無実の罪で斬首刑となったアン・ブーリン|強く生きたその生涯をご紹介

アンブーリンは決して美人では無かったものの、フランス留学を経て身につけた洗練された立ち居振る舞いによりイギリスのヘンリー8世の王妃にまで成り上がった人物です。しかし、そんな彼女も最後は娘のエリザベス1世を残して無実の罪で処刑されてしまいます。この記事では、イギリス国教会の設立の発端ともなっているこのアンブーリンの激動の生涯をじっくりご紹介していきます。

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アンブーリンってどんな人?無実の罪で処刑された悲劇の王妃

アンブーリンとはどのような人物だったのでしょう。日本ではもしかすると名前も今知ったという方も多いのではないでしょうか。彼女は誰と結婚し、どのような生涯を送ったのでしょう。まずは大まかにアンブーリンについてお伝えしていきます。

アンブーリンはヘンリー8世の2番目の王妃

アンブーリンは当時の国王ヘンリー8世の2番目の妻であり、王妃の座についた女性です。彼女は、アンと知り合った当時はまだ前妃キャサリンと結婚していたヘンリー8世が離婚してまでも手に入れたがった聡明な女性でした。

悲劇の運命をたどることになったアンブーリン

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頭脳明晰で魅力ある女性であったアンブーリン。王妃の座にはついたものの、後継者となる男児には恵まれず、最終的に王の心は離れ、様々な罪状を言い渡されついには処刑されてしまいます。ここからは詳しく彼女の波乱に富んだ生涯に迫っていきましょう。

アンブーリンの出生からヘンリー8世に出会うまで

アンブーリンはどのようにして育ち、国王と出会い、王妃となるに至ったのでしょうか。彼女は英才教育を受けながら育ち、幼いころから類い稀な語学力を発揮しました。まずは彼女の生まれからヘンリー8世に出会うまでの経緯を紐解いていきましょう。

16世紀初めに農民の家系で生まれたアンブーリン

アンブーリンの曾祖父は地方の農民の家系でしたが、ロンドンに出てからは帽子屋として成功して財を築き、ついにはロンドンの市長を務めるまでになりました。それからブーリン家は娘や息子を伯爵家と結婚させるなどして社会的地位をどんどん上げていきました。ブーリン家は上昇志向の強い家系であったようです。

アンの父であるトマス・ブーリンはラテン語やフランス語に秀でており、宮廷で外交官を務めていました。その血を色濃く受け継いだアンブーリンは1501年ごろに生まれ、一家は1504年にケントという町のヒーヴァー城へ移り住みます。その城はトマスが自身の父であるウィリアムから相続したものでした。

現在のヒーヴァー城

アンブーリンが暮らしたヒーヴァー城は、現在ではアンブーリンの記念館としての役割を担っています。その美しい庭園には季節の花々が咲き乱れ、城内には当時の貴重な品々が数多く展示されています。

フランスへ留学!洗練された立ち居振る舞いを身につける

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1515年、初めにアンの姉メアリーが宮廷での仕事のためにフランスへ行きますが父トマスは数ヶ月のうちに彼女を呼び戻し、代わりにアンが送られます。彼女は6年の歳月をフランスで過ごし、物事を吸収しやすい10代であったアンのその立ち居振る舞いはみるみる洗練されていきました。

アンブーリンはイングランド出身でフランス国王に嫁いだメアリー・テューダーの付添人も務めます。メアリー・テューダーはヘンリー8世の妹でもありました。アンのフランス語の堪能さとフランス文化への親しみは、おそらくメアリーテューダーにとってとても貴重な存在になっていただろうと言われています。

イギリスに帰国したアンブーリンはキャサリン王妃の侍女に

帰国したアンブーリンは、キャサリン王妃の侍女の1人として加わることとなり、同じく先に侍女をしていた姉メアリーなどとともにダンスパーティーに参加し宮廷デビューを飾ります。「彼女は完璧だった」そう記録に残されています。

そこでアンブーリンはヘンリー8世と出会います。先に恋に落ちたのはヘンリー8世の方でした。フランスでの6年のうちにアンブーリンは国王をも虜にする魅力的な女性となって、祖国へ帰ってきたのでした。

多才だったアンブーリン

彼女はいとも容易くダンスを踊り、美しい声で歌い、リュートなど数種類の楽器を奏でることができました。流暢なフランス語を話し、教養のあったアンブーリンのウィットに富んだ会話は、周囲の誰もを楽しませることができたといいます。いつでもエネルギッシュでバイタリティー溢れる彼女は常に話題の中心であり、注目の的だったのです。

ヘンリー8世と結婚!2番目の王妃となったアンブーリン

こうしてヘンリー8世に見初められ、彼女は何度も贈り物やラブレターを受けます。ヘンリーからの初めての贈り物は金のブレスレットで、後に結婚してからも彼は愛の印としてアンにいくつものダイヤモンドやさらなる金のブレスレット、指輪やネックレスなどを贈り続けます。ここからは2人の結婚までの足取りを追っていきましょう。

アンブーリンの勝気な性格がヘンリー8世のハートを射止める

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アンブーリンはヘンリー8世の気持ちにすぐに応えたわけではありませんでした。「愛人になるのは嫌だ、床を共にするのならばしっかりと結婚の約束を」と毅然とした態度をとる彼女を、ヘンリーはさらに魅力的だと感じます。姉であるメアリーが先に彼の愛人となっていたということも、自分は愛人止まりは嫌だと考えた理由であるとされています。

アンブーリンは国王からのアプローチにも舞い上がることなく、しっかりとけじめをつけてほしいと迫ったとても強い女性でした。アンブーリンの他にも歴史上重要な場面では様々な強い女性たちが活躍しています。気になった方はこちらをご覧ください。

キャサリン王妃と無理矢理離婚したヘンリー8世

ヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚という問題の収束には6年もの歳月を要しました。この時期の最後には結婚に向け準備を進めていたアンがすでに妊娠していたことも、正式な後継者としての男児を望むヘンリーが事を急いだ原因だったようです。

キャサリン王妃はヘンリー8世との子をこれまで幾度となく流産しており、2人は一度は誕生した息子もわずか生後52日のうちに失くしていました。自身より6歳年上であった彼女の年齢的にもこれ以後に息子を望むことはできないだろうと、ヘンリー8世は彼女への気持ちを失わせていったようでした。

6年の時を経て結婚!2番目の王妃となったアンブーリン

1533年、ヘンリー8世はキャサリン王妃との長い離婚問題に終止符を打ち、彼はアンブーリンと結婚します。彼女は6月1日の聖霊降誕祭の日に正式に王妃へと即位しました。ですがヘンリー8世とキャサリン王妃との離婚は、あまりにも大きな波紋を広げたものであったのです。それはどのような問題であったのか次に詳しく見ていきましょう。

アンブーリンとの結婚問題がイギリス国教会設立に発展

ヘンリー8世はアンブーリンとの結婚のためキャサリン王妃との結婚の無効を認めるようローマ教皇に請願します。ですがそれが認められることはありませんでした。原因は2人の結婚が特例で認められたものだったからです。もともとキャサリンは15歳の若さで国王即位も果たせぬまま早世したヘンリー8世の兄、アーサーと結婚していました。

キャサリン王妃が、神に誓って彼との肉体関係はなかったとしたことにより、兄弟の妻と関係を持つことを禁じている旧約聖書「レビ記」の説には抵触しないとして、教皇ユリウス2世が彼女のヘンリー8世との再婚を特例で許可したという異例な結婚であったのです。

ローマ教皇庁はヘンリー8世とキャサリン王妃の離婚に反対

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特例で認めた神聖な結婚をまた覆すなどあってはならないとローマ教皇庁はヘンリー8世の請願を退けます。彼が幾度働きかけても同じことでした。また、この動きにはキャサリン王妃の甥であった神聖ローマ皇帝カール5世の働きかけもあったと言われています。彼はスペインの国王でもあったため、この問題は国際問題にまでも発展していたのです。

ローマ教皇庁と断絶し、イギリス国教会の設立へ

何をもってしてもアンブーリンと結婚したかったヘンリー8世は大胆な策に打って出ます。教会が自分を認めないなら自分を認める教会を作れば良いと、イギリス国教会(イングランド教会)を設立させてしまうのです。

ヘンリー8世はもともと熱心なカトリック信者であったためローマ教皇庁との信仰上の違いはなく、イギリスの統治者が教会の首長であるという点のみが違っていました。こうしてついに1533年、クレメンス7世の承認を勝ち得たヘンリー8世はアンブーリンを妃の座へと迎えました。

処刑されたトマス・モアやカトリック修道士

ローマ教皇庁と対立した時にヘンリー8世がアドバイスを求めたのが彼の信頼も厚く大法官(司法の最高責任者)であったトマス・モアでしたが、離婚を認める理由などどこにもないとはねつけられてしまいます。

そんなトマス・モアをヘンリー8世は国王への反逆罪として処刑してしまいます。また、彼は国王至上法を唱え、多くの国内のカトリック教会を解散へと向かわせます。反対した修道士たちは、皆処刑されてしまいました。

王妃になったアンブーリン!しかし悲劇のはじまりでもあった

こちらの時計はヘンリー8世がアンブーリンへ送った、2人のイニシャル入りの時計です。立ち塞がった困難にも負けず多くの犠牲を払いついに結ばれたヘンリー8世とアンブーリン。しかしアンブーリンを待ち受けていたのは幸せな日々だけではありませんでした。それはなぜだったのでしょうか。

あまり歓迎されなかったアンブーリンとヘンリー8世の結婚

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もともとはヘンリー8世を公私ともによく支え、仲も円満であったキャサリン王妃は一般の市民にも人気でした。そこへ突然颯爽とやってきた、派手な雰囲気をまとったアンブーリンでしたから、多くの国民も2人の結婚をよくは思いませんでした。悪女のような印象を与えてしまったのも、状況的にいくらか仕方がなかったのかもしれません。

エリザベス1世を出産したアンブーリン!しかし男児には恵まれず

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1533年9月7日、アンブーリンは最初の子を出産します。エリザベス1世の誕生でした。待望の子供ではあったものの、女の子だったことで男児誕生を待ち侘びたヘンリー8世は落胆しますし、両親からさえもその反応は厳しいものであったといいます。王妃という地位においては、世継ぎを生み出すことは何よりも重要なことであったのです。

娘のライバル

ヘンリー8世と前妃キャサリンとの間にはメアリーという娘が1人おり、アンと出会う前、一時ヘンリーは度重なる流産の末にやっと生まれたこの子を後継者にと考えていました。自分の子も女の子であったアンは先に生まれたその子が王位を継ぐのを恐れ、メアリーをエリザベスの侍女という下の地位へと落とし監視下におきました。

彼女こそが後に権利を回復しブラッディー・メアリーと呼ばれることになるメアリー1世でした。彼女自身がエリザベス1世を、妹とは認めるが王位は別であると反発したこともあり、ヘンリー8世とはその後アンブーリンの存命中は絶縁状態であったとされています。

アンブーリンは再び身ごもるも流産という結果に

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1536年の初め、アンブーリンは再び身ごもりますが、その子を腕に抱くことは叶いませんでした。しかもそれは待望の男の子であったとされていますから悲劇です。他でもない彼女自身の落胆はどれほどのものだったでしょう。

また初めは歓迎されたアンの話術でしたが、その聡明さと強気な性格から政治にも様々に意見したために次第に多くの敵を作ってしまったようです。「彼女にとって救世主となるはずだった存在を、彼女は流産してしまった」と歴史家たちは言いました。

ヘンリー8世に見限られたアンブーリンが迎える結末とは

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