犯人は逮捕され正美くんは無事に帰還しますが、逮捕後の供述で「人を馬鹿にしたような芸が気に入らなかった」という犯行理由を明かし何と世間がこれに共感してしまいます。中には誘拐事件そのものが「自作自演」だと言い出す人までいて、彼の人気を下げる原因となりました。
マスコミに押しかけられたトニー本人は普段とはまるで違う真摯な態度で涙ながらに訴える等憔悴しきっていたのですが、日頃から好感度の低い人柄と芸風のせいで、世間の反応はたいへん厳しいものでした。数日後事件は解決し無事に長男は保護されたのですが、人前で涙する姿を見せた彼はこれを機に仕事は激減しスターの座から失墜していきます。
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テレビへの移行期の時代に取り残される
誘拐事件が彼に与えたダメージが相当大きかったのですが、その頃テレビが急速に普及しだした時代でもあったため、その好感度の低さからスポンサーからは嫌われ取り残されて徐々に起用されなくなってしまいました。
また、テレビでなりふり構わず涙で訴えかけたことが報道され、世間の彼を見るイメージが変わってしまい芸人として面白さが失われてしまったとする声もあります。芸人は同情されるような態度を見せてはいけない、という意見もありました。
トニー谷が後の大物司会者に与えた影響
嫌味で毒舌・とても品が良いとは言えないけれど、唯一無二でキレのある芸で戦後日本の芸能界に多大な影響を与えた功績は大きく、現在の芸能界にも脈々と受け継がれていると言えるでしょう。彼の存在がもたらした影響について具体的にあげてみました。
毒舌司会者というジャンルを開拓
先にもあげたようにそれまでのまじめで優等生的な司会者という型を打ち破り、ゲストにもザクザク切り込んでいくような毒舌司会者という新ジャンルを築き上げました。彼の後の世代からは歯に物着せぬテンポの良いしゃべりで視聴者をどんどん魅了するような司会者が次々と出てきます。
後の大橋巨泉、タモリへと引き継がれる
毒舌司会者といえば誰が浮かぶでしょうか、上岡龍太郎ややしきたかじん、そして大橋巨泉を思い出した人はきっと少なくないでしょう。けして好感度が高くないけれど、ズケズケ自由に言いたいことを言うようなスタイルが面白さに磨きをかけています。
またタモリもトニー谷と共通点の多い芸人の一人であると言えます。彼もまたトニーと同じく誰かに弟子入りするでもなく、ぽっと出のしろうとが自身の作り出した芸で身を立てたという部分がよく似ています。
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ピコ太郎はトニー谷がモデル?
数年前YouTubeで発信するや否や、世界を巻き込んでの大ブームを巻き起こしたピコ太郎、この二人の間にはその見た目からその芸風まで共通点がとても多いように思われます。二人の似ている点と世間の評価についてまとめました。
見た目が似ている!
とにかく見た目が似ているといっていいでしょう。オールバックの髪型にカラーレンズ、派手な衣装とそれに加えてとても特徴的な口ひげといった、どこかの誰かを風刺しているようなとてもわかりやすい「皮肉屋キャラ」を表していて陳腐で安っぽいいでたちが二人の最大の共通項です。
言葉のセンスも似ている?
ペンパイナッポーのように2つ以上の英単語を組み合わせる「言葉遊び」が「トニングリッシュ」を彷彿とさせるということで、トニーの「さいザンスマンボ」が動画サイトで再生回数が飛躍的にアップするという現象も起きました。
またお笑い界の重鎮・ビートたけしもピコ太郎の芸を見て全盛期のトニー谷を思い起こさせる、という趣旨の話をしています。1950年代の黄金時代を知るシニアの人達の中にも彼の再来なのでは、とその頃の記憶を懐かしむ人も多いようです。
ツイッターでは、あの高須院長も「そっくり。生まれ変わりかも」という趣旨のツイートをしています。それに反応したリツイートでは二人とも生きている時期が存在するので「正確には憑依」などというコメントもあって面白いです。
嫌われ大物芸人その晩年は?
人気の失墜の原因として、テレビの台頭によりスポンサーに嫌われたことと誘拐事件をあげましたが、もう少し詳しく検証していくと、それだけじゃない理由がありました。人気低迷の本当の理由やその晩年についてご紹介します。
コキ下ろす芸風が飽きられる
他人をこき下ろしたり日系人・女性を馬鹿にするその芸が飽きられたのか、それとも世の中のモラルや差別意識への抵抗意識が高まったのかが原因と思われます。当時は希少であった毒舌司会者という存在に世間が慣れて斬新さも失われてしまったのでしょう。
また、誘拐事件を受けて「誘拐の発端は谷本人の芸風にある」とし、「芸風を変えるべき」とバッサリ言い切ってしまう評論家まで現れました。マスコミに翻弄された彼は大のマスコミ嫌いになり、休業もします。
テレビ版「アベック歌合戦」で復活するも・・・
1966年、ラジオからテレビへと舞台を移し、ソロバンを拍子木に持ち替えトレードマークのメガネも新調して司会者として復帰します。華麗なる復活に思えましたが先にも触れたとおりスポンサー企業が彼を嫌ったため次第にテレビの出演もなくなっていきました。
タモリと共演も!
何かと共通項が多いといわれるタモリの番組ではゲストとして夢の共演を果たしました。なごやかな雰囲気の中でタモリとの掛け合うトークはすばらしく、得意の英語を駆使し昔アメリカ兵たちの前で行ったという漫談を披露してたいへんウケたということです。
ピコ太郎やタモリ、大橋巨泉だけにとどまらずその他多くの芸能人との共通点がささやかれます。それはつまり、彼自身が後世に与えた影響がいかにすごいものであったかを証明しているといえます。
晩年とその最期
晩年は小さな劇場で芸を続けていましたが、1987年に肝臓がんで他界します。大のマスコミ嫌いであったため、遺言にのっとって弔問もいっさい受け付けずに家族葬で執り行われたという事です。
彼が亡くなった翌日7月17日に昭和の大物スター石原裕次郎が他界したため、大々的に取り上げられることはなくしばらく経ってから世間に知られることになりました。大物芸能人が立て続けに亡くなったことで、マスコミの標的になるのが避けられたという結果になりました。
トニー谷は今も昔も伝説的な芸人!
一流のボードビリアン・日本で初の毒舌大物司会者として戦後芸能界のスターダムを駆け上がり、世間からどんな評価を下されようとも独自の芸風を守りつづけました。彼の生き様そのものが徹底して「芸人」であり、あらゆる意味で「伝説」であったのです。
今でもネット上で動画はたくさんあげられていますが、50年以上前にもなる彼の芸はまったく知らない人が見てもじゅうぶんに楽しむことができます。日本が誇る一流芸人の舞台を気軽に味わってみてはいかがでしょうか。
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