秩父事件とは?事件の概要と時代背景、発生理由などを分かりやすく解説!

この事件は明治時代に引き起こされたもので、朝鮮との関係にひずみが生まれている中でこの組織は朝鮮側の支援を行うようになります。その中で動きを感知した日本国内ではこの当時の挑戦の責任者をその任から引きずり下ろすという手段に打って出ます。

これに対して組織は朝鮮内で反乱を引き起こし、再び失脚させられた責任者を政治の舞台に上がらせようとしたといった事件です。この事件も前述した事件同様に事を起こす前にその計画がばれてしまい、さらに計画に参加していた数100名の党員たちは捕まることとなりました。

この事件においてもこの組織は秩父での事件同様に国内の政府に対し反抗をするといった目的を持っているというように推察でき、今度は海外の国でかつて引き起こした一揆と同じことを行おうとしていたという事が分かります。それだけこの時代は政治に対して不満を持っていた者たちが多かったという裏付けにもなります。

秩父事件以降の自由党員の起こした事件③静岡事件

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この事件は名称の通り静岡県で起きたこの組織による事件であり、ここでもかつて引き起こした一揆のように武力によって政府への反乱を行うことを計画していました。しかし数々のこれまでの事件の失敗によってこの計画は中止され、政府の重要人物の暗殺を行うという目的へと変更されました。

しかしながらこの暗殺を行うという計画も既に察知されており、最終的には事件を起こす前に捕まえられてしまいます。その後捕らえられた者たちは裁判にかけられることとなり、最大で15年もの懲役に伏すなどの判決が言い渡されることとなりました。こうして暗殺計画は未然に防がれることとなったのです。

秩父事件の一揆以外に一揆の形態には年代ごとにどんなものがある?

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ここまで一揆の内容について、様々な点から見ていきましたが、その背景には生活に苦しんだ農村の人々がそれを変えようと必死だということが分かります。ではここからはそういった部分をより深く知る為にも、国内で起きた一揆には時代ごとにどのような形態があるのかについてみていきます。

室町時代に行われた土一揆

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これは室町時代にかけて行われた一揆の形態を指し、自分たちの置かれている生活の状況の改善を訴えるという点や農村の人々が集団となって立ち向かうという様式はこの時代から変わっていませんでした。武器を手に取って立ち向かうという点も今回紹介した事件内で起きた一揆と酷似しています。

また、なぜこのような名称になっているのかという事についてですが、これはこの時代の農村で働く人たちの事を土民と呼んでいたことからこのような名称で呼ばれるようになったそうです。また、この一揆は天皇が変わる折などに頻繁に行われるようになり、時には毎年行われることも多かったようです。

宗教の信徒たちが権力に対抗した一向一揆

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これは今回紹介した一揆の事例とは少し違った側面の形態となっています。これは宗教の信仰者たちがその自由の為に結成した集団によって行われた一揆の名称の事であり、お寺などを中心に非常に強力な集団を作り上げていました。違うといっても権力に対して自分たちの主張を要求するという点では今回の事例と同じだと言えます。

この集団による組織は非常に強固であったと言われており、特に戦乱の時代にかけては大名たちによって鎮圧が行われるまでは比較的安定した街が築かれるなど一定の自由がそこにはあったとされています。また、勢力の拡大によって時には大名を脅かすほどの武力を有していたともされています。

秩父事件も該当する世直し一揆

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これは主に江戸時代に起きた事例に対して付けられた名称であり、明治時代の初期頃に起きたものにもあてられることがあります。今回紹介した事例もこちらの者に当てはまる物であり、明治時代にはこれらの一揆の運動は最大規模にまで登ったともされています。

これらの一揆全てに当てはまるものとして、生活の苦しみから政府に対して税金の減額などを訴える為に武器を取って戦闘を行い施設の占拠などを行う物がほとんどとなっています。また、この一揆では攻撃する人たちが政府だけではなく、役人や商人も含まれていたというのも特徴となっています。

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ここまで各時代における一揆の形態について見て行ったものの、そのほとんどは攻撃を行う対象が自分たちよりも位の高い存在である政府だという事が変わらないということが分かりました。やはり民衆に対してしっかりと耳を傾けなければ、このように反旗を翻されるというのはいつの時代も変わらないという事です。

これまで国内で起きた一揆の事例から秩父事件との類似性を解説

ここまでこの事件を筆頭に、様々な点から一揆について紹介をして行きました。ではここからは補足的な観点から国内で引き起こされた一揆について、どのようなものがあるのか、また今回紹介した事件との類似性はあるのかといった側面からみていきます。

日本史上最大の一揆となった島原天草一揆

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この一揆は江戸時代の初期に引き起こされた日本の歴史上でも大規模な一揆であり、さらに最大規模の内乱の一つとしても知られています。これが引き起こされたら要因としては宗教の弾圧によって追いやられた人々による、宗教を認めてもらうための主張を発端とした政府への反発だとされています。

この一揆は他のこうした事例とは異なる点が数多く存在し、その一つとして国外の宗教であるキリスト教を進行することを認めてもらう為に一揆を起こしたという点が存在します。国内での宗教に関して起こされた一揆は存在しますが、海外の宗教に関対して起こされた一揆というのはかなり珍しい事例であると言えます。

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そしてこの一揆とこれまで取り上げた一揆との類似性を考察してみると、やはり他の一揆とも関係するのですが、政府に対して自分たちの主張を武器を取って強制的に認めてもらうという点が存在します。これに関してはいつの時代、どの観点からでも見て取れるものであると推察されます。

また、他にも一揆の範疇からは外れてしまう程大規模な戦闘が引き起こされたという点、そしてこれは宗教による点でも見られますが、農村の人々の間で非常に高い統制が取れていたという点も類似している点として挙げられるかと推察が出来ます。

農民たちが起こした歴史上最初の一揆正長の土一揆

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これは農村に住む者たちが歴史上はじめて立ち上がった有名なものです。引き起こされた直接的な原因としては不作が相次いだことによる年貢の圧迫、流行り病が流行ったことによる生活が苦しみ始めたことが理由だと推察されています。

また、この一揆と秩父で起きたものとの類似点を考察してみると、やはり生活が苦しんだことが一揆の発端となった事が挙げられます。また、借金といった金銭面での負担が血気のきっかけとなったという点も類似点として考えられます。やはりいつの時代も金銭と言うものは争いを引き起こす種になってしまうのです。

秩父事件は明治時代最大級の大規模な武装蜂起事件

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ここまでこの事件について紹介していきましたが、いかがだったでしょうか。この事件はこの動乱の時代の中でも最大の規模を誇る一揆として現在まで語り継がれ、時には後ろ暗い歴史の一つとしても知られることとなっています。

この事件は市民が政治に表立って働きかけを行うという大きな意味を持つ事件です。しかし現代ではこのような主張ではなく、平和的な解決方法がいくらでも存在します。この事件を教訓として、もっとよりよい社会を構築できるよう、一人一人が凍事件から学んでいけることを切に願っています。

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