甲山事件とは?
日々さまざまな事件な事件が起きていますが、中には無実でないのに逮捕されてしまうという悲しいケースが残念ながら存在します。そこには、捜査上のミスや、強引な手法による自白など恐ろしいことが起因して罪を認めてしまった人々もいます。冤罪事件でも有名なものにこの事件があります。いったいどんな事件だったおおまかに見ていきましょう。
長い年月をかけて無罪確定となった事件
今からさかのぼること、50年近く前に、甲山学園(かぶとやまがくえん)というところで学ぶ子供たちが死亡した出来事がありました。この学園は知的障碍者の施設で兵庫県の西宮にあります。事件が経過して、疑いのある人々が起訴されましたが、最終的には彼らは全員無罪となりました。今回は、謎に包まれたこの話について迫ります。
甲山事件の概要
まずは、この内容の大枠について紐解いていきます。具体的にいつの時期にどのような場所で起こったかについて述べていきます。また、何人の生徒が事件で亡くなったかについても明かしていきます。そして、どのような人物が最初に疑われて逮捕されたかにしてもご説明していきます。さらに、警察が逮捕に至った理由をおおまかに述べていきます。
1974年、兵庫県の知的障害者施設で事件発生
3月の17日にひとり女の子の行方がわからなくなりました。しかし、依然としてその子供を見つけることができませんでした。あろうことか、なんとその二日後には男の子も神隠しにあいます。謎につつまれて得体のしれないことに周囲は不安におののきました。そして、男児がいなくなったその日にここから進展を迎えることになりました。
施設内の浄化槽で園児2人の遺体が発見される
驚くことに、学園の施設内に設置された浄化槽から、悲しいことに二人が息を引き取った状態で発見されました。しかし浄化槽のマンホールの蓋は20キロ近くもあるので、園いる子供くらいの年ではあけることができないので疑問があがりました。また二人が連続して姿を消した点からも偶然とは考えづらく、人為的に何かが起こったと判断されました。
殺人事件としてアリバイの無かった保育士の山田悦子が逮捕
この学園は、多くの人々が住む場所からは、遠く離れているところに位置していました。さらに捜査によって外から何者かが侵入した痕跡は発見されなかったこともあり、園内にいるマンホールを動かせるような力を持った人物に疑いがかかり、その結果犯行に関わっていないことを想定できる間接的な事実のなかった山田悦子さんが容疑者にされました。
甲山事件の裁判の行方は
容疑者になった人は、どのような判決を受けることになったのでしょうか。さらに、この事件で亡くなった子たちは殺されたという結論になったのでしょうか。それとも、なんらかの事故によって不幸な結果になった判断されたのでしょうか。補足として、この人物についての判決にどのくらいの期間がかかったかについてもみていきます。
事件は事故だったとして、犯人とされた山田悦子は無罪判決
再審などを含まない刑事裁判の中では非常に珍しい20年というとても長い裁判となりました。ただし山田さんは数回の裁判を通じてただの一度も有罪という判決にはなっていません。疑われた大きなポイントはマンホール開けれてかつアリバイのなかった者という点です。次のセクションではこの裁判の内容をより詳しく述べていますのでご覧ください。
甲山事件の裁判の概要
前述の通り、最終的にこの出来事に対して、無罪になるまでかなり膨大な時間がかかりました。順を追って無罪になるまでの道のりを書き表していきます。審議の途中では、一度は無罪を勝ち取ったのですが、再びその決定が覆されたりもしたました。トータルで、気の遠くなる時間を費やされた、世の中に絶えず注目が集まっていた裁判です。
甲山事件の裁判の行方①釈放後、結婚したが疑いの目は収まらず
容疑者として疑われはしましたが、からくも解放されることになりました。その後、いつもどおりの生活に復帰して、彼女を支援してくれていた人々の一人のある高校の教師をしていた方と結婚することになりました。しかし、周り化は怪しげな目でみられて、さらに非難をするような電話や手紙などが来たりととても苦しい日々を送っていました。
甲山事件の裁判の行方②1976年再調査開始
事件から二年半経った10月に神戸にある検察審議会は、不起訴不当と決断し、再び捜査が始まりました。検察審議会の陪審員たちは山田さんがあやしいという印象を持っていました。当時の山田さんに対する報道は、不利なものばかりでした。陪審員はさまざまな一般の人を含めた人々なので、テレビなどを報道に影響を受けていた可能性が高いです。
1978年2月27日再逮捕
さらに、園の児童からの目撃したという証言などから新たな証拠が浮上したということで、山田さんは再逮捕されました。また、以前山田さんのアリバイ証言をした園長や保母を偽証罪もまた再逮捕されました。この逮捕の時は、山田さんは黙秘を通しました。また、園長たちも、偽りの証言であることを全面否定しました。
甲山事件の裁判の行方③1980年裁判の決め手となる証言が出る
5月に園の女の子Aの証言からとても具体的でショッキングな話があがりました。なんとAは、亡くなった女の子と現場付近にいて、Aが彼女の手を引いた時にマンホールに落下してしまったそうです。しかも、ここからが恐ろしい話で、落ちた後にマンホールの蓋をAが締めてしまいました。このいきさつは、事件に関する非常に重要な証言と言えます。
甲山事件の裁判の行方④1985年10月1度目の無罪判決
さまざまな背景を元に、山田さんは無罪という判決に至りました。園児の中には、証言をするまえに話すことを練習させられていた信じがたい事実まででてきました。神戸の地方裁判は園児の言動に関して、何らかの理由で真実とは違う発言をしている恐れがある可能性が高いと考えました。それに対して地方検察庁は、控訴をしました。
甲山事件の裁判の行方⑤1990年3月無罪判決の取り消し
大阪高等裁判所において、判決を破棄して、心理を神戸の地方裁判所に差し戻すという決定がなされました。理由としてあげたのは、目撃に関する内容は、知的に障害ある子供だったとしても、識別に誤りは起きがたいということです。そして捜査において発言をコントロールしたとは言い難く、子供の証言を否定することはできないとも発表しました。
甲山事件の裁判の行方⑥1999年9月に無罪確定
再び審議されることになりましたが、罪は無いということになりました。検察がは上告することをついに諦め、山田さんの無罪は確定という結果に至りました。冤罪と言えば、日本全土を騒がせた事件として記憶に新しい和歌山毒殺カレー事件をご存知でしょうか。20年経ち、今冤罪ではなかったのかと騒がれてます。詳しくは,こちらをご覧ください。
冤罪とは
この記事でたびたび出てくる冤罪とは、詳しくはどういうことを言い、どういう定義のもとに言われていることなのかについて改めて整理していきます。また、政府としても冤罪をどのような捉え方をしてるかについても言及していきます。法務大臣の方が冤罪に対して興味深いこと語っていますので、そちらについてもご紹介していきます。
意味
「冤」という字は、濡れ衣や無罪の罪を表す漢字です。免れると形が似ていますが免罪と冤罪とは意味が全く違います。「冤罪」の意味は漢字の示す通り、犯行犯してないもしくは罪がないのに、犯罪者として扱われてしまうことです。英語ではfalse charge、defamation、unjust accusationなどさまざまです。
定義と法学辞典上では
無実の者に対して刑事訴訟において有罪の判決を下されてしまった場合を指すこともありますが、単純に無実の者が罪に問われた場合においても使用されるケースがあります。理由については定かではありませんが、法学の辞典を見てみても、えん罪の定義については定まっていないように見受けられる用語になっています。
政府の見解
政府としては、麻生太郎氏が総理大臣の時代も、鳩山由紀夫氏が総理大臣の時代も、野田佳彦氏が総理大臣の時代でも、法令上の用語ではなくて、定義についても定まった見解を持っていないとして、明確には定義をしていないとしています。冤罪について、ここまで慎重で細かく見解をされているのは、驚かされるかもしれません。
長勢勘遠の発言
20007年5月に行われてた衆議院法務委員会において、第78代目の法務大臣である長勢氏は、一般的には冤罪と言われる場合は、有罪の判決を受けたあとに無罪となる場合のほうが浸透しているのでは言っています。しかし、被告人が無罪と言う判決を下された時に冤罪と言う言葉を使うのは、いかがなものかというようなことも語っていました。
法学者の今村氏の見方
冤罪に関しては、法の専門家である今村力三郎氏から言わせると、罪のない人が有罪と判決されることだけが冤罪ではないと語っています。それ相応の相応しい刑より、重い刑に処されてしまった場合や、間違った法律の適用を行ってしまったケースなども同じく冤罪と言えるのではないかと、自身の考えを述べました。
甲山事件で山田悦子さんが犯人と疑われた理由
ここでは、より具体的に彼女がこの出来事の犯人として疑われてしまった要因についてご説明していきます。さまざまなタイミングが不幸に重なってしまい、人生においてとても大切な時間を費やすことになりました。ちょっとしたボタンの掛け違いにより、何も関与していない一般人がこのようなことに巻き込まれてしま恐ろしさを実感させられます。
甲山事件の犯人と疑われた理由①犯人ともとれる発言をしていた
実は、何点か加害者と思われてしまうような発言をしていました。どのような発言をしてしまって疑われてしまったのか、言ってしまった時の状況を交えてご解説していきます。ただし、発言というものは部分部分を切り取ると印象はだいぶ変わっていきます。なので、さらにどのような背景からでたものなのかも掘り下げていきます。
刑務所の食事に関して
捜査しているものに、刑務所でのご飯はどのようなものかつい、口に出してしまいました。その言葉に、怪しさを感じられてしまいました。捜査員が食堂で販売しているおでんを山田さんにふるまったときに、単純な疑問感じたことをつい言葉にしてしまいました。思いついたことを話してしまうのは、状況によっては妙な流れが生じることもあります。
行方不明の子に関して
最初の女児がいなくなった段階で、すでに死んでしまってると発言してしまいました。まだ、発見もされてないのにそんなこと言うとうことは犯人の可能性が高いと思われてしまいました。しかし、いきなり自身の職場の子供がいなくなってしまったら、パニックなる可能性も高いです。性格によっては最悪の事態を想定してしまう人も少なくないです。
せっかんに関する証言
彼女は、常日頃から園の子供たちにせっかんを行っており、亡くなった女の子にも聞き分けがないなら浄化槽へ落とすと、マンホールの蓋を開けながら警告したことがあったという証言がありました。しかし、容疑もかけらたAちゃんの証言では、山田さんがせっかんをしたということは、一度たりともなかったと言っていました。
尋常じゃなく取り乱していた
行方不明になった直後の言動でもそうですが、遺体が見るかるまでの間もかなり動揺していました。加えて、葬儀が行われた時も他の人々にはオーバーに見えるほど泣いていました。次いで霊柩車を追いかけてしまうほどでした。周りにとっては、演出に見えてしまう人もいて捜査を混乱させるためのパフォーマンスではないかという声があがってました。
甲山事件の犯人と疑われた理由②ざんげの日記
自身の注意が至らないことから、亡くなった二人に対して申し訳ないことをした書き記した日記がありました。それを、「ざんげの日記」としてマスコミで悪い印象を与える形で報道されることになりました。それを見た人々はいっそう、彼女に対して眉をひそめることになりました。報道というもの影響力の強さを物語っています。
甲山事件の犯人と疑われた理由③アリバイがなかった
最初の行方不明があったと推定される時間と、次の男のがいなくなった時間の双方に対するアリバイがありませんでした。しかし、実のところあのような状況下でアリバイがあることが証明できた人はあまりいませんでした。しかし、他にも疑う要素が多く持たれていたため彼女が重要な容疑者となってしまいました。
甲山事件の犯人と疑われた理由④「部屋から連れ出した」という証言
ある園児の発言で、山田さんが亡くなった男の子を部屋から連れ出したという話があがりました。とは言え、場所について考察した場合、連れ出しを目撃した場所は、浄化槽のあたりではありませんでした。なので、決定的な証拠とはなりがたいと言えます。
甲山事件の犯人と疑われた理由⑤同僚の結婚にあせりを感じていた
周りが次々と結婚していくことに関してのあせりから魔が差したのでは言われてました。さらに複数の男性との交際が騒がれていて、人格的に問題があったのではと憶測がでていました。しかし、そのような事実はなくありませんでした。しかも、遠距離の恋人はいましたが、特に結婚に対するあせりがあったわけでないというのがことの真相でした。
甲山事件の犯人と疑われた理由⑥マンホールを開けることが可能
いろいろな疑われる要素もあり、さらにマンホール開ける力を有する大人として容疑かけられました。しかし、その後の調べでは、浄化槽の中から爪切りやカギや歯ブラシなども発見されていて、日常的に園児たちが物を投げ入れたりして遊んでいることが判明しました。また、園には20代前半の年齢に当たる園児もいました。
甲山事件で犯人と疑われた山田悦子さんの生い立ち
加害者として疑惑を持たれてしまった山田さんのそれまでの人生の歩みについて、触れていきます。1951年に富山県に生を受けました。それから、徳島文理短期大学をご卒業されました。そして、そのまま兵庫県の甲山学園で保母さんとして働くことになりました。出生は富山県、大学では四国、就職先は近畿と広範囲でご生活されていました。
甲山事件で犯人と疑われた山田悦子さんの現在は?
晴れて無罪を勝ち取った山田さんは今どうしているのでしょうか。実は、この経験を踏まえてある素晴らしい活動を精力的に行っています。あのような苦しいご経験をされたにもかかわらず、今なおエネルギッシュに活動されているのは、ただただ脱帽するかぎりです。果たして、どのようなことを実行しているのでしょうか。
現在は公演を行っている
いろいろな弁護士の方々に招かれて、司法などの公演を行っています。また、日本の警察や司法に対して、さらに日本の過去の歴史において行動おいての対処にも疑問を持ち、さまざまなところへ呼びかけを行い、ある会議の設立に力を注いでいます。声かけているのは、日韓の研究者や政治家やジャーナリストなどの人々に主に行っています。
甲山事件で死亡した園児たちの家族の現在は?
先ほどは容疑者として何十年もの間、人生をそこに費やすことになってしまった人について述べました。ここでは、大変いたましく亡くなってしまった子供たちのご遺族のの方々のその後についても迫っていきます。また、死亡してことに自体のこととは別に、さらに裁判を起こすことになりました。その訴えた内容はどのようなものだったのでしょうか。