ディアトロフ峠事件とは?
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ディアトロフで謎の死を遂げた9人のパーティーは1959年2月2日の夜になにかに遭遇しました。イーゴリ・ディアトロフがリーダーであったことからこの地は、デァアトロフ峠と呼ばれています。ディアトロフ事件はあまりに不可解な点が多く、謎の未解決事件として、60年たった今なお語り継がれています。
2018年12月6日に日本では奇跡体験アンビリーバボで取り上げて以来、知らない人はいないと言われるほど有名な事件になりました。色々な検証やたくさんの説が浮上していますが、全てを解明し、説明できるだけの情報まだありません。最近になって、新たに有力な情報がもたらされました。
登山中の若者9人が死亡した事件
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1959年にウラル山脈のディアトロフ峠で男女9人が謎の死を遂げました。彼らはスノートレッキングに来ていて、ホラートシャッフル山の東斜面でそれぞれが離れたところで遺体となって発見されました。発見されたときの状態からか、ロシア政府は今現在に至るまで、一切の情報の公開をしてきませんでした。
また現場への立ち入りを3年間禁止していました。ソ連時代からこの事件を引き継いだロシア政府最高検察庁は2019年2月1日に、雪崩などの自然現象によるものだとの見解を示しましたが、それでもなお、異論を唱える者もいます。これまでにこの事故を即座に機密文書扱いにして、隠したためロシアの陰謀説などの憶測だらけの説が生まれました。
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しかし2013年にジャーナリストのドニーアイカーによって「死に山」が発行されたことにより、推理合戦に終止符が打たれたかのように思われました。日本では遅れて2018年に「死に山」は発行になりました。これによって初めてこの事件を知った人も加わり、話題になっています。再びディアトロフ事件見直して、最新の情報を見て見ましょう。
殺人も疑う不可解な遺体
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発見された遺体には不可解な特徴がありました。かれらは薄着で靴を履いていませんでした。ここはマイナス30℃にもなる山の中です。遺体の顔は黒く、髪が白髪になってしまった遺体もありました。半裸の遺体も冬山では異様なものでした。
また女性隊員はたっぷり防寒具を着込んでいました。デァトルフは2個の腕時計をしていました。他のメンバーの服を着ている者もいます。明らかに剥ぎ取ったものです。また外部からの強い力が加わり肋骨が折れたり、目玉がなかったり、舌がない者もいました。
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山には彼らしか登山隊は入っておらず、内部のトラブルのために何者かに殺害されたという見方もありました。しかし、内部トラブルはありえないとの見方が大半で、内部トラブル説は有力ではありませんでした。そうなると、誰もいない山奥で仲間割れではないとなると、原因の究明は難しくなります。
「未知の不可抗力」として捜査は終結
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積極的に事件の捜査をしていた主任捜査官レフィイバノフは呼び出しを受けてモスクワに行きました。彼はすぐに捜査本部に戻りましたが、これまでと違い、事件に対して消極的な捜査しか行わなくなっていました。そして事件から4カ月後には捜査打ち切りの判断が下されました。
捜査打ち切りの理由としてあげたのは未知の不可抗力だったのです。打ち切りの判断がされた後、モスクワに行くまえに検証のため送った服の放射能測定のデータが戻ってきました。データは通常の2倍の放射能の数値を示しています。なぜ9人の若者が亡くなっているのに、真相の究明をしないのでしょうか。
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背景にはソ連の圧力があったと言われていますが、このままこの事件は何十年もの間、闇に埋もれてしまいました。捜査資料は機密文書扱いになり、真相を探すのは困難を極めました。事件の背後には触れてはいけない旧ソ連の最大級の闇があると噂されています。
ディアトロフ事件パーティメンバー
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メンバーを改めて紹介しておきます。一覧にすると、事件の重大さが改めて判ります。若くして命を失った者たちのためにも、早く事実が解明してほしいものです。家族は事件を風化させないために、ディアトロフ財団が設立されています。財団はユーリー、クンツェ(当時12歳でした)によって設立されました。
メンバー一覧
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財団の目的は、事件の再捜査をロシア当局に求めること及び、ディアトロフ記念館の維持です。財団はウラル工科大学が支援しています。メンバー全員の簡単なプロフィールを紹介して置きます。顔写真はネット上で公開されています。
イーゴリー、アレクセーエヴィチ、ディアトロフ
23才 リーダーです。慎重で、落ち着いています。メンバーのジーナに言い寄っていました。登山の経験が豊富でした。発見されたときに、ドロシエンコの服を着ていました。ディアトロフ峠は彼の名にちなんで付けられました。
ユーリー、ニコラエヴィチ、ドロシエンコ
過去にジーナの恋人でしたが友人関係になっています。クマを地質調査用のハンマーで追い払った勇者です。しかし、なぜか、かれの服はディアトロフに剥ぎ取られていました。このあたりも謎が深まります。先にユーリーがなくなって死者の服を剥いだのでしょうか。
ユーリー、アレクセーエヴィチ、クリヴォニシチェンコ “ゲオルギー”
24才、ウラル工科大学を卒業したばかりで参加。ジョークで人を楽しませ、マンドリンを弾きます。放射能技士でもあり、経験豊富。杉の木の下でドロシエンコとともに発見。下着のみ着用、靴はなく、足に焼けどがありました。低体温症が死因になっています。
ジナイダ、アレクセーエヴナ、コルモゴロワ“ジーナ”
22才、ウラル工科大学4回生。経験豊富なハイカーで、毒ヘビに噛まれもトレッキングを完遂する精神力があります。活動的で、外交的です。様々なものに関心があり、敬意を持った、人との接し方で愛されていました。発見時の着衣は比較的まともでした。ドロシエンコの元恋人。
ルステム、ウラジーミロヴィチ、スロボディン
23才、ウラル工科大学卒業生で、優秀なアスリート。物静かでバランスマンと評されていました。常に同じアプローチができる人物。発見時には片足だけブーツを履いていました。格闘時に見られる挫傷があり、頭部に鈍器で殴られた破壊がありました。
リュドミラ、アレクサンドロヴナ、ドゥビニナ “リューダ”
20才、ウラル工科大学3回生。リューダは活発で歌や踊り、撮影が好きで、タフな性格。遺体からは眼球と舌がない状態で発見されました。生きた状態で舌をまるごと失ったと見られています。被服からは放射能が検出されています。
セミョーン、アレクサンドロヴィチ、ゾロタリョフ “サシャ”
37才、謎の人物。本名はセミョーンですが、アレキサンダーやサシャと呼ばせていました。ロシア語、ドイツ語、ポーランド語、ウクライナ語を話します。仲間たちには内緒でカメラを所持、ネガは破損していて見れませんでした。骨折は多数箇所に及び眼球は失われていました。事件が彼に起因すると考える動きもあります。
アレクサンドル、セルゲーエヴィチ、コレヴァトフ
24才、ウラル工科大学物理専攻4回生。優秀だと評価されています。原子力の研究をしていたこともあります。統率力もすぐれ、勤勉であり、理論的に話します。遺体は腐敗し情報は得られませんでした。
ニコライ、ウラジーミロヴィチ、チボ=ブリニョーリ ”コリャ”
23才。ウラル工科大学1958年卒業。父親は処刑されています。優しく明るい性格。率直な人柄はみんなに愛されていました。今回最後のトレッキングにすると母親と約束していましたが還らぬ人になってしまいました。
ユーリー、エフィモヴィチ、ユーディン
21才。持病が悪化して途中でリタイヤしたために難を逃れました。唯一の生存者で2013年4月27日に亡くなりました。ユーリーはディアトロフ隊に関していくつかの貴重な証言をしていますが、その後取材を一切受け付けなくなりました。2013年にジャーナリストと対談しています。
ディアトロフ峠事件の概要①登山開始
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ディアトロフ峠の登山を開始するときに、一緒に行くメンバーは皆申し分ない仲間になるような優秀なメンバーで、誰もが登頂に成功することは信じていました。そこには一抹の不安もなく、残された写真にも笑顔が溢れていました。
ディアトロフ峠はなだらかな丘で見晴らしが良いところです。途中でリタイアした1人を除く9人のパーティ全員が、マイナス30℃の極寒の夜に、テント中側から刃物で横に裂き、防寒具もつけず裸足で外に飛び出し、奇怪な死に方をしていました。捜査は未知の不可抗力のため打ち切りになってしまい、この事件はいまだに謎のままなのです。
テスト試験としてオトルテン山にアタック
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ウラル工学大学の生徒と卒業生で構成されているワンダーホーゲル部の9人ともうひとりのメンバーはトレッキング3級の資格取得を目的として、また、ソビエト連邦が定めるアスリート育成プログラムのスポーツマイスターの資格取得を目指していました。全員が、なんとしてもこの資格が欲しかったのです。
一行はオトルテン山を最終の目的地として、1月23日夜、からセロフまで列車で移動し、その後はトラックで移動しました。ソビエトのエカテリンブルクを出発地点としました。登頂を始めると、森林地帯を進み、5日でパーティは最後のポイントに到着しました。ここで食料を帰路に備えて取り分け、この場所に残しました。
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この地点からアタックが開始されます。このルートは難度が高く、厳しいルートですが、全員が山の経験が豊富でした。とくに、隊長のディアトロフはみんなの信頼を集めていました。誰もが登頂の成功を確信するほど、冬山に長けたメンバーだったのです。
体調不良で一名が離脱
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1月28日、最後のキャンプ地でユーリユーディンは持病のリュウマチが悪化したため、リタイヤしています。唯一の生還者であり、真相解明のキーマンだと思われていました。足が痛むと訴えていたユーリはなかなかリタイアを決断できないでいましたが、女性メンバー2人の説得を聞き入れる形で、ここで別れました。
ユーリは地質学を研究していました。ユーリーは生還したものの一切の取材を拒否して姿を消してしまいました。後にユーリーの取材に漕ぎ着けたのが、ジャーナリストのアイカー氏なのです。ディアトロフ隊は9名になり登頂を開始します。この地でマンシ族と遭遇しています。マンシ族は彼らにホラチャフリ峠には気をつけろと忠告しています。
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彼らはここを死の山と呼び、近づかないと言うのです。マンシ族はこの厳しい山岳地帯で狩猟をしている民族です。マンシ族がこの山を1番わかっている者だと言うことは当然のことで、事件後は研究者や取材班などがマンシ族に接触しています。
吹雪によりルートを誤る一行
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ヴィジャイ村から開始して、ホラートシャイフル山を経て、別のルートを辿り15日程で戻る行程100㎞の冬山は経験豊富な彼らにとっても難易度が高いルートでした。1959年2月1日に撮影された写真が残っています。その日はひどい吹雪で、先頭に立つ者の後ろ姿は吹雪の中にかき消えるかのようでした。
写真からしても、強い風が吹いていたのが想像できます。彼らはこの日、ルートを誤ったとされています。設営されたテントはホラートシャッフル山から300mの斜面でした。当初の予定地点よりも西に道をそれてしまっています。そこから、オトルテン山の南に位置するホラートシャッフルへ登り始めてしまいました。
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途中間違いに気がついた一行は下に森林地帯があるのにもかかわらず、遮るものがない山の斜面にテントを張りました。トレッキング3級にパスする条件に、斜面にキャンプを設営する条件があったためと生存者のユーリは説明しています。
テントを張り一夜を明かす…
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この日の日没は16時48分、ディアトロフ隊がテントに入ったのは21時だとわかっています。彼らの日記や写真が残されています。またロシアでは、ディアトロフ隊の著書がたくさん出版されているので、彼らの行動はかなり細部にわたり判っているのです。ホラチャフリ峠はなだらかな丘があるばかりです。
近くに遮るものはなく、一面が平坦な傾斜の雪原です。少し下に降りると森林地帯があり、風も遮り安全です。なぜこの地点にキャンプを張ったのかは生存者ユーリーが語りました。ここはホラチャフリ、死の山と呼ばれています。1097m地点で標高870m付近です。デァトロフ峠は標高775m地点になります。
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斜面にテントを張るためと言うユーリーの説明は信じられるもので、この時点では危機感はなかったとされています。なだらかな斜面で雪崩は発生しにくい土地でした。少し下りると森林地帯ですが、ここで下ることによるタイムロスも避けたかったのではないかと、ユーリーは言います。
ディアトロフ峠事件の概要②捜索隊出動
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彼らが下山しないと騒ぎ出した時に、事故や事件などまったく予想されていませんでした。捜索隊が出たのは8日も後のことです。しかしまだこの時点では、誰もが彼らは無事であることを疑いませんでした。彼らは、山のスペシャリストです。捜索隊は彼らの救出に向かいます。
遺体回収など、誰1人考えてみませんでした。そのため、発見時のテントの検証がほとんどされませんでした。捜索隊に緊張感はなく、テント内に残されたアルコールを飲んでいた者もいました。この時点で彼らの死を考えたものはありませんでした。証拠品になるはずのテントさえ、山を下ろす便宜上、切り刻まれています。
下山予定日からすでに8日
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下山予定からすでに8日が過ぎていました。流石におかしいとは思いましたが、まだこの時点では捜索隊は彼らの生存を信じていました。彼らは捜索隊よりも経験豊富なメンバーで構成されていたのです。それでも、予定から8日は遅すぎるのです。捜索隊は徒歩ルートの他、空からも行われ、大がかりなものになりました。
発見したテントに大きな裂き目
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捜索隊はついにテントを発見しました。テントは10人用の大きなものでストーブが設置されています。発見時は半分雪に埋まっていました。中にはだれもいませんでした。さっきまでそこにいたような状況なのに、テントは空っぽです。そこで詳しく調べてみると、発見されたテントには中がわから鋭い刃物で切られた裂け目があることがわかりました。
テントが見つかった場所は、ルートから大きく外れた場所です。周囲には彼ら以外の足跡はありません。中がわから鋭い刃物で切り裂かれているのに、内部は荒らされていません。ここまででもすでにミステリーです。また、ストーブは設置の途中だったかどうかもポイントとなっています。機能していなければ、翌日濡れた靴と濡れた服では登山困難です。
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ストーブの近くにいた者が薄着だったのではないかとする推理です。発見された当時皆薄着または裸に近い状態だったとする一方で、ジナイダはしっかり着込んでいたとの記録もあるようです。日本ではその記録は発表されていないようです。ロシアではこの事件に関する本が多数発行されています。
ディアトロフ峠事件の概要③遺体発見
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ディアトロフ事件は人のいない冬山で、9人の若者の命が失われた重大な事件です。9人全員が遺体で発見され、還らぬ人となりました。原因はまだ解明されていません。遺体の状態の異様さが問題になり、未だに推理し、事件の検証をしている者たちがいます。遺体の発見から事件を追っていきましょう。
まずはリーダーの遺体を発見
捜査隊が山に入り、6日目にテントを発見しました。テントの位置から20m下に足跡を見つけました。ディアトロフ隊のものです。足跡を頼りに付近を調べるとイーゴリーの遺体がありました。なぜイーゴリー程の者がこの極寒の地でテントを離れたのかが謎でした。
1.5km圏内で3名発見
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これで、イーゴリーを含む4名の遺体が確認できました。なぜか皆薄着でした。4人の遺体が発見されたことで、死因審問が行われました。4人全員が低体温症が死因とされました。しかし、スロボデンは頭蓋骨に亀裂がありました。
この情報には間違いが含まれているとの情報もありますから一応加えて置きます。はじめに1500mの木の下に2人の遺体を発見、イーゴリーの遺体とジナイダの遺体を発見しました。この順番は日本のテレビアンビリーバボの放送内容とは違います。
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木の下にいましたが、木の枝が折れていたことから、どちらかまたは2人が木に登ったのではないかと推理されています。また森とテントの直線上に倒れていた遺体には手のひらと手の甲に争ったあとのようなキズが残されていました。
6日後に1名発見
さらに6日後にルステム1人を発見しましました。外傷がないのは前の3人と同じです。ただ2方向に分かれてテントから離れたのは遺体の発見現場でわかりますがルステムがひとりだけで離れたところにいたのはやはり謎のひとつです。
2ヶ月後に残り4名を発見
彼らは服を身につけていました。ここは森に1㎞ほど入った渓谷です。雪に埋もれた状態で発見されましたが、身を隠しているような状態でした。屈んだ姿勢をとっていたのです。後からの発見された4人の検死では3人に致命症が見つかっています。
つまり、即死状態だったのではないかと見られています。チボブリニョールは頭部に大怪我があり、ドゥビニナは肋骨が折れゾリョタリョフも肋骨を酷く損傷していました。この怪我は交通事故にあった程の強い衝撃に匹敵するような怪我です。
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しかし、外傷はない。高い圧力がくさかかったと思われるとした見解があります。また、ドゥビニナは舌がまるまるありませんでした。一部が切りとられているのではなく、まるまるスッポリないのです。舌がなくなっていることの謎の解明もまだ矛盾が生じています。
事件の原因
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死因は9人のうち6人が、低体温症からの凍死。 谷底で見つかった4人のうちの3人は、肋骨や頭蓋骨の骨折など、強い外力を受けたことによる大量に流れでた血がその死因だと考えられました。 そしてなぜか、殆どの遺体は皮膚が黒っぽく変色し、髪が白くなった遺体もありました。
1番有力視されている原因は雪崩によるもので、逃げているうちに崖から転落したのではないかと見られています。4mの深さに埋まっていた遺体はこれで説明がつきます。ただ、雪崩は斜面30度で起こりやすいのですが、このエリアは15度の傾斜しかありません。
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また谷には川が流れています。遺体は川にうつ伏せになる状態で見つかったとしている見解もあるのです。川に3遺体が見つかっているとしています。川の説では目や舌がない状態が説明がつくと主張しています。ただマイナス30度の極寒の地で、谷川が凍りついていないのはどう説明するのでしょうか。
ディアトロフ峠事件の不可思議な遺体たち
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ディアトロフ峠の遺体は、誰もが見た瞬間にその異様さに気がつきました。ここはマイナス30度の極寒の地です。防寒具を着けないで、テントの外に出るほど差し迫った事態があったのです。遮るもののない平らな雪原です。彼らほど山に熟知した人間なら、冬山の知識は当たり前以上にあったはずなのです。
死因は低体温症と怪我による出血死。
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この捜査の担当は、レフイヴァノフ捜査官です。調査の結果では9人のうちの6人が低体温が原因で凍死しています。またひとりは、頭蓋が割れたための大量の出血による死亡なのです。つまり出血死です。はじめの6人が低体温症も納得出来ないことです。薄着で、または半裸でテントを離れたら、近くより、離れた方が体温は下がるでしょう。
不思議なことです。遺体はテントから離れるほど外傷がひどい状態で見つかっています。また舌がなくなっていたリューダの検死結果では胃が100gの凝固液を含んでいたことを記録しています。舌を失ったときには心臓が動いていたことを示し、いくつかの説が失われます。
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最新の谷川の水に顔をつけていたためや、2ヶ月以上放置されていたため柔らかい部分が失われるのは当然のこととする説が消えてゆきます。そうして、新しい説が出ると古い説が打ち消されてゆくのですが、なかなか核心に至る説はないのです。真相解明には時が経ち過ぎてしまいました。
ほとんどの遺体が薄着だった
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テントの荷物に荒らされた形跡はなく、彼らの遺体を発見するまでは、彼らは忽然と姿を消した状況でした。しかし、彼らの何人かは、薄着で靴も履かずに、外に飛び出しています。それどころか、裸足の者もいました。あろうことか、ほとんど裸の者もいました、他の隊員の服を身につけている者もいました。これには説明がつきます。
気温が極端に低い場所で嵐が吹き荒れていました。それなのに、何人かの足には先に亡くなってしまった者の衣服を引き裂いて巻いてありました。これは矛盾脱衣と関係していて、失権当識状態になっていたか混乱状態になっていたとみられています。そんなことが起こることがあるというのは、可能性としてはあり得ることなのです。
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低体温症の20%から50%は矛盾脱衣が関係しています。つまり彼らは混乱状態であり、自分で服を脱いだのではないかとの見解です。体から熱が奪われるのも早かったのではないでしょうか。海外ではまったく違う見方がされているケースもあります。矛盾脱衣は内臓を守るために一気に血流がながれ暑く感じて衣服を脱ぐのです。
ディアトロフ峠事件の不可解な点
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ディアトロフ峠の事件には不可解な点がたくさんあります。1つ1つをあげて行きますので、それぞれ矛盾が生じない推理ができるか検証してみて下さい。この事件のどこが不思議か辿ってみましょう。そして、この事件がだった一晩で起こったことなのです。解明されたら更に不可思議なことに遭遇してしまうかもしれません。
ディアトロフ峠事件の不思議①山には一行のみ
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この日、ディアトロフ峠の辺りにいたのは、このパーティだけでした。雪に覆われた山では、足跡が残りますが、このパーティの足跡以外はなかったのです。いや、ロシアの政府調査期間を取材したジャーナリストから出た写真には、人間のものよりひとまわり大きい足跡が写された写真が添付されています。
また登頂記録も調べていますが、この付近にも人は入っていないはずです。人が絡んだ殺人事件ではないことになります。ソ連時代に隠蔽されたことが幾つかありますから、こうした情報の食い違いもありますし、ロシアでは事件を扱った本が多数発行されています。アンビリーバボで放映されていない情報もまだまだあります。
ディアトロフ峠事件の不思議②自らの意思でテントを出ている
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テントは中がわから鋭い刃物で横に引き裂かれていて、ブーツや防寒具が残されていました。ブーツとスキーがテントの入り口に1組、テントの反対側に2組、ブーツの片方、スキーが6組立てかけてありました。
山の経験豊富な彼ら全員が自らの意思で荷物全てを残してテントを出る不可解な現象に、関係各方面、取り分け遺族は頭を悩ませています。よほど差し迫った事態が起こったとみるのが普通です。差し迫った事態を推理した説が70種類以上上がっていますから、まったく分かっていないことになります。
ディアトロフ峠事件の不思議③高い放射能線量が検出
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これにはシカゴ大学の放射線科の准教授が答えていますが、被服の放射線量を調べたところ2人の衣服から通常の2倍の放射線量が測定されました。これにより、核実験に遭遇したのではないかと言う説が起こっています。
しかし放射線量が2倍というのは、実は自然界においては大した量ではなく、それによって死に至ることにはならないということです。また肌が黒くなっていたのも被爆によるものとされていますが、まだ結論には至っていません。
ディアトロフ峠事件の不思議④検死資料の一部が非公開
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検死は行われていますが、検死資料が異様に少ないのです。資料がなくても一目瞭然といった資料のみが公開されていて、検死からあらたに判るような資料がないのです。内臓や血液の状態などの資料は明らかに隠蔽されています。
なぜ隠蔽しなければならなかったのかがまた憶測を呼ぶのです。宇宙人やイエイティー、未知との遭遇説がこのあたりから発生しています。また核兵器説、実験の失敗の隠蔽などの憶測を呼んでいます。
ディアトロフ峠事件の不思議⑤変色した肌の色
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一部の隊員の肌の色が黒く変色していましたが、彼らは通常の量の2倍の放射線を被曝していました。なかにはオレンジ色に変色している者もいました。後になり、雪の上で2カ月も晒されていた遺体もありましたから、雪焼けするのはなんら不思議ではなく、当然のことと説明されています。
被曝説、UFO説はこの肌の焼け具合から発生しています。オレンジ色の遺体に付いてはガセだとも言われています。一部黒い肌の遺体も家族によって黒人の血が入っているからと説明されていますが、家族は遺体には対面していないので、検視結果が採用されているケースがほとんどです。
ディアトロフ峠事件の不思議⑥事件前夜の不思議な光
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南に50㎞離れた地点にいた別のパーティは、北の空にオレンジ色の光を見たと証言しています。北の方角とは、ホラートシャッフル山です。同じような光球は1959年の2月、3月にイヴデリとその周辺でも目撃されています。目撃者はソ連の気象関係者と、軍事関係者です。
この光の球は一度ではなく、数回の目撃情報があります。この光球はR7大陸間弾道ミサイルを発射した時のものだとエフゲニーヤブノフが証明しています。キャンプを張った場所はいわくつきの場所だということとはマシン族の忠告で示唆されています。昔から、この地には何かあると言われているのです。いったい何を隠しているというのでしょうか。
ディアトロフ峠事件の不思議⑦軍事利用の噂
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軍がこの地域を利用していたのではないかとか、なんらかの隠蔽工作をしていたと、噂されていましたが、その噂はこの地に置かれていた大量の金属クズが発端になっています。軍事利用については大陸弾道弾のテスト基地があったのは確認できていますが、直接の原因になっていたかどうかについては定かではありません。
また事実として、1940年代からソ連の放射能を研究する極秘拠点になっていて、事故のあった頃に80㎞離れた各施設では大量の放射能が垂れ流されていたことも判明しています。ロシア政府のもみ消し工作を信じて疑わない人もいます。
ディアトロフ峠事件の不思議⑧ちょうど宇宙基地と核実験場の間
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彼らが道に迷い、テントを張った場所は宇宙基地と核実験場の間だったことが判っています。宇宙基地はバイコヌール宇宙基地でここからノバァヤゼムリャのチェルニナヤグバ核実験場に通じる道の途中でした。この地では大陸間弾道ミサイルの実験が行われていたり、実際に何回かは発射しています。
放射能の測定では、この地なら通常の2倍は当たり前の事で、特に問題はないとされています。宇宙基地があるためか、謎の飛翔体の目撃情報が絶えません。マンシ族の目撃情報はおそらく見たままを伝えていると思って間違いないと言われています。
ディアトロフ峠事件の不思議⑨カメラには謎の物体が写っていた
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彼らは多くの写真を残していましたが、最後の1枚に発光体が写っていました。発光体については未だに解明されていません。この写真の謎はどの説にも当てはまっていません。置き去り状態ですが、幽霊説、宇宙人説が結びつきそうです。発光体は空にあったようですが、宇宙人やUFOを主張していたのは、レイイヴァノフ捜査官でした。
ディアトロフ峠事件にかけたロシアの圧力とは!?
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アメリカと冷戦状態にあった旧ソ連時代のことで、政府の力は大きく、一切の反抗は許されない時代でした。ソ連は核兵器開発も、弾道ミサイルも諸外国には秘密裏に行っていました。のちにレフイヴァノフ捜査官は家族にお詫びをしています。政府からの圧力を口にしました。
「未知の不可抗力」と断定
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レフイヴァノフ捜査官はロシア政府からの呼び出しでモスクワから帰ると、それまでとは打って変わって、捜査に熱意を示さなくなりました。そして、捜査の打ち切りを告げました。理由が未知の不可抗力では、家族は納得できません。
それどころか、家族に遺体も引き合わせないのです。こうして強引に捜査は打ち切られました。のちにレフイヴァノフ捜査官は過去の事情を話して、家族にお詫びしています。当時の事情では政府の決定事項には絶対服従以外の選択肢はありませんでした。
その後はロシア政府の機密文書扱い
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機密文書扱いになってしまったために、情報の一部は不明のままです。とりわけ不可解なのは、発表されている資料のなかに、内臓の状態が書かれているものがないのです。気になりネットも調べましたが書き込みがありません。2019年2月1日に雪崩による事故としての捜査が再開されました。
今では情報も開示されていますが、60年と言う歳月で、失われた情報も、すでに調査が不可能な情報も多いでしょう。これからもたらされる新たな情報にも注意を傾けていきましょう。2013年に唯一の生存者ユーリは73歳になっていましたがロシア当局の要請により、メンバーの遺品を確認したところ、軍用のブーツカバーを見つけました。
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ソ連軍とKGBに支給されているもので、捜索隊より、軍が先に現場に入っていた可能性が浮上しました。エカテリンブルク公文書館には公式に発表されている事件の報告をした日の2月16日よりも10日も早く事件が報告されていた書類がのこされています。
ディアトロフ峠事件の真相は?語られる有力説6つ
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ウラル山脈の裏側は昔からロシアのエリア51といわれた地域で、 UFOの目撃説や、雪男、軍事施設などの噂があるところでした。ましてすぐさま機密情報の扱いになったとあっては人々の関心を集めること必須です。
説①動物に襲われた
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このあたりのウラル山脈には灰色熊とオオカミが生息しています。凶暴な野生動植物が、食料の匂いやテントの明かりに引き寄せられて、来てしまい襲われてしまったのではないかと見られています。ところが足跡は見当たらずこの説は可能性が薄いと見られています。
説②原住民に襲われた
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原住民のマンシ族がいます。彼らの日記から、マンシ族に出会っているとわかっています。マンシ族となんらかのトラブルがあったとみて、一部では調査されています。ただマンシ族は大人しい部族で逆に協力的だとされています。
マンシ族はこの事件に動揺していました。それが誤解を呼びマシン族は拷問にかけられました。しかしマンシ族の動揺には意味がありました。昔9人が狩りの途中でこの峠近くでキャンプを張りました。翌朝全員が死んでいました。その話しは、不可解な大洪水に襲われて、逃げ場を探したと伝えられています。
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マンシ族は山に立ち入る者を嫌っていました。彼らは生け贄の洞窟という聖なる洞窟にディアトロフたちが入り、貴重な品々を盗んだことに怒り、夜を待って襲撃殺害したとの情報もありましたが、事実無根です。マンシ族からは飛行機物体を何度も目撃したとの情報を得ています。
説③雪崩に襲われた
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2019年の2月1日に、ロシア検察庁の発表では、彼らは雪崩に遭遇したことになっています。また暴風に襲われたかも知れない、いずれも自然現象によるとされています。暴風に襲われたとしても説明がつかないことが残ります。現在は雪崩情報が有力です。
また後述するヘアピン渦もまだ可能性としては残っています。 雪崩と何かの複合型説もあります。テントが雪に半分埋まっていたことから表層雪崩が起こった可能性はあります。 ただ表層雪崩だてしたら、一部の遺体は4mも埋まっていたのはちょっと考えにくいのです。
説④人間関係のもつれ
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美人の女性隊員に隊長と2名が好意を抱き、彼女を巡って喧嘩になってしまいました。テント内は騒ぎになり彼らは興奮して外に飛び出して行ったとする説ですが、彼らはうまくいっていたとする意見も証言もあり、その説は否定されています。しかし、遺体になった彼らの手のひらと手の甲にある傷には争ったと思われるとの見解もあるのです。