信じがたく受け入れることはできません。家長が土地をたくさん持っていた場合は田畑を分けて独立することもあったようです。

年貢を領主に納める制度もある地域では未だにあります。お互いの利便性と領主に対しての信頼関係が出来上がっているのです。表向きは小作人とは言っていないのです。まだまだ日本には時代から取り残された立ち遅れた地域が存在します。

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