白鳥由栄4度の脱獄歴!「昭和の脱獄王と呼ばれた男の驚きの能力と方法とは?

脱獄時当直だった者が罰せられる

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減俸、配置転換、降格など、過失の度合いによって違います。その施設の長ならば、責任は重大です。また房の連帯責任も課せられます。当直の者は厳しい処分が待っています。白鳥のような脱獄常習犯に厳しくなるのはこんな理由があるのです。

白鳥をみて脱獄を試みる者が多発

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誰かが脱獄すると、隙があると思われ脱獄を試みる者が出てきます。脱獄は付近の住民ばかりでなく、捕まるまでは皆を危険にさらすことにもなりますから、絶対にあってはならないことなのです。脱獄は未だに毎年起こっています。

まして、英雄扱いも本人のためにならないことは明白です。第二次世界大戦の敗戦で民主化の風潮が強くなり、囚人でも、人としての尊厳が認められてきました。ただ見えない場所だけに、未だに警察や刑務官に横暴な振る舞いをする者は潜んでいます。白鳥は訴え続けたのです。

個性際立つ日本の脱獄犯

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日本は世界的にも脱獄が少ない国ですが、それでも脱獄は後を絶ちません。白鳥の他にも世間を騒がせた脱獄事件があります。脱獄に課せられる罪は、単純逃走罪で、懲役1年未満、手錠や鍵などを破壊したり、脅迫や暴力があれば、加重逃走罪が適用され、懲役3ヶ月以上5年未満になります。

西川寅吉

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1854年〜1941年、5寸釘の寅吉で知られています。もっとも脱走回数が多い男です。寅吉は14歳の時、賭場でイカサマをして殺された叔父の仇を討ち、親分と子分の4人を殺してしまいました。無期懲役になりましたが、まだ1人残っていると脱獄、賭場を探し回っているうちにイカサマを身につけました。

賭場の手入れで捕まり秋田の集治監に収監されます。ここも脱走、静岡の賭場で荒稼ぎをし、袋叩きにあうが相手数人に怪我をさせて逃走、非常線が張られました。逃げる途中で5寸クギを踏み抜いたまま12㎞を走り力つき捕まりました。当時既に全国に知られていました。

以後も壁に濡れ雑巾を張り付けて壁を越えたり合計6回の脱走をして、晩年はおとなしく服役して刑期を終えました。72歳になって出所する時に興行師が接近してきたため出所日をずらして対策を取りましたが、結局利用され「5寸クギの寅吉劇団」して全国をまわりました。最後は故郷の息子をたより静かな老後を送りました。

渡邊魁

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脱獄犯でありながら裁判に勤めてていた人物です。1880年三井物産長崎支店の検印を盗み、銀行の金を横領しました。書類の改竄もしていたため終身刑になりました。長崎監獄に収監されました。規律を何度も犯したため三池集治監に移送されます。

レンガや石垣に囲まれた厳重な作りでしたが、21日間で脱走しました。大分で潜伏した後辻村庫太という偽名で大分始審裁判所で雇用され竹田治安裁判所で採用になりました。渡邊魁は裁判所判事まで登り詰めます。渡邊魁と辻村判事が似ていると噂がたち、検事と警察が調べた結果同一人物と断定します。

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辻村こと渡邊が出張中同居していた父親と弟を逮捕します。魁もその後旅館で逮捕されました。父親が長崎裁判所の職員であったため手引きをしたのです。懲役6年の判決を受けましたが、無罪の判決を受けています。法の裏をかき、後に法改正をしました。

市川一家4人殺人事件の全貌はこちらからご覧ください。

日本には塀のない刑務所がある

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塀のない刑務所は全国に4箇所あります。正しくは解放的処遇施設とたいいます。1番新しくできた松山の施設でもすでに50年経っています。それ以来つくられていないのです。1955年の国連決議が契機となり被拘禁者処待遇最低基準規則が規定されました。

網走刑務所二見ヶ丘農場

20人が和牛の酪農作業をしています。1896年開設されました。740人の受刑者のうち、選ばれた20人のみが入れる施設で、半年から1年程度で仮出所して行きます。網走刑務所和牛はブランド和牛として、市場に出ています。農場の周囲に塀はありません。

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