トニー谷とは?
トニー谷という大物芸人をご存知でしょうか。その見た目から芸風までとてもインパクトのある芸人なのですが、かなり昔に活躍したため知らない方が多いと思われるので、芸人・トニー谷についてわかりやすくご紹介します。
1950年代の人気芸人
1950年代に活躍した司会者で、その毒舌スタイルが当時は珍しくたちまち話題になり大人気となりました。もともと喜劇役者であり占領軍の劇場で身に付けたアメリカンスタイルのショービジネス仕込みの独特のしゃべりが特徴的で数々の流行語を生みだしました。
算盤・口ひげの独特のスタイル
見た目もたいへん特徴的で、個性的なメガネとイヤミっぽい口ひげといったまるで「おそ松さん」のイヤミを彷彿とさせる独特のスタイルを貫いていました。ソロバンを片手に持ち楽器代わりに鳴らしつつ歌を歌って繰り広げられる芸風がたいへん印象的です。
トニー谷の持ちネタ
大物司会者として、アメリカ仕込みの独特のしゃべりとソロバン片手に奏でられる歌と一緒にとても多くの流行語が生み出されました。その中でもぜひ押さえておきたい彼の代表的な「持ちネタ」を2つご紹介します。
「あんたのお名前なんてえの」
1950年代にラジオ新日本放送で放送されていた「アベック歌合戦」という歌謡番組の中で披露されたのがこちら。出演者紹介と共に「あなたのお名前なんてえの」と視聴者と一緒に掛け合いながら繰り出される、特徴的なそのフレーズはトニー谷本人を知らない人でも聞いたことがあるかもしれません。
「トニングリッシュ」
「トニー・イングリッシュ」の略語で、トニー谷が生み出した数々の英語まじりの造語です。「アイブラユー」「グッドアフタヌーンおこんにちわ」「さいざんす」「ベリベリ、ノーサンキュー」など、英語と日本語を織り交ぜてアレンジするという言葉遊びの才能にたいへん恵まれていました。
「さいざんす」が流行語に
まるで漫画のキャラクターのような独特のたたずまいとしゃべり方、歯に物を着せぬ話術で有名となったトニー谷ですが、流行になった言葉としてどんなものがあるのでしょうか。ここでは彼の口癖のように出てくる「さいざんす」という決まり文句と「おそ松くん」のイヤミとの関連性についてみていきましょう。
「左様でございます」の意味
「さいざんす」というのはすなわち「左様でございます」の意味で使用され、有閑マダムにありがちな「~ざます」という語尾を茶化して彼なりにアレンジしたものです。この言葉はたちまち大流行となり、1953年ビクターレコードより「さいざんす・マンボ」という曲が出されました。
「おそ松くん」のイヤミのモデル
先にも触れたように、赤塚不二夫氏の漫画「おそ松くん」に登場するキャラクター・イヤミはトニー谷自身をモデルとしており、赤塚氏本人もそれを明言しています。トニーはアメリカ仕込みの芸風ですが、それに対してイヤミは「おフランス帰り」(実際はフランス渡航経験なし)と公言しています。
他にもたくさん・話題になった流行語集
全盛期に数々の流行語を生みだした彼の言葉は、「さいザンス」や英語の単語を用いたものばかりではありません。他にも映画に登場したものなど、大流行となったものはたくさんあるので代表的なものを取り上げてみましょう。
おコンバンワ
そのまま「こんばんは」というあいさつで使われる言葉です。接頭辞の「お」をつけることで「さいざんす」同様に有閑マダムを皮肉ったようなイメージになり、流行っている・流行っていないという次元を超えて世に定着し、普通に現代でも使われているフレーズです。
「家庭の事情」
彼が主演した短編映画シリーズ「家庭の事情」「続・家庭の事情」で使われて話題になったフレーズです。たわいもないことや、深く知られたくないやましいことを何でもかんでもすべて「家庭の事情」と理由をつけてしまうことによって世の中のオトナ達を皮肉った言葉です。
司会者や舞台芸人だけでなく役者として映画出演も多数ありDVDとしてソフト化もされているので、試しに見てみてはいかがでしょうか。「さいざんす二刀流」など、タイトルにその時の流行語が入っているのもなかなかおもしろいです。
「バッカじゃなかろか」
「バカじゃなかろうか」に小さな「ッ」を入れて彼流にアレンジしたもので、他の言葉と違ってインパクトは少ないかもしれません。しかし、小さな「ッ」を入れることで歯切れ良く、どこか相手を小馬鹿にしたような皮肉な感じが出ていて彼らしい個性が出ています。
トニー谷は口の悪さで有名
とにかく毒舌でありブラックユーモアを売りにしてラジオ番組で大きな成功をおさめたトニー谷。当時は良くも悪くもたいへん話題となり、後の芸能人たちにも多大な影響を与えた彼の芸風を詳しく見ていきましょう。
芸人仲間の悪口で笑いを取る
芸人仲間の悪口を言い、それをネタに笑いを取るという現代でいうところの「イジり芸」を確立されました。最近の視聴者は毒舌や悪口も番組上における演出であるとある程度わかっている人が多いですが、当時は彼の毒舌で本当に不愉快に感じてしまう人が続出しました。
当時はニュータイプの司会者
彼が活躍した1950年代当時、司会者といえば真面目で清廉なイメージのいわば優等生タイプの人ばかりでした。しかし終始悪ふざけをしてガンガン毒舌を振りまくスタイルがとにかく斬新で、その頃の芸能界のニュータイプとして新しい風を巻き起こしました。
トニー谷は嫌われ者だった?
芸人としては一流ですが、ステージを降りた実際の素顔はどんなものだったのでしょうか。一癖も二癖もあってアクの強い彼の芸風と同じ、いえ、それ以上に悪たれだったと噂される、強烈すぎるその人柄に迫っていきましょう。
舞台裏でも横柄な態度で有名
悪役キャラで売っている人でも舞台を降りれば紳士という話を聞きますが、彼は本番以外でもまったく変わらず舞台の裏方スタッフ達に対しては非常に態度が悪く横柄であり、理不尽に怒鳴ることは日常茶飯事だったそうです。
そういう理由で関係者の誰からも嫌われていました。売れっ子にはよくある話と言えばそうですが、こういった全盛期に若手スタッフにやらかした行いで関係者からの受けはたいへん悪く後々の彼を苦しめることになります。
セクハラ被害者は数知れず
裏でも本番でもやりたい放題の彼はステージ上では女性に対していやらしい視線を向け、女性タレントなどの楽屋に乱入して抱きついてみたり体を触るなど、セクハラ行為を繰り返していたと言われています。当時はまだ「セクハラ」という言葉が存在していませんでしたが、各種ハラスメントで縛られた現在で考えるとありえない話です。
トニー谷の壮絶な生い立ち
とても破天荒で個性的な芸風と強烈なキャラクターで名をはせた彼はいったいどんな家庭で育ったのでしょうか。幼少期より受難と苦労続きであった彼のデビュー以前、芸能界を目指す前までの半生としてまとめました。
義父からの虐待
トニーの実父は彼が誕生する前に他界し、その代わりとして養父となった叔父からは虐待等ひどい扱いを受けて育ちました。のちに実母も病気のため他界してしまい叔父と継母からはさらに不遇な扱いを受け、18歳の時に家を飛び出して自立への道を歩んだそうです。
第二次世界大戦で出征して帰還
壮絶であったその半生は幼少期だけにとどまりません、第二次世界大戦中には中国へ出征しており、上海にて終戦を迎えました。復員後は劇場勤務などを経て東宝に就職して出演者のキャスティングなどを行い芸能界と関りを持つようになっていきました。
トニー谷の生きた時代背景
終戦後まだそんなに経っていない1950年代に人気を博した彼は、どのようにしてその芸風を確立していったのか。芸能界に身を置くようになった時期から人気絶頂期までの時代背景と絡めて見ていきましょう。
占領米軍が大勢おり、英語が流行
もともと子供の頃より勉強、とりわけ英語が得意だった彼は占領米軍が取り仕切る劇場のステージに上がり、アメリカのショービジネスを学んだと言われています。ここでの経験がのちのトニングリッシュを生み出すにあたって多くの影響を与えることになりました。
戦後の混乱期に成り上がった
戦後の混乱期に急速に復興が進む中、進駐軍を相手に慰問芸能活動を行ったりアメリカリーグのサンフランシスコ・シールズ軍が来日した際には華麗な司会者デビューを果たすなど、みるみるうちにその頭角を現し成りあがっていきました。
トニー谷息子誘拐事件からの逆風
大物売れっ子芸能人として君臨していたトニー谷を思わぬ悲劇が襲います。1955年 7月15日に彼の長男・正美くん(当時6歳)が何者かに誘拐されて身代金として200万円を要求されるという、世間を揺るがす大事件が起きるのですが、これが芸能人生を大きく左右する出来事になります。