白鳥由栄4度の脱獄歴!「昭和の脱獄王と呼ばれた男の驚きの能力と方法とは?

糞尿は垂れ流し、仰向けになって寝ることもできない。風呂は入れない。白鳥はまたしても脱獄を決意します。時間をかけて、鉄格子をゆすり、緩ませ引き抜けるまでにします。手錠は外せないようにボルトで止めて、頭をハンマーで潰してあります。それでも、手枷足枷を緩めておきました。

味噌汁で鉄格子を錆びさせて脱獄

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鉄格子に少しずつ根気よく味噌汁を垂らして錆びさせました。視察孔に頭を入れて、肩を脱臼させて、抜け出すことに成功します。天井までよじ登ると採光窓から外に出て、工場の支柱伝いに移動して網走刑務所からの脱獄に成功しました。

怖い監獄アウシュビッツ強制収容所の記事はこちらからご覧下さい。

白鳥由栄4度の脱獄劇④札幌刑務所

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4度目の収監になりますが、脱走の常習犯として収監されるたびに、白鳥の扱いは悪化して、厳しいものになっています。噂道理網走刑務所では、寒さと劣悪な環境に何度も死ぬかと思ったと語られています。

収監される経緯

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脱獄してから2年、白鳥は山に潜伏していました。山からおりる途中で終戦を知ります。札幌に向かおうと下る畑で泥棒と間違われ、潜んでいた男に棒で殴りかかられて相手を殺害してしまいます。正当防衛で殺意はなかったと主張した一件です。

そこで逮捕となり死刑の判決が出ました。1947年4月に札幌刑務所に入ります。24時体制で監視されて、窓やドアは補強されていました。それでも白鳥は脱獄を計画します。今度の材料は桶のタガでした。

床下にトンネルを掘って脱獄

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桶のタガと釘で、ノコギリを作りました。目をつけたのは床でした。根気よく床を削ります。1947年3月に床に穴を開けて床下を食器と手で2mほど掘り進み脱獄成功。39歳の年でした。4回目の脱獄成功です。2m堀り進むのに手は血だらけになりました。

白鳥は札幌にきたときに、「なんど脱走してもまた捕まるだけだ、そろそろおとなしくしてみたらどうか」といわれましたが、自分には殺意はなかった。必ず脱走してやると豪語しました。まんまと脱走に成功しました。

なぜ白鳥由栄は脱獄するのか?

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白鳥由栄は1907年7月31日に生まれました。出生地は青森県東津軽郡荒川村筒井という寒村で生まれ、3歳で父親は病死、家は維持できない程困窮します。母親は下の弟だけを連れて家を出たため、残された姉と2人、当時豆腐屋をしていた叔母に引き取られます。

白鳥由栄の生い立ち

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白鳥由栄は豆腐屋を手伝っていましたが、素行は悪かったといいます。18歳のときに、蟹工船に乗りカムチャッカまで行って蟹漁をして缶詰をつくる蟹工船に乗りました。蟹工船の仕事はきつく、小林多喜二の蟹工船として文学作品になるほど過酷な労働でした。

22歳で結婚し、魚屋を皮切りに幾つか仕事を変えました。おりは世界大恐慌のまっ只中でどの仕事もうまく行きませんでした。賭場に入り浸り窃盗の常習犯として、青森県警の留置所に入れられますが、すぐに抜けだしてしまいます。

脱獄の理由

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何回も脱獄するのには理由があるはずです。そのたびに刑は重くなるでしょう。これだけの執着心を持って、ノコギリを作り鉄格子を切るような動機を探ってみました。それは当時の獄中の酷い環境にあったのです。

勾留生活に飽きたから

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なぜ脱獄するのかの問いには、未決が長く拘留生活に飽きたと答えています。白鳥由栄の拘留生活は一度目の逮捕依頼、外に出ていたのは脱獄から次の逮捕まで、通算しても3年と少しばかり、拘留生活が長くなると、脱獄の方法を考え始めるのです。1番弱い場所を見つけ、突破口を探して方法を考えるのです。

脱獄できると思ったから

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後に白鳥由栄は言っています。人が作ったものを人が破れないわけがない。看守にも絶えず挑発的で、自分を人並みに扱ってくれた看守が休みの日を狙い脱獄しています。人に受けた恩義は忘れることはありませんでした。

命の危機を感じたから

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冬には一重の薄い着物だけで極寒の網走刑務所に服役していたこともあり、手枷足枷をした状態で、アルマイトの食器を咥えて飯を食べ命を繋ぎました。人の体に蛆が涌くのを身をもって体験したと後に語っています。当時の刑務所は命の危機を感じるような厳しい所でした。

白鳥由栄の名言

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白鳥には脱獄に対して彼なりの美学があったといいます。生涯4度の脱走はすべて単独で行い、だれ一人傷つけても巻き込んでもいません。ただ囚人たちの扱いが酷い刑務所や刑務官に対しての警告であり仕返しだったのです。

名言①「人間のつくった房ですから、人間がやぶれぬはずがありませんよ」

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白鳥はのちに囚人たちにも英雄扱いされたのですが、そのときに、自分自身の口から語られた言葉が語録と揶揄されるように語られています。すでに白鳥は有名人で、時の人です。学校では白鳥ごっこなる遊びが流行りました。

「ヤモリを考えてもらえばいい」

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これは網走刑務所から脱走したときのことを聞かれたときの答えでした。垂直な壁を上る訓練をひそかに開始しました。壁の角を背にして、両手足を突っ張りよじ登ります。もともと体力には自信があったのです。

「毛布をもう一枚下さい。さもないと脱獄します」

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看守もきつかったのです。脱走者が出れば、懲戒解雇や減給になります。自分が担当の時にやられたらたまったものじゃありません。白鳥はそれを知りながら。低い声で看守に向かい「脱獄するぞ」と言っては怯えさせていました。

白鳥由栄4度の脱獄の果に

白鳥は4度の脱獄をして、世の中に名前を知られるようになりました。札幌刑務所を脱獄してから白鳥の足跡は完全に途絶えていました。脱獄してから295日後白鳥は札幌市琴似町で職質を受けます。大きな荷物を背負っていました。

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