「まぐわい」ってどんな意味?昔から使われるまぐわいの意味や由来とは

「まぐわい」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか?今ではあまり聞きなれない方も多いかもしれませんが、日本で古くからある言葉のうちの一つなのです。この記事ではまぐわいという言葉について詳しく説明していきたいと思います。

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アウトドアが好き。少しだけ自然という非日常に触れて、現実へと帰る感じが好き。そう感じるのは、幼い頃にキャンプへ連れて行ってもらえたからだと思う。星空を流れる風の音に心を奪われた夜の思い出は、幾つになっても、色あせずに血肉となって、受け継がれていくのだと思う。
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まぐわいの元々の意味

まぐわいという言葉はとても古く、語源をさかのぼるとなれば、日本の創世神話にあたる古事記が記された頃にまで辿り着くと言われています。古事記が編纂された時期を、写本に記された和銅5年と考えるならば、およそ、1,300年前の頃には、広く定着していた言葉と考えることができます。

実際、古事記にはまぐわいという表現が使われており、特に有名なのが、日本の国々(島々)を産んだとされる女神の伊邪那美命(イザナミノミコト)と、その夫となる伊邪那岐命(イザナギノミコト)が執り行った美斗能麻具波比(みとのまぐわい)と言われる一説です。

古事記では、これが最終的に性交渉を意味する言葉と解されることが多く、この後、女神である伊邪那美命(イザナミノミコト)は、水蛭子(ひるこ)という最初の子(神々の間に生まれているので、おそらくは神)を産みますが、葦の船に乗せて流し去らせてしまうという記述が続きます。

詳しい流れは後述するとしても、物語として読むと面白さを感じる人も多い場面なのですが、これが日本に降り立った最初の神の所業かと思うと、驚かされる話です。何より、日本の最初の神が行った国作りの行事に、まぐわいという表現が用いられていることに意味深さを感じずにはいられません。

なぜなら、まぐわいという言葉の元々の意味は、今風に言うのであれば、アイコンタクトのような人と人との目くばせを意味する言葉だったと考えられているためです。さて、それでは、どうして目くばせが、性交渉という意味にまで広がってしまったのかについて、それぞれの時代背景に触れながら説明を試みたいと思います。

目合い・目くばせ

目くばせという言葉は、今の日本の漢字使いでは、目配せとも表記し、視線を通じて合図を送るという意味を持つ言葉です。当然ながら、単に目くばせという言葉を使っているのであれば、目線を送る相手は、同性である場合もあるでしょうし、異性であることも考えられます。

これに対して、まぐわいとは、視線を送る先が情愛の念を抱く相手に限った独特の言葉遣いであるとすれば、理解が早くなります。今であれば、そんな特別な言い回しをせずとも良さそうな話ですが、当時の宮中では男女が互いの目線の届く距離に立つことが異例であったと考えられるため、状況を表すために別の言葉で表したと考えると辻褄が揃います。

目合いの意味はもっと奥深い

状況を表すために、同じ読み方であっても、意味の伝え間違えを防ぐために別の漢字を充てるという行為は、現在の日本にも受け継がれています。例えば、社内で部署間の移動があることを示す異動辞令も、状況を表すために別の言葉で表した一例と言えます。

このように状況を示す目的で似合う漢字を用立てることは、当時から珍しくないことだったと考えられています。同じように、まぐわいという言葉に、別の漢字を充てて考えてみましょう。いろいろな漢字が思い浮かぶと思いますが、辞書では目合いという言葉を見つけることができます。

目合いとは、今日の仮名遣いにて、まぐわいと読ませる漢字です。このような漢字が充てられていることを知ると、まぐわいの本来の意味が、目線が交わって、互いの瞳を覗き見ることを意味する言葉だったと素直に納得できそうです。

しかし、目合いに良く似た漢字で作られた、見合いという言葉もあります。こちらも互いの瞳を覗き見るという姿が思い浮かぶ言葉ですが、意味は大きく異なります。見合いは、結婚を希望しつつも、お互いの面識を持たない男女が、仲介人(介添人)を介して対面する慣習や作法を意味する言葉として使われています。

そのため、見合いから目会いにつながることは起こり得る話なのかもしれませんが、目合いから見合いになることは考えにくく、わずか一文字の漢字の違いながら、意味はまったく異なる言葉と言えます。

情交・性交

また、まぐわいという言葉の意味の一つに、男女間の情交や性交と言った意味が含まれると解釈されています。こちらについても、その主だった理由は、先の古事記の物語に由来があるとする説が一般的です。

しかし、情交と性交は、一緒くたに扱うには無理のある言葉です。情交は、思いのこもった交際を意味する言葉で、多くは清らかな交際を示す言葉遣いとして扱われます。時として、性交と同一視されてしまうこともありますが、情を交わすという表現がなされるくらい相思相愛の様子が伺われる言葉です。

まぐわいを性交と呼ぶのは不適切

そこで気になるのが、まぐわいの意味の一つに性交が含まれる点です。そう言った要素がないとは言えないのですが、男女の肉体的な関係のみを推し量ることで言い表される性交と呼ぶのは、不適切と考える方が良いでしょう。

目線の情熱的な視線や、お互いの視線が交わるという細やかな心情の歩み寄りから、最終的に情交に至る一連の流れを示すのだと解すのであれば、なおさら、その起点となる情愛の深さこそが、他の言葉では表現できない、まぐわい独自の言葉の本質に迫る要件と言えるからです。

まぐわいは男女の愛情の深さを表す

好きと嫌いを表す言葉にも、日本独自の趣があります。いわゆる、昔の言葉遣いで言うところの良し、悪しの話です。現在の日本を生きる人に、好き嫌いを尋ねたら、まるでイエス、ノーのクイズのように二択を迫っているかのように錯覚されてしまうかもしれません。

しかし、日本語が定着するまでの時代背景を考えると、よし、よろし、あし、わろしと、いくつかの言葉が使い分けられてきた経緯があり、単純なよしとあしの二つの選択肢であっても、よし=全て良いと言う意味にはならないし。あし=一つも良いところがないと言う意味にもなりません。

しかし、そんな曖昧さと中庸性を併せ持つ古風な日本語の中にあって、まぐわいは特に親密な気持ちの強さを表す言葉として扱われており、それはまさしく、深い愛情のあり様を相手に伝えるための特別な意味を持った言葉として使われていたと考えられます。

語源は目合いという言葉

様々な読み方と呼び方がある日本語の歴史を紐解くきっかけとして、まぐわいは面白い言葉です。ひらがなで書いても、たった四文字の短い単語にすぎませんが、読めるだけでは意味が伝わりません。また、意味を知っていたとしても、それを何と表現すべきかを充分すぎるほどに悩ませてくれます。

それを理解しあっていた男女の間でこそ、意味を成す言葉。まるで、魔法の合言葉のようです。そのたった四文字を表現するために、私たちの祖先は長い時間を費やし、今の私たちまで残してくれたのです。その真髄をもっと深く、探ってみたいと思います。

セックスとの言葉の違い

最近では、カタカナで書かれた外来語が紙面を飾る機会が増えて、ひらがなで表現される言葉よりも、頻繁に目に飛び込んで来るように感じます。特に、セックスという言葉はサ行の子気味良い響きを伴って、タブーとして扱われがちな意味を微塵も感じさせずに、淀むことなく口にできる珍しい言葉と言えます。

その理由の一つが、セックスがその人の性別を表す言葉としての意味を持っていることも強く関係しているのでしょう。これは英文の特徴として、単語の意味は文章での使われ方に依存する傾向が強いために、いくつかの意味を持つ言葉として成立するのですが、日本語として使う場合、単に性交渉の意味で多様されている印象を受けます。

愛している気持ちを加えるとまぐわいになる

性交渉としての側面が強いセックスという外来語に対して、まぐわいは性交渉という意味合いよりも、男女間の愛情を深さを指し示す言葉として使われていたことを考えると、セックスとまぐわいは、似て非なる言葉と言えそうです。

エッチとの違い

エッチという言葉と、まぐわいという言葉の意味するところの違いは極めて単純明快です。まぐわいが、男女の深い情愛を指し示す、心の内側を伝える要素に重きを置く言葉であることに対して、エッチは性的ないやらしさを感じさせる要素を含んでいることを相手に伝えるための言葉と言えます。

つまり、人間の感情を表すまぐわいと異なり、エッチは人物や物事に限らず、例えば、成人向けの酒場や広告、彫刻などの美術品に至るまで、あらゆるジャンルを網羅して使われる言葉という訳です。時として、どちらも性交渉を意味するものとして混同されがちですが、言葉の生成過程で考えると別物と言えます。

エッチという呼び方が生まれた時代背景

エッチという呼び方が、性的な意味を含むいやらしいもの全般を意味する俗語として使われるようになったのは、ここ40年から50年余りのことと言われています。しかし、その語源についてはもう少し古くて、開国後に日本語として使われ始めたローマ字表記にあると考えられています。

日本の著名な歌人の一人である石川啄木のローマ字日記は、日本語をアルファベットを使って、ローマ字に置き換えて書かれた作品ですが、当時の様子が生々しく描かれており、一つの文化性を持っていたことが伺われます。

その文化性の一つに、略称による表記のありかたがあります。例えば、Aさんと呼ぶ場合、本当はア行から始まる苗字の人なのかもしれませんが、ローマ字で表記する際には、英文に倣って、略してAさんと呼んでも差し支えないという大人の遊び心とも言うべき流れがあったようです。

そのため、Hという略称が、いやらしいこと全般の意味へととって代わるという流れが生まれたのです。ちなみに、いくつか候補となる文字列があるものの、HENTAIという文字列の頭文字が由来しているという説が有力です。

愛情がある独特の表現

まぐわいという言葉は、視線の先に映る相手への愛情を伴う言葉です。その繊細さは、指先でそっと触れた後にすら愛おしさを感じる、儚さを尊さを感じる日本らしい独自の愛情表現がこめられた、思いの凝縮された言葉と言えます。それゆえに、外来語で表される性交渉を意味する言葉とは、本質が異なる言葉と言えるのです。

まぐわいという言葉の歴史

まぐわいという言葉の定着はとても古く、少なくとも、今から1,300年くらい前までさかのぼることができると考えられています。大宝律令が定められたのが701年。その後、奈良に都が定められたのが710年であることを考えると、日本であれば奈良時代には知られていたと考えることができそうです。

古事記にもまぐわいの文字がある

日本の神話を語り継ぐとされる古事記にも、まぐわいと読める文字があります。現在の私たちでは、読み解くのが困難なほど重々しい漢字が充てられており、美斗能麻具波比(みとのまぐわい)と言います。

美斗能麻具波比(みとのまぐわい)と日本

古事記では、女神である伊邪那美命(イザナミノミコト)と、その夫となる伊邪那岐命(イザナギノミコト)という二柱の神が、お互いの体の様子を指摘しあった上で、国生みをするために、美斗能麻具波比(みとのまぐわい)と言われる儀式を行おうと話す場面が記載されています。

美斗能麻具波比(みとのまぐわい)と言われる儀式は、天之御柱(あめのみはしら)にて婚姻を終えた後に伊邪那美命(イザナミノミコト)と、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が久美度(くみど)と呼ばれる場所で行なったとされています。

この時、最初に生まれた子に、水蛭子(ひるこ)という名前を付けました。しかし、古事記では葦の船に乗せて流し去らせてしまうという記述が続きます。理由はいくつか考えられますが、充てられている漢字の様子から、その子は人の形を成していなかったのではないかと推測されています。

続いて、伊邪那美命(イザナミノミコト)は、淡島(あわしま)を生んだと記述されています。しかし、これも子の数には含めなかったと言葉が続きます。物語が描かれた当時の日本の様子が、背景として重なる話です。

昔は愛情を重視していた

まぐわいは、相手への深い情愛を表す心のあり方を伝えるための言葉と解すると、この言葉が意味を成していた当時は、愛情を伴った情交をそれ以外の性交と区別し、ある意味においては特別視していた様子が伺えます。

単純に言い切れるものではありませんが、当時の結婚観に対して、恋愛に憧れる気持ちが見て取れる言葉遣いなのです。何故かというと、男女の目線が触れ合うという姿から描かれるまぐわいは、目の届く距離に二人が立ち会わなければ始まらないからです。

その様子を想像するためには、古事記が描かれた頃の宮中の様子に触れると合点が行くことでしょう。宮中では年頃の男女がお互いに顔を合わせる機会は限られていました。そのため、相手に思いを伝えるために文が用いられ、これが後に恋文として残ることになるのですが、文には知性と品格を示す術として和歌が詠まれるほどでした。

古くから続く性への意識

それぞれの時代において、恋愛や結婚に対する価値観は異なります。そして、その流れの中で生まれたのがまぐわいという言葉なのです。受け継がれた言葉に宿る意味を良く噛み締めて、先人の思いに心を馳せるのも面白いことなのかもしれません。

古き良き日本語は廃れつつある

先人たちの残した古き良き日本語は、残念ながら、今の日本では使われる機会が減り、耳にする機会も失われつつあります。理由はいくつも考えられますが、生活環境が変化していることに加えて、昔と今では、男女の持つ距離感が大きく異なっています。

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