甲山事件とは?冤罪判決まで20年!無罪判決までの裁判の内容など

甲山事件は1974年に兵庫県の知的障害者施設の甲山学園で園児2人が死亡した冤罪事件です。この事件は無罪判決が出るまでに25年という長い年月がかかりました。この記事では、甲山事件の概要や冤罪判決が下るまでの裁判内容、事件の問題点などを徹底解説します。

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彼にはもう八十四日間も一匹の魚も釣れない日続いていた。 釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。

甲山事件とは?

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日々さまざまな事件な事件が起きていますが、中には無実でないのに逮捕されてしまうという悲しいケースが残念ながら存在します。そこには、捜査上のミスや、強引な手法による自白など恐ろしいことが起因して罪を認めてしまった人々もいます。冤罪事件でも有名なものにこの事件があります。いったいどんな事件だったおおまかに見ていきましょう。

長い年月をかけて無罪確定となった事件

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今からさかのぼること、50年近く前に、甲山学園(かぶとやまがくえん)というところで学ぶ子供たちが死亡した出来事がありました。この学園は知的障碍者の施設で兵庫県の西宮にあります。事件が経過して、疑いのある人々が起訴されましたが、最終的には彼らは全員無罪となりました。今回は、謎に包まれたこの話について迫ります。

甲山事件の概要

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まずは、この内容の大枠について紐解いていきます。具体的にいつの時期にどのような場所で起こったかについて述べていきます。また、何人の生徒が事件で亡くなったかについても明かしていきます。そして、どのような人物が最初に疑われて逮捕されたかにしてもご説明していきます。さらに、警察が逮捕に至った理由をおおまかに述べていきます。

1974年、兵庫県の知的障害者施設で事件発生

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3月の17日にひとり女の子の行方がわからなくなりました。しかし、依然としてその子供を見つけることができませんでした。あろうことか、なんとその二日後には男の子も神隠しにあいます。謎につつまれて得体のしれないことに周囲は不安におののきました。そして、男児がいなくなったその日にここから進展を迎えることになりました。

施設内の浄化槽で園児2人の遺体が発見される

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驚くことに、学園の施設内に設置された浄化槽から、悲しいことに二人が息を引き取った状態で発見されました。しかし浄化槽のマンホールの蓋は20キロ近くもあるので、園いる子供くらいの年ではあけることができないので疑問があがりました。また二人が連続して姿を消した点からも偶然とは考えづらく、人為的に何かが起こったと判断されました。

殺人事件としてアリバイの無かった保育士の山田悦子が逮捕

この学園は、多くの人々が住む場所からは、遠く離れているところに位置していました。さらに捜査によって外から何者かが侵入した痕跡は発見されなかったこともあり、園内にいるマンホールを動かせるような力を持った人物に疑いがかかり、その結果犯行に関わっていないことを想定できる間接的な事実のなかった山田悦子さんが容疑者にされました。

甲山事件の裁判の行方は

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容疑者になった人は、どのような判決を受けることになったのでしょうか。さらに、この事件で亡くなった子たちは殺されたという結論になったのでしょうか。それとも、なんらかの事故によって不幸な結果になった判断されたのでしょうか。補足として、この人物についての判決にどのくらいの期間がかかったかについてもみていきます。

事件は事故だったとして、犯人とされた山田悦子は無罪判決

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再審などを含まない刑事裁判の中では非常に珍しい20年というとても長い裁判となりました。ただし山田さんは数回の裁判を通じてただの一度も有罪という判決にはなっていません。疑われた大きなポイントはマンホール開けれてかつアリバイのなかった者という点です。次のセクションではこの裁判の内容をより詳しく述べていますのでご覧ください。

甲山事件の裁判の概要

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前述の通り、最終的にこの出来事に対して、無罪になるまでかなり膨大な時間がかかりました。順を追って無罪になるまでの道のりを書き表していきます。審議の途中では、一度は無罪を勝ち取ったのですが、再びその決定が覆されたりもしたました。トータルで、気の遠くなる時間を費やされた、世の中に絶えず注目が集まっていた裁判です。

甲山事件の裁判の行方①釈放後、結婚したが疑いの目は収まらず

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容疑者として疑われはしましたが、からくも解放されることになりました。その後、いつもどおりの生活に復帰して、彼女を支援してくれていた人々の一人のある高校の教師をしていた方と結婚することになりました。しかし、周り化は怪しげな目でみられて、さらに非難をするような電話や手紙などが来たりととても苦しい日々を送っていました。

甲山事件の裁判の行方②1976年再調査開始

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事件から二年半経った10月に神戸にある検察審議会は、不起訴不当と決断し、再び捜査が始まりました。検察審議会の陪審員たちは山田さんがあやしいという印象を持っていました。当時の山田さんに対する報道は、不利なものばかりでした。陪審員はさまざまな一般の人を含めた人々なので、テレビなどを報道に影響を受けていた可能性が高いです。

1978年2月27日再逮捕

さらに、園の児童からの目撃したという証言などから新たな証拠が浮上したということで、山田さんは再逮捕されました。また、以前山田さんのアリバイ証言をした園長や保母を偽証罪もまた再逮捕されました。この逮捕の時は、山田さんは黙秘を通しました。また、園長たちも、偽りの証言であることを全面否定しました。

甲山事件の裁判の行方③1980年裁判の決め手となる証言が出る

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5月に園の女の子Aの証言からとても具体的でショッキングな話があがりました。なんとAは、亡くなった女の子と現場付近にいて、Aが彼女の手を引いた時にマンホールに落下してしまったそうです。しかも、ここからが恐ろしい話で、落ちた後にマンホールの蓋をAが締めてしまいました。このいきさつは、事件に関する非常に重要な証言と言えます。

甲山事件の裁判の行方④1985年10月1度目の無罪判決

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