カラチャイ湖はソ連が隠蔽した世界一汚染された湖!ウラル核惨事の真実も

ウラル核惨事が起こった際、爆発後の状況に対処する兵士にさえ危険性について一切説明することもなく作業をさせていました。放射能による健康被害の知識を持たない彼らは何も知らされず、また事故について情報を漏洩した人間に対しては罰せられることもありました。

住民の強制移動

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この事故で広範囲に汚染された地域に住んでいた住民1万人以上が、事故から二年以内に何の説明もなく強制的に避難させられました。放射能事故の恐ろしさを知らず、50日以上汚染地域で過ごしていた人々は40~600ミリシーベルトの被ばくをしたとされています。最終的には200人以上が死亡し、27万人以上が被ばくしました。

事故処理に小学生まで駆り出す

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事故処理に追われた軍隊は、付近の住民に強制的に作業をさせました。事故から二日後、一年生の子供までも一列に並べて畑の収穫の手伝いをさせました。収穫したジャガイモはトラクターで掘った溝に放り込ませました。住民が説明を求めても「汚染されているから食べられない」とだけ言われ、何に汚染されているのかは大人にも分かりませんでした。

1976年ソ連科学者の亡命により発覚

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マヤークでの事故は、1976年に科学者ジョレス・メドベージェフが亡命したことによって世界に知れ渡ることになりました。イギリスの科学誌に掲載された論文でウラル核惨事の概要が明らかになりましたが、ソ連はこれを否定し、原子力を推進している国々はこの論文を認めませんでした。核開発が国民に反対され研究が遅れるのを恐れたからです。

ウラル核惨事から32年後に発表

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住民が放射能の恐ろしさに気が付き出したのは、1986年のチェルノブイリ原発事故以降。ウラル核惨事について政府が公式に発表したのは事故から32年も経ってからでした。その間もカラチャイ湖と周辺に住む住民は、長年にわたって放射能に汚染され続けました。

カラチャイ湖干ばつで最悪の事態に

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元から水量の少ない湖であったカラチャイ湖は、乾季のたびに干ばつに見舞われていました。1967年の乾季には完全に干上がってしまい、ストロンチウムなどの核物質を含む蓄積されていた汚染物質が乾き、地上に露出してしまいました。

1960年代カラチャイ湖干ばつで放射性廃棄物露出

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カラチャイ湖は、ヨーロッパに近いカザフスタンとの国境近くにある乾燥した地域に存在します。この付近は雨不足により干ばつ状態になることもしばしばあった為、カラチャイ湖自体の水が干上がり、地図からその名がなくなってしまうこともありました。湖底に蓄積していた放射性物質が地上に出てしまい、汚染が広がり始めます。

カラチャイ湖に吹く強風により放射性物質拡散

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この干ばつによって地上に露出した汚染物質は、岸辺からの強風で粉塵となって空高く舞い上がり、広範囲に汚染を撒き散らかしました。この放射能を含んだ強風は、再度周辺に住む人々を被ばくさせました。

2700平方キロメートルが汚染される

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強風によって運ばれた放射性物質は、2700平方キロメートルの広範囲にわたり数千人の命を危険にさらしました。東京都の面積が2100平方キロメートルなので、いかに広大な土地が汚染されたことが分かります。政府が放射能汚染を発表するまでの間に放出された放射能は、なんとチェルノブイリ事故の20倍にもなります。

ようやく封印されたカラチャイ湖

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カラチャイ湖の放射能レベルが危険水域を超えたため、政府も対策に出始めます。大勢の作業員によってカラチャイ湖をすべて埋めたてようと、大量の岩を運び入れました。現在はすべてセメントで埋められ、魚や哺乳類などの生物は存在しません。

カラチャイ湖コンクリートで封印

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事故が起こったチェルノブイリ原子力発電所も、コンクリートによる「石棺」で覆われているように、大量の放射線物質を封じ込めるためにはセメントで完全に覆うしか方法がありません。現在のカラチャイ湖は上空からの地図で確認すると、完全にコンクリートの状態となっています。

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