一説には座敷わらしが家を出てしまった故に起きた災いだとも囁かれていました。やはり災難をも引き寄せる妖怪なのでしょうか。
座敷わらし旅館で有名な「緑風荘」が全焼
テレビや雑誌などでも数多く取り上げられるほど有名な旅館「緑風荘」は1955年に旅館業を開始し、以後、不思議な体験ができることで有名になりました。
今日まで多くの著名人や一般客の宿泊を受け入れています。がしかし、2009年10月に築300年以上もの歴史を持つ母屋を含めたほとんどが全焼する火事に見舞われました。
原因は浴室ボイラーの過熱か
火災は浴室のボイラーが過剰に熱を持ち発火した、また配電盤がショートしたなど、さまざまな憶測が今も飛び交っています。
2キロ先からも火の手が上がっているのが見えたほど大きな火事でしたが幸いなことに延焼することなく鎮火しました。
実は座敷わらしのおかげ?火災でも怪我人は0
大火でも宿泊者、従業員とも死傷者はゼロでした。これは座敷わらしのおかげではないかとも言われています。
また満室続きで満身創痍であった従業員が営業停止により身体を休めることができたことや、老朽化した建物が東日本大震災の直面を免れたことなども、実は座敷わらしのおかげではと当館の経営者は語っています。
座敷わらしにまつわるちょっぴり怖い伝承
それは一体何者なのか?ということは多くの民俗学者が研究してきました。
中でも遠野物語の著で有名な民俗学者、柳田國男とともに活動をした遠野出身の佐々木喜善は「自分の家にも住み着いていた」と話すほど身近な存在であったと言います。ここではその佐々木喜善を始め、学者が推測する座敷わらしの起源を紹介します。
佐々木喜善:間引きされた子の幽霊説
昔、貧しい農村地帯では「間引き」といって必要以上に子が生まれたり、障害を持った子が生まれると子殺しをしていたという伝えがあります。
その殺された子が幽霊となって現れ後に座敷わらしと呼ばれるようになったという説を佐々木喜善は唱えています。こちらには水子の都市伝説に関連して間引きの記事が掲載されています。
殺された子は墓には埋葬されなかった
この「間引き」によって殺められた子は墓に埋葬されることなく、土間など家の中に埋められました。
中でも障害を持った子は神への生贄にされることもあり、その子が後々家の守り神となって住み着くようになり、座敷わらしになったとされています。
佐々木喜善の家にも座敷わらしがいた
佐々木喜善の家にも住み着いていたそうです。しかし、本人の代になると途端に家を出て行ったそうで、その姿を目撃した喜善は全財産を処分して家を去り、仙台に移り住みました。しかし患っていた病が悪化し47歳でこの世を去ってしまいます。
河童説
この説を唱える人は非常に多く、家の近くの淵で暮らす河童がある時から家に居座るようになり、そのうちに座敷わらしになったというものです。
この場合、幸福を呼び込む者というよりは、悪戯をする小僧という印象が強く、どちらかというとマイナスなイメージをかぶせられています。
高橋貞子:大工の呪い説
岩手県出身で作家、民話収集家の高橋貞子は著書の中で、大工や畳職人が家を建てる際に、仕事の依頼者との折り合いがうまく行かず、その腹いせに呪いをかけたという説を唱えています。
木片を薄く剥いだ呪いの人形を柱などに仕込み、それが座敷わらしになったと説明しています。