白鳥由栄とは
昭和の脱獄王として、世に名を知られた白鳥由栄の名を知らぬ者が多くなってきました。もう一度彼の半生を思い起こしてみましょう。日本史上類を見ない白鳥の脱獄劇は2度の戦争を挟む激動の時代の実話です。詳しい情報をお伝えします。
昭和の脱獄王白鳥由栄の能力
一度脱獄して以来、彼の入る独居房からの脱獄は誰がみても諦めざるを得ないような頑丈な作りになりました。窓枠を補強したり、鍵をより複雑な者に取り替えたり、看守を増やしたり、一般の囚人より厳しかったのです。
能力①関節を自由に外せる特異体質
白鳥由栄は、一種の特異体質でした。自由に手足の関節を外すことができました。頭さえ抜ければ、自在に関節を外して狭いところでも通り抜けてしまうのです。白鳥由栄の脱獄は誰かに真似できるものではありません。
能力②力が強くて身体能力も高い
120㎞の距離を1日に走り、地中深くまで埋まっていた煙突の支柱を引き抜き、手錠の鎖を引きちぎるなどは何回もしています。怪力で身体能力も人並み外れていました。留置場からはいつの間にかいなくなっているような状況でした。
能力③頭が良くて器用
由栄4回の脱獄は誰にも暴力は振るわなかったのです。その手口は見事と言うしかなく、看守たちの間でも「一斉を風靡した男」と英雄のように取りだたされたのです。最初の脱獄は青森刑務所でした。
白鳥由栄4度の脱獄劇①青森刑務所
生活が荒れて素行が悪く、何度となく留置場に入れられますが、博打の金欲しさの窃盗が主なものでした。仕事はうまくゆかず、仕事を始めても 諦めざるを得なくなってしまいます。家族を抱えて常に切羽詰まって犯行に及ぶのです。
収監された経緯
由栄は頭が良く、手先も器用でした。1939年4月9日にとうとう殺人事件を起こしてしまいます。仲間といつものように窃盗に入った家で、家人と鉢合わせをして殺害、逃亡します。刃物で切られた家人はまだ息があり、犯人の特徴を伝えました。
白鳥は逃げのびたものの、共犯者は捕まってしまいました。白鳥は共犯者に義理立てしてか、自首しました。由栄は義理堅いところがあり、世話になれば恩を忘れない、どこかちぐはぐな変わり者の印象があります。共犯者の自供で彼は主犯とされたのです。
針金で合い鍵を作って脱獄
1936年6月に青森刑務に入所します。白鳥は作業中に偶然にも落ちていた針金を拾います。針金は、自分の汚物入れにごはん粒で貼り付けて隠しました。白鳥由栄の特徴に用意周到に準備をするとあります。
この時も、房の鍵穴に手が届くことを確認すると、風呂上りに鍵穴に手を押し付けて型を取り、入浴時間に風呂場のコンクリートで針金を削って合鍵を作ってしまいました。看守が目を離した隙に鍵穴に差し込み、開くことを事前に確認しておいたのです。
6月18日午前0時に脱獄、刑務所は隠蔽工作をして、午前5時半に脱獄したと報告されました。2日後に近くの共同墓地で逮捕されました。1200人の警察官のほか、消防団、青年団、在郷軍人など10,000人近い人間が捜査に出ています。
白鳥由栄4度の脱獄劇②秋田刑務所
白鳥は無期懲役の判決を不服として控訴しましたが、11月に宮城控訴院で無期懲役が確定しました。共犯の男は懲役10年の判決でした。白鳥は宮城刑務所から小菅刑務所に移され、1941年10月秋田刑務所に移ります。
収監された経緯
秋田刑務所では鎮静房が用意されていました。完全な独房で厚い銅板が張り巡らされ窓も鍵穴もない暗い場所です。小菅刑務所の扱いとは雲泥の差です。戦時下のため、戦時罪因移送令により由栄も移送の対象になったのです。
薄暗い独居房に手錠をした状態で放り込まれました。手錠は食事と手洗いの時だけ外されます。白鳥は改善を要求しますが、認められなかったため、再び脱獄を決意しました。冬になると、手錠は外されました。房を隅々まで見回し、鉄格子の一部の壁に腐っている箇所を見つけました。
ブリキ板を加工した鋸で脱獄
天井に登る練習を夜な夜な繰り返しました。練習をしている時にブリキ片と錆び釘を見つけ、板を加工してノコギリを作り出します。看守の交代時間の10分だけが作業時間でしたが、とうとう格子の回りを切り取ることに成功します。1942年6月暴風雨の日に雨に紛れて脱獄成功です。
白鳥は1942年9月中頃に小菅刑務所でお世話になった小菅刑務所の小林戒護主任の元を訪ねます。この人物は唯いつ、一般の受刑者として扱ってくれた人でした。小林に付き添われ由栄は自首しました。小林に会い自首するためだけの脱獄だったのです。
白鳥由栄4度の脱獄劇③網走刑務所
白鳥は小林に秋田でのひどいい扱いを話しました。その後は網走に移されました。小林は由栄をとにかく義理難い男だと話しました。秋田刑務所から鎮静房は無くなりました。白鳥の訴えが届いたのでしょう。
収監された経緯
年に網走刑務所に移され、凶悪犯用の独房に入れられ酷い扱いを受けて何回か手錠を引きちぎりました。とうとう鉄球がついた手枷と足枷をつけられてしまいます。あたっているところの皮膚が破れ、骨が浮き、蛆が湧きます。
糞尿は垂れ流し、仰向けになって寝ることもできない。風呂は入れない。白鳥はまたしても脱獄を決意します。時間をかけて、鉄格子をゆすり、緩ませ引き抜けるまでにします。手錠は外せないようにボルトで止めて、頭をハンマーで潰してあります。それでも、手枷足枷を緩めておきました。
味噌汁で鉄格子を錆びさせて脱獄
鉄格子に少しずつ根気よく味噌汁を垂らして錆びさせました。視察孔に頭を入れて、肩を脱臼させて、抜け出すことに成功します。天井までよじ登ると採光窓から外に出て、工場の支柱伝いに移動して網走刑務所からの脱獄に成功しました。
怖い監獄アウシュビッツ強制収容所の記事はこちらからご覧下さい。
白鳥由栄4度の脱獄劇④札幌刑務所
4度目の収監になりますが、脱走の常習犯として収監されるたびに、白鳥の扱いは悪化して、厳しいものになっています。噂道理網走刑務所では、寒さと劣悪な環境に何度も死ぬかと思ったと語られています。
収監される経緯
脱獄してから2年、白鳥は山に潜伏していました。山からおりる途中で終戦を知ります。札幌に向かおうと下る畑で泥棒と間違われ、潜んでいた男に棒で殴りかかられて相手を殺害してしまいます。正当防衛で殺意はなかったと主張した一件です。
そこで逮捕となり死刑の判決が出ました。1947年4月に札幌刑務所に入ります。24時体制で監視されて、窓やドアは補強されていました。それでも白鳥は脱獄を計画します。今度の材料は桶のタガでした。
床下にトンネルを掘って脱獄
桶のタガと釘で、ノコギリを作りました。目をつけたのは床でした。根気よく床を削ります。1947年3月に床に穴を開けて床下を食器と手で2mほど掘り進み脱獄成功。39歳の年でした。4回目の脱獄成功です。2m堀り進むのに手は血だらけになりました。
白鳥は札幌にきたときに、「なんど脱走してもまた捕まるだけだ、そろそろおとなしくしてみたらどうか」といわれましたが、自分には殺意はなかった。必ず脱走してやると豪語しました。まんまと脱走に成功しました。
なぜ白鳥由栄は脱獄するのか?
白鳥由栄は1907年7月31日に生まれました。出生地は青森県東津軽郡荒川村筒井という寒村で生まれ、3歳で父親は病死、家は維持できない程困窮します。母親は下の弟だけを連れて家を出たため、残された姉と2人、当時豆腐屋をしていた叔母に引き取られます。
白鳥由栄の生い立ち
白鳥由栄は豆腐屋を手伝っていましたが、素行は悪かったといいます。18歳のときに、蟹工船に乗りカムチャッカまで行って蟹漁をして缶詰をつくる蟹工船に乗りました。蟹工船の仕事はきつく、小林多喜二の蟹工船として文学作品になるほど過酷な労働でした。
22歳で結婚し、魚屋を皮切りに幾つか仕事を変えました。おりは世界大恐慌のまっ只中でどの仕事もうまく行きませんでした。賭場に入り浸り窃盗の常習犯として、青森県警の留置所に入れられますが、すぐに抜けだしてしまいます。
脱獄の理由
何回も脱獄するのには理由があるはずです。そのたびに刑は重くなるでしょう。これだけの執着心を持って、ノコギリを作り鉄格子を切るような動機を探ってみました。それは当時の獄中の酷い環境にあったのです。
勾留生活に飽きたから
なぜ脱獄するのかの問いには、未決が長く拘留生活に飽きたと答えています。白鳥由栄の拘留生活は一度目の逮捕依頼、外に出ていたのは脱獄から次の逮捕まで、通算しても3年と少しばかり、拘留生活が長くなると、脱獄の方法を考え始めるのです。1番弱い場所を見つけ、突破口を探して方法を考えるのです。
脱獄できると思ったから
後に白鳥由栄は言っています。人が作ったものを人が破れないわけがない。看守にも絶えず挑発的で、自分を人並みに扱ってくれた看守が休みの日を狙い脱獄しています。人に受けた恩義は忘れることはありませんでした。
命の危機を感じたから
冬には一重の薄い着物だけで極寒の網走刑務所に服役していたこともあり、手枷足枷をした状態で、アルマイトの食器を咥えて飯を食べ命を繋ぎました。人の体に蛆が涌くのを身をもって体験したと後に語っています。当時の刑務所は命の危機を感じるような厳しい所でした。
白鳥由栄の名言
白鳥には脱獄に対して彼なりの美学があったといいます。生涯4度の脱走はすべて単独で行い、だれ一人傷つけても巻き込んでもいません。ただ囚人たちの扱いが酷い刑務所や刑務官に対しての警告であり仕返しだったのです。
名言①「人間のつくった房ですから、人間がやぶれぬはずがありませんよ」
白鳥はのちに囚人たちにも英雄扱いされたのですが、そのときに、自分自身の口から語られた言葉が語録と揶揄されるように語られています。すでに白鳥は有名人で、時の人です。学校では白鳥ごっこなる遊びが流行りました。
「ヤモリを考えてもらえばいい」
これは網走刑務所から脱走したときのことを聞かれたときの答えでした。垂直な壁を上る訓練をひそかに開始しました。壁の角を背にして、両手足を突っ張りよじ登ります。もともと体力には自信があったのです。
「毛布をもう一枚下さい。さもないと脱獄します」
看守もきつかったのです。脱走者が出れば、懲戒解雇や減給になります。自分が担当の時にやられたらたまったものじゃありません。白鳥はそれを知りながら。低い声で看守に向かい「脱獄するぞ」と言っては怯えさせていました。
白鳥由栄4度の脱獄の果に
白鳥は4度の脱獄をして、世の中に名前を知られるようになりました。札幌刑務所を脱獄してから白鳥の足跡は完全に途絶えていました。脱獄してから295日後白鳥は札幌市琴似町で職質を受けます。大きな荷物を背負っていました。
与えたタバコが白鳥の心に響いた
彼が背負っていた風呂敷包は、1人でかつげる量ではありませんでした。この頃でもまだ怪力でした。その包に怪しいものはなかったのですが、調べるうち、日本刀が一振り入っていました。調べていた巡査は泥棒を疑ぐりました。
その男がタバコが欲しいと言ったので、当時貴重だった光を、一本渡しました。すると、男は脱獄犯の白鳥だと名乗ったため、巡査は派出所に連行しまさした。あまりにも有名な白鳥だと聞いて、巡査は震えました。
模範囚として服役・仮釈放
タバコ1本で張り詰めていた白鳥の気持ちは崩れたと、のちに本人が語りました。厳しい刑務所暮らしで、人の優しさに脆くなったのです。白鳥の護送に警察は頭を悩ませました。東京まで、普通の犯罪者なら一般人と同じ列車で護送されます。GHQは、特別に郵便貨物での護送を認めました。
護送官は6人、6日もかかる旅でしたが、白鳥は眠らないのです。超人的な体力を思い知ったと語られています。白鳥は懲役20年と無期懲役3年でした。死刑を免れていました。白鳥は逃げることをやめました。
府中刑務所の所長は白鳥が着くやいなや、手枷も足枷も外しました。すぐに外してしまうなら、意味がないと思ったのです。すぐに入浴させ、房には花が飾られていました。房の鍵も外されました。これで白鳥もまた脱獄する理由がなくなったと話しました。
白鳥由栄の最期
府中刑務所でおとなしく運動場所に座っている白鳥に所長が声をかけたことがありました。なぜ逃げないかと問われた白鳥は「もうつかれましたよ」と答えます。所長はこのとき白鳥の仮出獄の申請を決めたと言います。申請が叶ったのは10年後。白鳥は出所後保護師のところにいました。その後は転々と住まいを変えて日雇いの仕事をしていました。
白鳥由栄はとうとう病に倒れます。1972年2月24日三井記念病院にて、心筋梗塞のため死去しました。遺体の引き取り手はいないとされ、無縁として埋葬されることになりました。その時、仮出所している時に親しかった女性が、現れて遺体を引き取りました。享年71歳。富士山の見える墓地に眠っています。
白鳥由栄の家族
家族は探しても見つかりませんでした。とっくに絶縁状態になっていたのです。病で倒れるまでは、ドヤ街でひとり生活していました。人の暖かさを何年も忘れて過ごしてきたのです。犯罪は貧困から始まるのです。
姉と妻と子供がいる
白鳥が結婚したのは1929年22歳の時です。1935年に逮捕されたときには子供がいましたが、その後離婚しています。3歳年上の姉もいました。二度の戦争をはさみ、誰しも生きていくの厳しい時代でした。