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白鳥由栄の家族
家族は探しても見つかりませんでした。とっくに絶縁状態になっていたのです。病で倒れるまでは、ドヤ街でひとり生活していました。人の暖かさを何年も忘れて過ごしてきたのです。犯罪は貧困から始まるのです。
姉と妻と子供がいる
白鳥が結婚したのは1929年22歳の時です。1935年に逮捕されたときには子供がいましたが、その後離婚しています。3歳年上の姉もいました。二度の戦争をはさみ、誰しも生きていくの厳しい時代でした。
知り合いに当時官僚だった男がいます。人生成功するのは、塀を歩き、向こうに落ちなければいいのだと。言っていたのがいつまでも引っかかっています。要領がいいものが得をするのなら、正直に言いたいことを言う白鳥のような者には世の中は生きにくいところです。
一度会いにいくも…
青森に会いに行ったそうですが、洗濯を干している娘の姿を遠くから眺めるだけで声をかけることができなかったようです。噂によると青森には白鳥の孫がいるそうですが、詳しい情報はありません。
親族の行方は不明
親族は姉と長女の2人ですが、どちらもすでに絶縁しています。白鳥が亡くなったときには遺体の引き取り手がなく、日雇い時代に隣に住んでいた少女がすでに大人になっていて、当時親切にされたからと、遺体を引き取り埋葬しました。
白鳥由栄の美学
白鳥は脱獄を思いつくと時間をかけて用意周到に準備しました。その準備のうちに、看守への配慮もありました。自分によくしてくれた看守への恩を忘れずに、その看守が休みの日に脱獄するのです。そのとき、若い看守は1年間の減俸だけで済みました。
白鳥は刑務所の中でも素行が悪く、人としての扱いをされる以前に信じてさえもらえなかったのです。白鳥にとって人として普通に扱ってくれた、この若い刑務官は生涯胸にとどまっていました。話しかけてくれたのが嬉しかったのだと言います。
脱獄の際に人を傷つけない
誰かを殴ったり傷つけたりすることはなく、常に単独で実行に移していました。4度の犯行ともに単独なのは偶然ではなく彼の美学だとされています。その美学がのちに世間に知れることになり。ドラマとなり、映画になりました。
恩は忘れない
白鳥は自分を人として扱ってくれた者へ恩義を感じるのです。小菅刑務所の小林警護主任の存在は、われわれ庶民の心にも温かい火を灯します。むゆ彼との再会は、白鳥も本当に救われた思いだったのでしょう。白鳥は、その後模範囚として刑期を待たずに出所しました。
脱獄は看守にとって恐怖
白鳥は看守にとってはやっかいな存在でした。看守は2人一組の監視体制ですが白鳥は24時間体制で、二組の監視をつけています。白鳥はいろいろ待遇の改善や要求をしてきます。要求が叶わないと「脱獄してやろうか」と野太い声で脅すのです。
戦時中は看守も生きるだけで精一杯の時代でした。監獄では囚人たちに三度の飯が支給され、出される量も決められています。戦時下においては、看守の方が食べるのに困窮していて、なかにはガリガリに痩せている者もいました。どちらが囚人かわからないような状況でした。