牛島辰馬最強伝説!不敗と呼ばれゴールデンカムイ牛山のモデルに!その強さに迫る

木村雅彦は1917年9月10日生まれの柔道家。柔道選手として将来有望であった母校の後輩木村政彦を見つけだし、東京の自宅で生活の面倒を見ながら激しい稽古をつけていったのです。そうしてのちに柔道王呼ばれることとなる木村政彦を育て上げたのです。

のちに木村政彦は”鬼の木村”と呼ばれるようになったが、これは師匠である牛島辰熊の”鬼の牛島”から受け継がれたものだと言われている。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられるほどの選手となった。

天覧試合制覇を目指して鍛える

Kantasimo / Pixabay

肝吸虫により衰弱してしまったために自身が叶えることができなかった天覧試合制覇を木村政彦に制してもらうべく、毎日10時間にも及ぶ稽古を行い強さを鍛え上げたのです。自身の夢を弟子木村政彦に託したのだ。

木村政彦は柔道の研究に熱心だったこともあり、手の腕を帯や道着を使って縛って抑えるという当時では斬新とされた技術を開発した。他にも寝技や腕緘に関する新たな技法を開発したりするなど、現在の柔道に影響を与えている。

「師弟の鑑」と言われた愛と絆

skeeze / Pixabay

木村政彦の天覧試合優勝を強く願っていた牛島辰熊は毎夜水行することで精神面でも応援し支えていました。ついに悲願の優勝を果たした木村政彦と師匠牛島辰熊の師弟愛は”師弟の鑑”として世間から賞賛された。

空手家大山倍達も牛島辰熊を慕う

Comfreak / Pixabay

大山倍達(ますたつ)1923年7月23日生まれの空手家。空手の重鎮であり最強なのは誰かという議論で必ず名前が挙げられる大山倍達も慕っていたひとりでした。強さだけではなく、思想家でもあったその生き様にも惹かれたのです。

昭和の巌流島も観戦

Samueles / Pixabay

巌流島とは1954年に行われた木村政彦と力道三の日本プロレス選手権の試合である。試合序盤では攻めたり攻められたりとを繰り返していたのだが途中力道山が木村政彦の顎にストレートパンチを放ち、状況をつかむ間もなく乱れ打ちの末のKO負けとなった。

プロレスでは顎にストレートパンチを食らわすなどルール上反則行為であった。リングマットが血まみれになったのを見て観客は騒然となり、憤慨した大山倍達は敗れた顛末のあまりの悔しさに牛島、木村の両名を叱責したと言われている。

牛島辰熊の最期

Alexas_Fotos / Pixabay

長きにわたり伝説を残し続けたが、ついに最期となるときが来てしまいます。老いても自身を鍛えることをやめずに高みを目指し続けた結果、80歳にして昇段するという偉業を成し遂げてしまうのである。

亡くなる数年前に九段に昇段

composita / Pixabay

九段に昇段したのは、亡くなる数年前の1984年に講道館100周年を記念してのことだった。しかしそれまでの柔道の殿堂においても十分な実績が残していたこともあり、実質的な最高段位の十段に昇段していても不思議はないと言われていたのです。

81歳でこの世を去る

JillWellington / Pixabay

1985年5月26日、数々の伝説を残してこの世を去りました。妻や娘をもうけていたことはわかっていますが、詳しい死因などの記録は残されておらず、その最期はどのようなものだったのか謎に包まれています。

多くの伝説が生まれた柔道界の歴史

markusspiske / Pixabay

もともと柔道とはいつの頃から存在したのか知っていますか?実は古くからあった柔術を柔道として確立したのはそれほど昔の話ではないのです。現在の柔道を造り上げた人物や成り立ちを説明したいと思います。

始まりは武家の柔術

oadtz / Pixabay

はるか昔の12世紀頃に武家の間で合戦時に使われる武芸十八般といわれる武芸が発展していきました。その後戦国時代が終わりを迎えたのち江戸時代に武術のひとつとして柔術発展していったのです。

武芸十八般とは18種の武技の総称で時代や土地柄などによっても異なるが、柔道、弓道、剣術、槍術、居合抜刀術、薙刀術、棒術、馬術などがあげられまさに古き日本の戦い方の象徴ともいえるだろう。

NEXT 柔術から柔道へ