カラチャイ湖はソ連が隠蔽した世界一汚染された湖!ウラル核惨事の真実も

カラチャイ湖は世界で最も放射能に汚染された湖で、危険度レベルは人間の致死量をはるかに超えています。カラチャイ湖が放射能汚染された経緯から旧ソ連が隠ぺいした核惨事の真実と冷戦時代の核政策そして現在のカラチャイ湖がどうなっているのか解説します。

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1986年生まれ。2児の母。
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カラチャイ湖|世界一やばい湖とは

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カラチャイ湖という湖をご存知でしょうか。史上最悪と言われるほど放射能で汚染されたこの湖は、ロシアのチェラビンスク州の南ウラルにあるマヤーク核技術施設近くに存在しています。ロシアとカザフスタンとの国境に近い山脈にある、0.15平方キロメートルの小さな湖です。主要都市のモスクワから、1400㎞以上も離れた森の中の湖です。

カラチャイ湖は世界最悪レベルの汚染湖

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地球上でもっとも汚染された場所だと言われているこの湖の底には、チェルノブイリ原発事故の際に放出された2.4倍もの放射性物質が沈んでいます。放射能量は、半減期が30年のセシウムやストロンチウムなどを中心に450万テラベクレル以上とされています。1テラベクレルとは1ベクレルの1兆倍ですので、地球上稀にみる凄まじい汚染です。

カラチャイ湖が世界一汚染されていると言われる理由

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なぜ世界で一番汚染されていると言われるのでしょうか。それは旧ソ連の核兵器開発の為に作られたプルトニウム生産工場から、長年にわたって液体放射性廃棄物質がカラチャイ湖に垂れ流されたからなのです。垂れ流しは工場の最初の原子炉が稼働した1948年の翌年から、50年半ばまで平然と行われていました。

生物が住めないほどに汚染された湖

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カラチャイ湖には魚を含む生物の生存が一切認められていません。なぜなら、恐ろしい量の放射性物質を閉じ込めるために大量のセメントで埋め立てられているからです。埋め立てが始まる前は、放射能の汚染によって下あごが突き出したり、歯並びがおかしくなった奇形の魚が発見されていました。

6シーベルトの放射線量

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カラチャイ湖の湖畔の放射線量は6シーベルトとされています。シーベルトとは放射線が人体へ与えるダメージの単位です。6シーベルトというこの数値は非常に高く、東日本大震災の福島第一原発の事故翌日の最大放射線量が、一時間当たり4.6ミリシーベルトだったことからもよく分かります。

放射線量別人体への影響度

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胃のレントゲン撮影の被ばく量が2ミリシーベルトですが、50ミリシーベルトを超えるとがんの発生率が上昇し始めます。1シーベルトになると吐き気などの症状が出始め、6シーベルト以上でほとんどの人間が死亡します。また生物が被ばくするとDNAが傷つき、次世代の子孫に奇形が発生します。カラチャイ湖でも奇形の魚が発生しました。

チェルノブイリよりも危険な湖

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長年蓄積された放射性廃棄物によって汚染された湖の底には、深さ3.4メートルほどの堆積物がありました。この堆積物から放出された放射能は1億2000万キュリー。この数字は1986年に起きたチェルノブイリ原発事故時の放射線放出量の2倍です。

カラチャイ湖がここまで汚染された理由

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ここまで汚染被害が広がったのには、カラチャイ湖が放射線物質の廃棄処理地であったからです。大量に出る高濃度の放射性廃棄物はガラス固化施設でガラス固化体に加工されましたが、中レベル以下の廃棄物は主にカラチャイ湖に未処理のまま流されていました。

カラチャイ湖付近に核技術施設「マヤーク」誕生

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「マヤーク」とはロシア語で灯台という意味を持ちます。チェラビンスク州のオジョルスク市に建てられたこの巨大施設は、核兵器に使用する核分裂性物質を生産する工場としてソ連で初めて建設されました。以前から建設されていた工場をもとに、原子爆弾開発の中核施設としてオジョルスク市と合同で建てられました。

ナチス侵攻対策

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第二次世界大戦中、ナチスドイツに対抗して原子爆弾の開発を進めようとしたソ連。ヨーロッパの大部分を占領したドイツに対して、アメリカとソ連は1945年にドイツを降伏させます。同年5月、ヨーロッパにおける世界大戦が終わります。

米ソ冷戦時代「最重要国家機密」

最高指導者のスターリンは、東ヨーロッパの国を次々に社会主義国に変え、自国の仲間を増やしていきました。資本主義国であるアメリカとは次第に敵対し始めましたが、直接軍が戦闘することはなく冷戦と呼ばれるようになります。当時アメリカに比べて核開発が遅れていたソ連は国家の威信をかけて、秘密裏に原子力施設を建設しました。

カラチャイ湖に放射性廃棄物廃棄

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核施設が建設され核開発が急激に進むなかで、大量の放射性廃棄物の大部分は再処理されました。しかし再処理工程でできた中レベル以下の放射性廃棄物はすべてカラチャイ湖に放流されていました。当時のソ連では。放射能の危険性や環境への影響があまり知られていなかったのです。

カラチャイ湖が地図から消える

核施設の名称は「マヤーク生産共同体」と呼ばれ、核兵器の開発や軍事基地自体を隠すために閉鎖都市が作られました。閉鎖都市とは、国家機密に関わる核兵器製造や軍事活動に従事しているものとその家族だけが住むことができる都市です。最重要国家機密であるマヤークの名前は、カラチャイ湖も含め地図から姿を消しました。

カラチャイ湖および周辺地域は最重要機密施設

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マヤーク周辺はフェンスや壁などで囲まれていて、一般人の出入りは厳格に制限され、関係者が出入りする際も設置されている検問所を通ることを義務付けられていました。マヤークの敷地面積は90平方キロメートルですが、立ち入り禁止地区に指定されたのはマヤーク周辺の250平方キロメートルにも及びます。

カラチャイ湖「V-9貯水池」に改名

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対アメリカとの冷戦状態の核による先制攻撃の回避のために、マヤーク周辺一帯は最重要軍事機密とされ、マヤークやカラチャイ湖はコード名で呼ばれるようになります。放射性廃棄物の廃棄場所であったカラチャイ湖はV-9貯水池と名づけられました。

カラチャイ湖周辺地域コード名「チェリャビンスク65」

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秘密都市の具体的な位置が特定されないように、マヤーク周辺は名称を郵便番号で表示されるようになりました。カラチャイ湖周辺の核関連施設と、施設内の従業員とその家族が住む秘密都市は「チェリャビンスク65」と呼ばれ、これ以降公的な地図から消えることになります。

カラチャイ湖とウラル核惨事

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核施設の従業員によって、廃棄され続けた放射性廃棄物によってカラチャイ湖は汚染され続けていました。液体廃棄物によって、付近のテチャ川やカラチャイ湖近くに住む何も知らない住民に健康被害が生じ始めます。当局はこれを受けて液体廃棄物は濃縮し、タンクに貯蔵されるようになりました。

1957年ウラル核惨事発生

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高レベル放射性廃棄物は高温の為、絶えず冷却させないといけません。しかし1957年9月29日に重要な炉心冷却装置が故障し、それによりタンクの温度が急上昇したため、容量300立方メートルのタンクが爆発しました。大量の放射性物質が大気中に飛散し、約1000メートル上空まで舞い上がりました。

70トンの核廃棄物が飛散

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タンクの爆発は核爆発ではなく科学的爆発ですが、タンク内の約70トンに及ぶ大量の放射性物質がマヤーク周辺に降り注ぎました。この事故は国際原子力事象評価尺度ではレベル6とされています。チェルノブイリと福島の原子力発電所事故のレベル7に次ぐ大惨事です。

ウラル核惨事による汚染範囲

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上空に舞い上がった放射性物質は南西の風に乗り、幅9km長さ105kmの広大な土地を汚染しました。全体として2万平方キロメートルの範囲です。福島第一原子力発電所事故では3万平方キロメートルとされています。事故を受けて付近の住民1万人以上が避難しましたが、27万人もの人間が強い放射能に汚染されました。

周辺都市で0.72シーベルトの被曝

ウラル核惨事が起こり、マヤーク近くの都市チャリンビンスクにも放射能汚染が広がり、住民のおよそ65パーセントが被ばくし健康被害が生じました。近隣の人々は高濃度の放射能を浴び、最高0.72シーベルトを記録しました。特に事故現場近くにいた人は骨髄に被ばくしたことが判明しています。

カラチャイ湖周辺の汚染がさらに進む

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放射性物質の廃棄場所であったカラチャイ湖も、この事故によってさらに汚染されました。周辺地域に住む住民の健康被害は甚大で、事故後のガン罹患率は事故前と比べて21%上昇し、先天性欠損症が25%、白血病は41%にまで上昇したと言われています。

日本で起きた放射能による事故に関する記事はこちら

カラチャイ湖汚染|ソ連が隠ぺいしたウラル核惨事

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これほどの甚大な被害をもたらした事故にも関わらず、ソ連は事故を隠蔽します。周辺住民にも事故の詳細は説明されませんでした。マヤークでの核開発による事故は、世界に知られてはいけなかったのです。翌年地元の住人の間で「オジョスク市で何かあったらしい」程度のうわさが流れただけでした。

ウラル核惨事の隠ぺい

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ウラル核惨事が起こった際、爆発後の状況に対処する兵士にさえ危険性について一切説明することもなく作業をさせていました。放射能による健康被害の知識を持たない彼らは何も知らされず、また事故について情報を漏洩した人間に対しては罰せられることもありました。

住民の強制移動

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この事故で広範囲に汚染された地域に住んでいた住民1万人以上が、事故から二年以内に何の説明もなく強制的に避難させられました。放射能事故の恐ろしさを知らず、50日以上汚染地域で過ごしていた人々は40~600ミリシーベルトの被ばくをしたとされています。最終的には200人以上が死亡し、27万人以上が被ばくしました。

事故処理に小学生まで駆り出す

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事故処理に追われた軍隊は、付近の住民に強制的に作業をさせました。事故から二日後、一年生の子供までも一列に並べて畑の収穫の手伝いをさせました。収穫したジャガイモはトラクターで掘った溝に放り込ませました。住民が説明を求めても「汚染されているから食べられない」とだけ言われ、何に汚染されているのかは大人にも分かりませんでした。

1976年ソ連科学者の亡命により発覚

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マヤークでの事故は、1976年に科学者ジョレス・メドベージェフが亡命したことによって世界に知れ渡ることになりました。イギリスの科学誌に掲載された論文でウラル核惨事の概要が明らかになりましたが、ソ連はこれを否定し、原子力を推進している国々はこの論文を認めませんでした。核開発が国民に反対され研究が遅れるのを恐れたからです。

ウラル核惨事から32年後に発表

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住民が放射能の恐ろしさに気が付き出したのは、1986年のチェルノブイリ原発事故以降。ウラル核惨事について政府が公式に発表したのは事故から32年も経ってからでした。その間もカラチャイ湖と周辺に住む住民は、長年にわたって放射能に汚染され続けました。

カラチャイ湖干ばつで最悪の事態に

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元から水量の少ない湖であったカラチャイ湖は、乾季のたびに干ばつに見舞われていました。1967年の乾季には完全に干上がってしまい、ストロンチウムなどの核物質を含む蓄積されていた汚染物質が乾き、地上に露出してしまいました。

1960年代カラチャイ湖干ばつで放射性廃棄物露出

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カラチャイ湖は、ヨーロッパに近いカザフスタンとの国境近くにある乾燥した地域に存在します。この付近は雨不足により干ばつ状態になることもしばしばあった為、カラチャイ湖自体の水が干上がり、地図からその名がなくなってしまうこともありました。湖底に蓄積していた放射性物質が地上に出てしまい、汚染が広がり始めます。

カラチャイ湖に吹く強風により放射性物質拡散

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この干ばつによって地上に露出した汚染物質は、岸辺からの強風で粉塵となって空高く舞い上がり、広範囲に汚染を撒き散らかしました。この放射能を含んだ強風は、再度周辺に住む人々を被ばくさせました。

2700平方キロメートルが汚染される

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