大阪の肝試しスポット「貝塚結核病院」
大阪での肝試しとして有名な「貝塚結核病院」ですが、これはどのような理由で有名になったのでしょうか。名前だけは知っているという方が多いと思いますので、ここではこの肝試しスポットについての紹介をしていきます。
数々の心霊現象が起こる大阪の恐怖スポット!
大阪での肝試しと聞いて、いくつか候補を挙げると必ず名前が挙がるのがこの場所です。あまり肝試しや心霊現象といったものに興味のない人でも、その名前を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。
貝塚結核病院とは
この場所は名前にもあるように結核医療に特化した病院であり、結核医療の拠点となっていました。今の時代となっては結核で亡くなることは少なくなっていますが、当時は治療法も確立していないために死亡率の高い恐ろしい病気でありその治療は専門性の高いものでした。
貝塚結核病院の場所
この病院の場所ですが、大阪府南部に位置する貝塚市の地藏堂というところにあります。アクセス方法ですが、最寄駅である水間鉄道の三ツ松駅で下車してそこから徒歩で東へ15分~20分程の距離です。
貝塚結核病院の成り立ち
この病院はどのような経緯から生まれた病院なのでしょうか。この病院が誕生した成り立ちから、大阪屈指の肝試しで有名な場所となってしまうまでの変遷について時代背景とともに詳しく紹介していきます。
貝塚千石荘病院
結核患者が激増することを予想して貝塚仙石荘病院が1940年に開設されました。当時の結核というのは不治の病であり、たくさんの人がこの病院で亡くなったことや、安置する霊安室が地下の暗い場所にあることなどが肝試しの雰囲気に合っていることもひとつの要因です。
また、結核という病は空気感染によって広まるために患者を隔離する必要がありました。隔離のために敷地が高い塀で囲まれているような閉鎖的な雰囲気も併せて、ここがそのような場所として有名になるのに不思議はありません。
大阪市立少年保養所併設
大阪市立少年保養所である「つくし寮」は貝塚市で特別支援学校として設立された療養施設です。この施設では、小児結核に罹患してしまった子供達が療養しながら勉強することを目的として設立されました。
貝塚養護学校併設
1948年に大阪市立少年保養所内に付設で貝塚学園という学校が設立されました。当初は周りの小中学校の分校という位置付けでしたが、1951年に大阪市立郊外貝塚小中学校として独立し、その後1958年に大阪市立貝塚養護学校という名称に変わっています。
喘息を持った児童や精神障害を持つ子供達を受け入れてきたこの学校も、2009年には閉校となりました。理由は2003年に隣接する仙石荘病院の閉鎖とともに、入院しながら通学する生徒がいなくなったためです。そのこともあり、2007年より新規の生徒児童の受け入れも停止となりました。
貝塚結核病院での恐怖体験
ここは全国的にも有名な場所であるため、かなりの人数が肝試しに訪れます。大半の人には何も起こらないのですが、実際に恐怖体験をした人も中にはいるようです。そういった恐怖体験をいくつか紹介していきます。
恐怖体験①「おーい」という男性の声
これはある11人のグループが肝試しに行った時に起こった実際の恐怖体験です。2階へ進むと真っ暗な廊下となっており、この廊下の先には進んではいけないと直感的に危険信号が点る雰囲気でした。グループの中の一人に霊感がある人がいて、その人にはこの建物に入る時からこの廊下の先に人影が見えていたようです。
そしてその時、霊感のある人が「おーい」という声が聞こえたと言いました。他の10人が気のせいだと思った次の瞬間、その場にいた全員が「おーい」という男性の声を聞いたのです。そこからは全員がパニックとなり、一斉に逃げ帰ったそうです。
恐怖体験②「帰れ」男性の怒鳴り声
ここでのその他の体験談としてよく耳にするのが「帰れ!」という男性の怒鳴り声を聞いたというものです。やはり興味本位で自分達の居場所を荒らされることに対して、その男性は怒りの感情を持っているのでしょうか。
恐怖体験③足を掴まれた
もうひとつここでの恐怖体験としてあるのが、誰かに足をつかまれるといったものです。恐怖の気持ちからくる勘違いの可能性も考えられますが、何人もそのような体験をしているということは本当に何かがあるのかもしれません。
廃墟マニアにも人気!貝塚結核病棟
この病院は肝試しの場所としてはかなり有名な場所ですが、実は廃墟マニアにも有名な場所で、かなりの人がこの場所に集まっています。廃墟マニアの人達は、この場所のどういったところに惹きつけられているのでしょうか。
残された手術台
この病院は閉院してからずっと手つかずだったため廃墟のような状態です。手術台もそのまま放置されていて、荒れ果ててしまった手術台や手術室の様子はその雰囲気だけで廃墟感をいっそう高めています。
放置された医療器具
放置されているのは手術台だけではありません。医療器具からカルテといった様々なものがそのまま放置されており、この場所が実際に病院として実在していたことを物語っています。そしてここで非常に多くの人が亡くなっているという事実を実感してしまいます。
昼は廃墟マニア夜は心霊マニアを惹きつけるスポットに
この場所は廃墟のような外観に加え、内装も荒れた状態でそのまま残っているために廃墟マニアにとっても有名な場所です。そのためここは昼は廃墟マニア、夜は心霊マニアを惹きつける場所ということで、昼も夜も関係なく人が集まってきています。
廃墟や肝試しに興味のある方はこちらもご覧になってください。
貝塚結核病棟の今
現在でもこの場所は大阪での肝試しとして様々な場所で紹介されていますが、本当に今も肝試しや廃墟散策としてたくさんの人が訪れているのでしょうか。現在、ここがどのような場所となっているのか紹介していきます。
貝塚結核病棟解体
この土地は2011年の9月に大阪市から貝塚市に売却されています。既に千石荘病院は取り壊されて更地となっていましたが、少年保養所は荒れ果ててはいましたが建物は残っている状態でした。一番最近まで使用されていた養護学校は、建物自体がまだ使用可能な状態でありました。
貝塚結核病棟跡地再開発
貝塚市はこの取得した広大な土地を有効活用すべく大規模な再開発に乗り出しました。手つかずで荒れ果てた土地を整備する一方で、豊かな自然はそのまま活かした街づくりを目標に再開発を進めています。
現在はのどかな乗馬クラブに
再開発のひとつとして、少年保養所を取り壊した場所に乗馬クラブを併設したレストラン「森の小径」が誕生しました。のどかな乗馬クラブの雰囲気からは、かつて肝試しにたくさんの人が訪れていたという面影はありません。一方で養護学校として使われていた施設に関しては、新たに別の教育施設として再利用する計画が進められています。
貝塚結核病院「せんごくの杜」へ
この病院の跡地は現在「せんごくの杜」と呼ばれています。きれいに整備された跡地を見た人は、その場所がかつては大阪で有名な肝試しスポットであったと言われても信じることはできないでしょう。
里山再生活動
現在はボランティア団体が中心となって里山再生計画を実行しており、生い茂っていた藪は伐採され森林もきれいに整備されています。そしてケヤキ広場を整備したり、桜の植樹をして将来的には桜並木を作る計画など地域の人が子供から高齢者までが集えるような場所を提供する活動を行っています。
また、ランニングコースやハイキングコースの整備、展望台の設置など夢は広がっていて里山の可能性は無限です。かつての自然を取り戻すだけではなく、未来に向けてさらなる里山の整備が進められています。