秩父事件とは?事件の概要と時代背景、発生理由などを分かりやすく解説!

彼はこの組織内で副総理の役割を担っていた石間村上農出身の人物で、非常に高い指揮能力を持っていたとされています。貧しい者たちの面倒をよく見ていたことから質屋の良助と呼ばれていました。まさに人の上に立つべき人間だったという事がよく分かります。

この一揆の中では副総理という役割の中で表立って指揮を執るものの、本陣が崩壊するとこちらも離脱をして東京まで逃げ延びます。しかし最後には神田で捕まえられてしまい、先の人物たちと同様裁判の結果死刑を宣告されてしまい、同じ年に刑が執行されました。

秩父事件・困民党の主要人物③新井周三郎

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この人物は現在の寄居町出身で、組織の中では甲大隊長という役割を担っていました。彼は当時この組織のある地域で教師に空きがあるという話を聞き、副総理の家を訪れた際に困民党の存在を初めて知ります。そして人々の生活が苦しんでいるという状況を見ていられずに組織へ参加することとなりました。

一揆の中では4日目に捕虜の男に斬られ重傷を負ってしまいます。これによって一揆の統制が乱れてしまい、混乱を引き起こすこととなってしまいます。その後は故郷に帰り身を潜めていたものの捕まえられてしまい、同じく裁判で死刑を言い渡され、亡くなってしまいます。

秩父事件・困民党の主要人物④高岸善吉

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この人物は小隊長という役割を請け負い、吉田村での指揮を行っており、明治17年にこの組織に参加をしました。また、蚕の産業を行っていた人物でもあり、この地域とは縁の深い人物でもあります。こういった経歴から蚕の産業を営む者たちを助ける為に動く活動家としての側面も持っています。

一揆の中では小隊長として部隊を動かし、あらゆる場面で多大な活躍をした人物として知られています。その後は仲間と行動を共にして東京まで逃げ延びることに成功しますが、最期には捕まえられてしまい、副総理と共に死刑の宣告を受ける事になりました。

秩父事件・困民党の主要人物⑤坂本宗作

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上吉田村という地域出身のこの人物は伝令使という役割を一揆の中で担っていました。一揆に際しては鉢巻を巻いて参加をし、そこには戒名が書かれていたことからこの一揆におけるこの人物の覚悟が見て取れます。また、戦地においては本陣が崩れた後は他の仲間たちと共に信州の一揆を指揮していました。

一揆には後半まで参加し、最終的には他の人たち同様に逃げることとなります。その後は秩父の山中まで逃げ延び、そこの炭燃小屋に身を潜めていたところを見つかってしまい、捉えられることとなります。そしてほかの幹部たち同様に彼も死刑となり翌年に刑が執り行われました。

困民党の主要人物⑥菊池貫平

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この人物は一揆における主要な人物として知られています。有数の蚕業を営んでおり、参謀と言う役割でこの組織の中核を担っていました。そして厳しい規律として有名なこの組織の5つの規律を作ったのもこの人物であり、これによって組織は一気に統率が履かれたとも言われています。

一揆の際は本陣が崩れてしまった後に新しく総理として指揮を執りますが、事件の後は行方が分からなくなり、裁判にも出席していませんでした。そして裁判後甲府で見つかり捕まえられた菊池は恩赦によって死刑ではなくなり、明治38年には故郷へ帰ることとなりました。

困民党の主要人物⑦井上伝蔵

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下吉田村出身であるこの人物は一揆における役割の中でも重要な会計長の役割を担っていました。明治17年に組織に参加してからは価格の下落により生活に苦し人々を見たことから幹部として組織のしっかりとした構築とその運動に力を尽くすようになります。こういった活躍もあってこのような重要な役職に付けたと考えられます。

そして一揆の後捕まえられることを恐れた彼は北海道まで逃げ延びることに成功し、そこで潜伏して生活を始めます。裁判には出席せずに死刑を宣告されるものの、潜伏先で名前を変えてそこでできた家族と共に生活をしていました。そして大正の時代まで生き、その生涯を家族の元で終えることとなります。

秩父事件の起きた場所の地域性

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ここまでこの大規模な一揆を引き起こした組織の主要な人物たちについて見ていきました。ではここからはこの事件が引き起こされた地域性は一体どのようなものだったのか、そして一揆がおきたことと地域性との関係性についても絡めて見ていきたいと思います。

秩父事件の起きた場所の地域性①賭事や祭りを好む

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まずこの地域の特徴として、非常に祭りごとなどに力を入れていると言う物があります。これは現代になっても受け継がれているもので、実際に秩父地方ではお祭りが数多く開催され、それを見に来る観光客も多く訪れるなどしています。

ではこの時代の祭りに関してですが、前述したようにこの地域で生産されていた蚕の繭や糸の価格が海外の輸出物として注目を集め始めたことによって収入が激増した際、この地域ではその収入の多くを祭りや賭け事、そして花火などに使い込んでいました。こういった点も地域性だと考えられます。

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特に花火に関しては現在でも非常に人気の高いものとなっており、花火がいつもどこかで打ち上げられているといっても過言ではないほどです。こういった特色が、この地域の村の人たちの性格や人格を作り上げていったのだと推察できます。

秩父事件の起きた場所の地域性②郷土愛が強め

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そしてこの地域の地域性として他に挙げられるものとして、昔から郷土愛が非常に強いと言うものがあります。この地域に住む者たちはここに住んでいるという事を大切に思っており、地域の者たちで一致団結して物事を解決するといった傾向が強かったのです。

こういった地域の特徴から考えてみるとこの事件が起きたのもこの地域性が関係しているように推察できます。生活が苦しんでいる地域の仲間たちが段々と集まっていき、互いに協力して一つの大きな組織を形成するといった背景が、この地域性の観点から見えてきます。

秩父事件は現在も語り継がれている

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この大規模な農民たちによる一揆についてここまで見ていきましたが、この事件はこれまで忘れてはならないものとして語り続けられ、そしてそれは現在でも変わらずに行われ続けています。ここではこの一揆に関して現代で開催された記念集会について見ていきます。

秩父事件125周年記念集

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2009年にこの事件が125周年を迎えたという事を記念してそれを記念する為の集会が秩父で行われました。やはりこの事件はこの地域の人たちにとっては忘れてはならない大きなものの一つとして今もなお深く心に残っているのだということが分かります。

集会内ではこの事件を題材とした映画作品の上映やこの事件について書かれた詩を読むといったプログラムや、この一揆を演劇として執り行ったり、この集会の為の特別な講演会を開催するなど様々な演目でこの事件を振り返るといった内容の集会となっていました。

秩父事件の精神は受け継がれていた

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そしてこの集会には数多くの参加者が集まっていたことからも、この一揆の精神がまだ現代のこの地域の人たちの心に受け継がれているという事がうかがい知れます。貧しさからの脱却の為に立ち上がり団結して向かった心は未だこの地域に根付いていたのです。

そしてこの精神を表すかのように、この一揆で激しい戦いが行われた場所にはこれによって命を落とした農村の人たちを祀ったお墓があるのです。これは50回忌に際して建てられたものであり、まさしくこの地域の人たちが彼らの精神を受け継ぎ、敬意を表したものなのです。

秩父事件を題材にした映画も

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ここまでこの事件がこの地域の人々に現代でも未だに強く根付いているという点について記念首魁といった点から見ていきました。そしてこの事件はその背景の濃さも相まって度々映画の題材として用いられています。ここからはこの事件を題材とした映画作品について見ていきます。

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