『そうか、あかんか。一緒やで』とは?
『すまんな、ごめんよ』
『泣かなくていい』
『もう生きられへんのやで、ここで終わりや』
『そうか、あかんか。一緒やで、お前と一緒やで』
『こっち来い、こっち来い、わしの子や、わしの子やで、わしがやったる』
ある親子の会話の一部
2006年2月1日、寒い冬の冷え込んだ日のこと、息子は『家の近くがええな』と語る車椅子の母を押して河川敷に迎い短い会話をしたのです。憔悴した当時54歳の長男は、当時86歳で認知症の母親との会話には多くの言葉の必要ありません。父親を病気で亡くし、その時から認知症を発症し徘徊を繰り返す母親の面倒を見る長男。
夜間は寝付くことすらままならなく、仕事を休職するしかない長男は行政に相談するものの助けもなく、誰にも頼らず生きていくことが困難になり、母親を見捨てることなどできずに選んだのは『そうか、あかんか。一緒やで』が物語る「心中」という選択です。
生活苦から認知症の母親を殺した事件
1995年まで一家3人で暮らしていた生活が一転したのは、父親が病死したことがきっかけになったのです。伴侶を失った母親は認知症になり、長男と2人の生活が始まります。仕事を真面目にしていた長男との生活には、変化が見られるようになったのです。認知症の症状に合わせて長男は仕事に変化が訪れ、母1人子1人、しかも年齢も関係し苦しい生活を余儀なくされます。
時の流れで解決できない認知症と、向き合わなければならない介護の問題。仕事すら思うようにできない長男は生活苦になり、母親と共に命を断とうと考えるのです。それが「京都認知症母殺害心中未遂事件」です。
その内容から社会から大きな関心があった
仕事すらできない現実が待っている介護と生活の両立のため、長男はできる限りの努力をしたのです。長男は母親の食事のため、自身は食べることもままなりません。必死に働こうとも見つからず、母親を守りたい一心で区役所に相談するも助けが得られなかったことから追い詰められた長男と、なりたくてなった訳でもない認知症を持つ母親。
寒空の中での会話からも、長男の疲れ切った状況、息子を想う母親の姿から多くの問題が浮き彫りにされ、同情する声が多いことは明らかです。知力を尽くすも報われなかった、心打たれる事件と言えます。
京都認知症母殺害心中未遂事件発生までの経緯①
家族3人の暮らしをしていたのですが、父親は80歳で病死してしまいます。好んで病気になるはずもなく、亡くなった父親を悼んでいた家族、特に母親は切なさからか認知症を発症するようになったのです。長男片桐康晴当時54歳、長い間仕事熱心でしたが、認知症の症状は簡単なものではありません。
厳格な父親の元で育った長男はきちんと教えを守って、他人に迷惑がかからないようにします。独身だった長男は母親との生活のためにあらゆる手段で守ろうと必死です。どのように事件まで至ったか、そこには壮絶な出来事が待ち受けていますのでご覧ください。
元々は職人をしていた
父親は生前、京都中京区で西陣織の職人をしていたため、長男片桐康晴は尊敬していた父の弟子になります。厳しかった父親だったので、長男は教えを守って仕事をしていました。糊置き、防染という着物を作る際には欠かせない工程を行なっていた父親と弟子の長男。
時に手が出ることもあった職人肌の父親ですが、息子だからこそ他人に迷惑がかからないよう教えていたのです。後に呉服屋は不況により倒産し、仕事は変わりますが、元々の職は和職人だったことが伺えます。
認知症になった母親と二人暮らしを始めた
1995年、病魔に襲われ帰らぬ人となった父親ですが、待っていたのは残された長男と母親です。悲しい連鎖は母親にも及び、伴侶を失った悲しみからか認知症を発症します。母親と長男の2人暮らしが始まりますが、長男が職をやめることはありません。
35歳で倒産してから、仕事を転々としますが2001年頃に伏見区のアパートに引っ越しをします。4畳半と6畳間のアパートの暮らしで、好意から家賃も2人暮らしのため半額の3万円になるのです。