三里塚闘争が起こった時代背景と原因とは?成田空港建設で支払った代償

警里塚闘争とは成田空港建設における過激な一連の反対運動のことを指します。成田空港建設のための土地買収を巡り地元が反発したことから始まり新左翼の参加によって過激になっていった三里塚闘争。その時代背景と原因、現在に至るまで支払ってきた大きな代償について解説します。

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三里塚闘争とは?成田闘争とも呼ばれているその闘争とは一体

新東京国際空港、現成田国際空港の建設を反対する闘争です。千葉県の成田市の三里塚と芝山町の農家が 新国際空港反対同盟を結成したのは1966年の7月4日の閣議で決定されたその日です。その後三里塚・芝山連合空港反対同盟に名を変え次第に過激な闘争をはじめて行きます。

「三里塚闘争」とは成田空港建設反対闘争

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羽田空港の離着陸はすでに限界を向かえていました。国は成田に新国際空港を建設する方針を立てました。ずさんと言うしかない建設計画、地元住民を無視した強引な土地売買は地元農民だけではなく、学生運動家を巻き込み刺激しました。68年初頭は全学連が加わり警察機動隊と激しい闘争をしてきました。

地元住民と新左翼による反対運動

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地元住民は女性行動隊、老人行動隊、青年行動隊、少年行動隊を結成して対抗します。そんななかで、条件付賛成派の離脱があり、内部でも争いが発生、委員長の戸村一作を中心に結束を固めて行きました。71年の2月から3月の土地収用法による強制執行は、9月の2次執行と続きました。

対抗策として、壕を掘り、一坪買収を行うなど激しく争いました。結果1200人の逮捕者を出します。2次執行においては15300人が阻止闘争に参加して警察官3人が死亡する結果となりました。73年3月の開港を予定していた新国際空港は無期延期となりました。

三里塚闘争はなぜ起こったのか?その原因とは

地元住民、新左翼団体と警察、警察機動隊による激しい争いは、死者を出してしまいます。三里塚闘争は日々畑を耕し農作業をしていた者の土地をいきなり奪うような形となりました。闘争と言う言葉も知ることがない農民をかり立たせたのは何が原因なのでしょうか。

三里塚闘争の原因①政府からの説明不在

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三里塚闘争の原因は政府からの説明がずさんなもので、農家や農作を知らない机上の論理で始まった事にあります。農地はただ代替え地を提示しただけで、土地ならみな同じだという考え方に起因しています。

政府の一方的な押し付けに地元民は到底納得出来るものではなく、命を呈しての建設阻止行動に出ました。一部の左翼団体を除けば、国民は対岸の火事で、次第に激化する抗争をお茶の間で眺めているシュールな図式で、温度差がありました。

元々は成田空港建設候補地として他の地域も挙げられていた

建設予定地として上げられたのは霞ヶ浦はボーリング調査を行ったが不適格だとして別の場所を探すことになりました。そこで富里村が候補地になりましたが、事前の相談がないとして反発があったため諦め三里塚を候補地としました。

三里塚に決まった理由・他の地域が選ばれなかった理由

三里塚ではいきなり工事が始まりこれに対し農民たちは怒りの声を上げます。1966年には富里、八街で新空港反対デモが起こり千葉県庁に1500人のデモ隊が突入しました。さらに木更津案がありましたが航空管制の問題あり困難でした。

そして成田市の三里塚を候補として、知事に提案しました。7月2日に閣議決定がなされ新東京国際空港公団が7月30日に発足しました開港予定は71年の6月になりました。三里塚は御料牧場の土地もあり比較的買収を進めやすいと考えていたようです。

三里塚闘争の原因②空港ニーズに対する地元の温度差

この問題の発端は三里塚の農民たちに何の相談もなかったことです。農民たちはすぐに反対運動を始めました。反対同盟はピーク時には3000人を動員し、また1部の案には賛成する者がありましたそれは農民131人で9月に成田空港対策部落協議会を発足させています。農民たちにすれば静かな農村にいきなり航空機の爆音が響くわけです。

ましてその時代に一般的でない航空機の重要性と言うものが理解できないばかりか自分たちの生活に関係ないものだったためより反発が大きかったと思われます。はじめは、農業たちで構成された団体で、過激なことはしませんでした。賛同する団体が加わることで、道を外れていったのでした。

三里塚を闘争を戦った人たち

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三里塚闘争の始まりは地元の農民たちでした。老人決死隊、婦人行動隊、など高齢者から少年や女性も闘争に参加して行きました。10月に空港公団は機動隊に護衛されて杭打ちを開始しました。この時はじめて12000人の座り込みのデモが起こりました。

三里塚闘争を戦った「地元農民」

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日本共産党が直前になってデモに参加せず敵前逃亡とみなされ絶縁になりました。民青も同様です。11月3日には地元農民の中に全学連が合流しました。これに対し社会と民青を批判する声は大きいです運動のやり方だけを教えて撤退しました。一般の人もこれにはあきれました。

中心となった地元農民は満州からの引揚者

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日本政府は終戦後まもなく海外引き上げ者や復員軍人に対し積極的に土地の開放をしてきました。当時の沖縄の人は沖縄が、アメリカ軍に占領されていたため帰ることができず成田に入植地があると聞いてやってきました。

三里塚に入植し、開拓することに決めたのです。昭和21年3月6日がこの土地に入った記念日となります16日には50世帯の住民100名が開拓生活を始めました今は開拓生活を過ごした場所は空港になっています。

地元住民には戦後の貧困層も

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三里塚はもともと水を豊富に使えない農作に不向きな土地でした。放牧が行われていたこの土地は、もともと御料牧場だったんですが戦後満州からの引き上げ者を中心とした貧困層に安価で譲り渡されました。

つまりここに住んでる人たちは命からがら満州から引き上げて0から農地に向かない土地を耕し開拓していった貧困層の開拓民です成田空港の話が持ち上がった頃はやっと作物を作れるようになったばかりで土地に対する執着が大きかったのです

不毛の地といわれていた「三里塚」

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不毛の地と言われていた三里塚が努力によってやっと作物が取れるようになり、さぁこれからと言う時に一方的に新空港を建設すると言って、立ち退きを押し付けられました。これは反発します。入植者や戦後の貧困層の集まりで住民のつながりは他の土地より深かったのです。一緒に入植し、苦労して開拓した土地です、金銭では納得しません。

一言開墾に対するねぎらいの言葉があってしかるべきです。はじめに礼をつくせば、全然違うやり方で話し合いができたかもしれません。政府の一方的でずさんなやり方がそもそもこんなに大きな闘争問題になったのだと思います。われわれはあらゆる困難や不当な扱いに、断固として闘うと意識を高めていました。

三里塚の村の者はほかの付近の村に比べ結びつきが。深かったと思います。たまたまこんな土地だったため、団結力、結束力が仇になるような大きな闘争になりました。国が標準より高い値で土地を買うと言うことがわかり7.8割の農民がここから離れました。

三里塚闘争を戦った「新左翼学生」

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三里塚闘争が激化したのは新左翼学生が加わったからだと言われています。当時学生運動が盛んで学生たちは三里塚の農家に住み込んで闘争と農業の両方を手伝いました。農民たちは人手が出来て大変助かったと言っています。

新左翼学生たちは安保闘争から三里塚闘争へ

新左翼の学生たちは安保闘争の経験をし、そのまま三里塚闘争に加わりました政府の横暴ぶりが許せなかったのです。いわば正義のために戦っていると言う自負がありました。学生たちが過激な方向に走っていったのはどういった経緯なのでしょう。

新左翼の合流により三里塚闘争は過激

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農民たちの戦いの中に闘争を経験してきた若者たちが流れ込んだことによって火炎瓶や角材、バリケード、矢倉が使われて様相は一変過激な闘争になりました。機動隊も学生もケガ人がたくさん出ました。しかし学生たちは逮捕されることを恐れ、届け出る事はありませんでした。正確なケガ人の数字は出ていません。

三里塚闘争の激化!1971年2月・第一次行政代執行

三里塚闘争は次第に激化して、とうとう1971年2月政府により第一次行政代執行が行われることになりました。その前に三日間戦争と言われる争いがあり2月22日強制代執行との戦いが開始されたのです。三里塚は戦場さながらになりました。

成田空港建設反対派VS機動隊

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機動隊がバリケードを作り盾を持って突入していく様は、なかなか最近の日本では見られませんが、学生運動が盛んだったころには実際に度々起こっていました。路上には火炎瓶が飛びかい、道路を引きづられていく若者の姿をカメラは捉えていました。

機動隊に対して火炎瓶で応戦

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反対同盟は地下壕を掘り砦を築いて徹底交戦を固め、決死隊は少年機動隊、老人行動隊が入り口を固める形で守ったのです。テレビ中継が入ったためこの様子は全国民の知るところとなりました。農民は立木に登り体を鎖で縛り、竹槍で機動隊を迎え撃つ作戦です。闘争が始まるとまさに戦争で、投げ石や火炎瓶で機動隊に立ち向かいました。

地下壕・農民放送塔は撤去

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反対同盟が登る櫓にロープがかけられました。櫓が引き倒されてゆく様は、農民の家の者なら誰れもが胸を裂かれる思いで見ていました。国を相手に喧嘩をしても無駄、民、百姓の力なんて所詮はこんなもの。勝つ喧嘩をしなけりゃ意味がない。

闘いは、機動隊が民間人を傷つけないように注意を払っているのが見て取れました。しかし機動隊も命がけで鎮圧にあたります。結局は1ヶ月もの期間闘争を繰り返しました。村には反対同盟が住み着きかつての静かな村の様相は一変しました。

負傷者は警官を含めて1000人以上・逮捕者は450人超え

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三里塚闘争の激化で第一次行政執行は双方に1000人以上の負傷者を出してしまいました。このように新左翼が加わることによってかなり過激な路線をたどり始めたため社会党や外部協力団体も次第に遠巻きになり左翼と警察一騎打ちになってきました。

三里塚闘争激化!1971年9月・第二次行政代執行と東峰十字路事件

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機動隊は3人の死者を出しました。それほど激しい闘争となった行政代執行と東峰十字路事件とは実際にどのようなことが行われていたのでしょう。時系列で追っていきたいと思います。この戦いは多くの犠牲を払った戦いです。

反対派・過激派と警官隊が衝突!死者3名を出した東峰十字路事件

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この年の8月の末に第二次執行においては一般市民また反対派を警戒して9000名を動員し団結小屋を検問線で3重に包囲しました。 三重丸作戦は沖縄戦において旧日本軍の神風特攻隊対策でアメリカ軍が採用した作戦からヒントを得たものです。

しかしこれだけの規模の作戦は前例がないため神奈川県警は3分の2の人員に減らしました。結果として外側の警備が手薄になっていました。千葉県警の人の3分の1が成田に動員され 人員は5500人になりました。

反対派ゲリラにより火炎瓶が投下される

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後方にいきなり火炎瓶が投下され、部隊が分断したところにゲリラが襲いかかり、火だるまになっている警察官に棒やクイで殴るなど、凄惨なリンチを加えました。顔を中心に殴って、大怪我を負わせています。

火だるまにした上で凄惨なリンチを加える

機動隊が駆けつけた時には反対派はすでにひきあげていました。3名が亡くなりました。殉職した3名は司法解剖に回されました。大火傷を負って顔は晴れ上がっていました。これは学生のやることではないとその場にいた警官は泣き崩れました。

東峰十字路事件による検挙人数は472名に上る

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この事件による検挙人数は472名に上りました。これには建設に反対していた農民たちも弱腰になります。警察官を殺せとは言っていない、まさかこんなことになるなんて。この件によって一気に解決に向けての動きが始まりました。

第二次行政代執行は成功に終わった

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第2次行政代執行は成功に終わったと言っています。大きな犠牲を払ったけれど、これを機に世論は一変しました警官にひどい暴行を加えて犠牲者が出た事はテレビを見ていた誰しもが痛ましく思いました。

警察官の死亡により世論が一転!反対派批判へ

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世論は罪もない3人の殉職者を見て煽ることをやめました。興味をなくしたといってもいいでしょう。残忍なものは見たくなかったのです。最後に残った反対派の農民の大木よねが戦闘開始の文章を読み上げたときには、哀れを感じました。双方に利用されたのです。

ただの農民です。一生懸命土地を耕し何とか実りの大地にし、一方的に奪われるなどあってはならないことです。国と左翼に利用された気がしてならないとコラムで読みました。私たちが未来に向かうためには犠牲は仕方ないことなのです。それを知るのは辛いことでした

三里塚闘争のその後!空港開港までの道のり

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激しい衝突の末三里塚闘争は終わりました。それでもなお残党がいました。三里塚は一次行政代執行、二次行政代執行を経て、農民側の戦闘力も弱まっていました。そんな中で岩山大鉄塔がつくられました。岩山大鉄塔はA滑走路建設阻止の目的で滑走路の南はじに建てられたのです。

離着陸の妨害のため反対派が「岩山鉄塔」を建設

空港公団は鉄塔を壊すためだけに1年もの歳月をかけて道路を建設しました。産土神社参道の闘争では初の逮捕者を出しました。支援者48人も逮捕されています。開港宣言の年に旗開きをし、鉄塔は人塔になるほど黒山の人だかりで反対同盟が鉄塔に上るとそれを囲み支援メンバー、賛同者により、鉄塔までの道のりが多くの人の行列で埋まりました。

内ゲバ?その意味や実際に起こった主な事件の詳しい記事はこちらから

岩山鉄塔の撤去を巡り機動隊と衝突!再び死亡者が出る事態に

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77年の7月には闘争史上最多となる 2万を超す人々が集結しました。それから後5キロの距離をデモ隊が歩き建設反対の主張を続けました。鉄塔の横に団結会館を作り 602名が宿泊可能とされています。1977年5月に鉄塔が破壊されました。3大同盟はこれを闇討ちだと言っています。

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