戦後最悪の凶悪犯罪「おせんころがし殺人事件」とは?
昭和の凶悪事件は数あれど、そのとびぬけた残忍さで現在も有名なのが「おせんころがし殺人事件」です。
怨恨どころか関係すらない通りすがりの人々や、ほんの小さな幼子まで、まるで草でも千切るかのように次々手をかけ、惨たらしく殺していった極悪非道の連続殺人。まずはその犯人について解説していきましょう。
おせんころがし殺人事件は栗田源蔵が起こした凶悪事件
事件は昭和27年、現在の千葉県鴨川市にある断崖の続く難所、おせんころがしと呼ばれる道で発生しました。犯人の名は栗田源蔵といい、ここで女性とその子供を惨殺しています。
またこの現場で起こした事件を含めて計8名を殺害している連続殺人犯でもあります。これが、本件が戦後最悪と名高い凶悪事件であるゆえんです。
栗田源蔵が母親を強姦のうえ殺害
栗田源蔵は近隣の駅で、夫に会うために出かけていた子連れの若い母親と出会いました。そしておせんころがしまで彼女を誘いだし、強姦の後、首を絞めて殺害します。
そこには彼女の子供たちも居合わせていましたが、犯人に慈悲の心などありませんでした。栗田にとって子供たちは道端の石と変わりがなかったのです。
「おせんころがし」から母子を崖の下へ投げ捨てる
犯行の邪魔をすると判断された子供たちは、絶壁から容赦なく放り落とされました。
また絞殺された母親の背には、まだおぼつかない幼子も一緒にいましたが、まるで荷物を捨てるかのように一緒に投げ捨てられたのです。それはもはや人の所業ではない、言葉を失う惨たらしさでした。
おせんころがし殺人事件の犯人「栗田源蔵」の生い立ち
なぜこれほどまでに残酷な、あまりにも良心を欠いた犯行ができるのか?犯人・栗田源蔵とはいったいどのような人物であるのか?
まずは彼ががどのような生い立ちを辿って、戦後最も凶悪と言われるほどの連続殺人犯になったのか、順にひも解いていくことにしましょう。
栗田源蔵は貧しい家で12人兄弟の3番目に生まれる
昭和元年秋田県に生まれ、川漁師を父とし、兄弟は11人という大家族の三男坊でした。
父は病弱であったためなかなか働けず、母がほとんど女手ひとつで切り盛りしている状態で、家計は貧しく常にひっ迫した状態であったといいます。そのような環境のため養育も行き届かず、放置同然の子供時代を過ごしました。
夜尿症からいじめにあった幼少期
栗田は幼い頃より夜尿症、いわゆるおねしょの癖があり、小学校に上がる頃になっても治ることがなく、学校でのいじめの原因になっていました。
当時は小学校も中退できたため3年生でやめてしまい、奉公に出ますがやはりこの症状が原因で次々移り変わることになります。
軍に入隊するも夜尿症のため2ヶ月で除隊
昭和20年、栗田は19歳になっていましたが症状は治まりませんでした。第二次世界大戦のため徴兵されますが、夜尿症が続いたため結局除隊してしまいます。
貧困からくる生活苦と孤独に加え、こうしてくりかえされる挫折と劣等感は、彼の人格を大きくゆがませる原因になりました。
おせんころがし殺人事件の犯人「栗田源蔵」の転落
幼少期より苦難の多かった栗田の人生ですが、ここまでは一般的な社会性を保っており、凶悪犯罪に手を染める人間とは思えません。
ですが終戦の頃をきっかけに、徐々に道を踏み外していくことになります。元来内気であった普通の青年に、いったい何が起きたのでしょうか?
北海道の炭鉱で攻撃的な性格に変化
後に栗田は北海道に渡り、炭鉱夫として重労働に従事しました。華奢であった肉体は否応なしに鍛えられ、また仕事仲間は気性の荒い乱暴者が多かったため、影響を受けた栗田も次第に粗暴にふるまうようになりました。
そういったやり方がなまじ肯定される環境だったため、彼は「乱暴な方が思い通りになる」とある種の自信をつけてしまいます。
米を盗んで売りさばき懲役刑を受ける
そのまま各地を移り住むうちに、窃盗などの犯罪に手を染めるようになり、やがて盗んだ米を不法に販売したとして逮捕されます。
翌々年には酔った勢いの殴り合いで捕まり、障害と殺人未遂の罪で収監、出所後に空き巣を働きまた逮捕されるなど、罪を繰り返すことに躊躇がなくなっていきます。
闇米ブローカーのリーダー格へ
26歳の頃、ついにはヤミ米の仲買人集団・総武グループのリーダー格となり、ハヤブサの源という異名で呼ばれるほどになっていました。
この時点で複数の前科を持ち、全国指名手配もされています。もはや気弱ないじめられっこの面影はどこにもなく、立派な「悪党」に出来上がっていました。
おせんころがし殺人事件の非情な全貌
そして千葉県に入った栗田は、ついに本題の、おせんころがしでの母子殺傷事件を起こすことになります。被害者である母親とその子供たちとはまるで面識のなく、初対面でした。
何の恨みもない夫人と幼子が狙われた動機は、あまりに自分本位で心ない、常人には理解できないものでした。
駅で栗田源蔵が好みの女性を見つける
事件当時、被害者の母子は興津駅(国鉄)で消息不明の夫を探していました。やがて最終列車も終わり駅が閉じられ、宿もなく困り果てているところに、栗田が目をつけます。
母親に下心を持った栗田は「子連れの女が夜道にいるのは危ない、家まで家まで送ってやろう」と親切を装って近づきました。
おせんころがしで子供を崖に投げ落とす
街灯のない道すがら、栗田は母親に執拗に迫りましたが、子供がいたこともあってすげなくあしらわれます。栗田は受け入れられなかったことに身勝手にも怒り狂い、ついには彼女に襲いかかりました。
そして、鬼のような剣幕に怯え泣く子供たちを石でめった打ちにし、断崖の下に投げ落としたのです。
泣き叫ぶ母親を強姦し絞殺
栗田は、我が子をはるか崖下に突き落とされ、錯乱している母親を押さえこんで強姦します。そして事が済んだあとはその場で首を絞め殺害、やはりおせんころがしのはるか下に突き落とします。
犯人にとって被害者は道具同然であり、欲望を満たすために利用し、用が済んだから放り捨てた、それだけのことでした。
おせんころがしから投げ捨てたあとにもトドメをさす
ただでさえ残忍極まりない事件ですが、犯人・栗田源蔵はここからも異常性を表します。衝動的な犯行にも関わらず、自分のしでかしたことに怯えたり、慌てたりすることもなく、被害者たちをきちんと殺しきれたか冷静に確認したというのです。
やがて闇夜の中、崖の中腹に母子らが引っかかっているのを発見します。
がけ下に引っかかっていた母子
岩場のおうとつに留められていた母子は、この時点ではかろうじて息の根がありました。そのことに気付いた栗田は自らも崖を下り、近づいてゆきます。
暗がりの中絶壁を降りるのは相当危険な行動ですが、何よりも被害者が逃亡し、警察を呼ばれることのほうが嫌だったのです。
石で母子を殴りトドメをさす
重傷を負い、倒れたままの親子3人を、栗田は手近な石をもってふたたび殴り続けました。そして今度こそ念入りに、完全に死亡したことを確かめて、ようやくその場を立ち去ります。
尋常ではない冷酷さと、常人では考えられない冷静さは、聞く者を身震いさせるほどの異常性です。
奇跡的に助かった長女
実は崖から落とされた時、当時11歳であった長女は運よく大怪我を免れ、草むらに身を隠していました。そのため犯人からの追撃にも発見されることなく、結果、唯一の生存者となりました。
もし一声でも悲鳴を上げていたら…、きっと犠牲者の数は「4人」に増えていたことでしょう。
おせんころがし殺人事件の犯人「栗田源蔵が」犯した犯罪
実はこの事件にはふたつの意味があって、上記の母子殺害事件の前後に、犯人・栗田源蔵が起こした別の殺人事件を含めた、連続殺人事件の総称として使われることがあります。
犯人は全国を転々としながら、おせんころがしの一件より前にも人を殺し、またその後も悔いることなく犯行を繰り返していたのです。
1948年三角関係の女性二人を殺害
最初の殺人は昭和23年に静岡県で起きています。当時栗田は複数の女性と同時に交際していました。そのうちの一人に結婚を迫られ、鬱陶しくなったという理由で最初の殺人を犯します。
またそのことを知り自首をすすめた別の女性も立て続けに殺害。この件は後に別件で逮捕された栗田が自供するまで発覚しませんでした。
1951年小山事件
その3年後、栃木県で栗田は再び凶行に走ります。盗み目的でふらついていたところ、ある家で赤子と若い母親が寝ていたため、そのまま侵入し強姦、そのまま絞殺し、着物など家財を盗んで逃走しました。
なお殺害した女性をふたたび犯す、台所のものを庭に埋める、大便をして去るなど奇怪な行動の目立つ事件です。
1952年強盗および強姦殺人
おせんころがしで起こした事件からわずか3か月後という短い期間で、栗田は畳みかけるように罪を重ねます。千葉市内において、民家に侵入しますが、家人である主婦に見つかったため絞殺、その後強姦。居合わせた叔母(60代)も包丁で刺し殺しています。
この事件で指紋が検出されたことにより、栗田源蔵はついに逮捕されることになりました。
おせんころがし殺人事件と別件で2つの死刑判決
数多くの凶行を重ねてきた栗田源蔵には死刑判決が下りました。それも別々の殺人事件で、それぞれ死刑が宣告されています。
つまり日本の裁判史上において初めて「死刑判決を2つ下された」人物ということになります。これは80年代に入るまで栗田が唯一の判例でした。
栗田源蔵は2つの死刑判決を受けた最初の判例
まずは昭和27年にまずは千葉県内で起きた事件、おせんころがしで発生した母子3名殺害と、市内の主婦・叔母の殺害事件で死刑判決が下ります。
翌年末には、三角関係女性2名殺害と、栃木県で起こした殺人に関しても同様の判決が下りました。現代に置き換えて考えても異例の事態といえます。