三里塚闘争が起こった時代背景と原因とは?成田空港建設で支払った代償

三里塚に入植し、開拓することに決めたのです。昭和21年3月6日がこの土地に入った記念日となります16日には50世帯の住民100名が開拓生活を始めました今は開拓生活を過ごした場所は空港になっています。

地元住民には戦後の貧困層も

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三里塚はもともと水を豊富に使えない農作に不向きな土地でした。放牧が行われていたこの土地は、もともと御料牧場だったんですが戦後満州からの引き上げ者を中心とした貧困層に安価で譲り渡されました。

つまりここに住んでる人たちは命からがら満州から引き上げて0から農地に向かない土地を耕し開拓していった貧困層の開拓民です成田空港の話が持ち上がった頃はやっと作物を作れるようになったばかりで土地に対する執着が大きかったのです

不毛の地といわれていた「三里塚」

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不毛の地と言われていた三里塚が努力によってやっと作物が取れるようになり、さぁこれからと言う時に一方的に新空港を建設すると言って、立ち退きを押し付けられました。これは反発します。入植者や戦後の貧困層の集まりで住民のつながりは他の土地より深かったのです。一緒に入植し、苦労して開拓した土地です、金銭では納得しません。

一言開墾に対するねぎらいの言葉があってしかるべきです。はじめに礼をつくせば、全然違うやり方で話し合いができたかもしれません。政府の一方的でずさんなやり方がそもそもこんなに大きな闘争問題になったのだと思います。われわれはあらゆる困難や不当な扱いに、断固として闘うと意識を高めていました。

三里塚の村の者はほかの付近の村に比べ結びつきが。深かったと思います。たまたまこんな土地だったため、団結力、結束力が仇になるような大きな闘争になりました。国が標準より高い値で土地を買うと言うことがわかり7.8割の農民がここから離れました。

三里塚闘争を戦った「新左翼学生」

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三里塚闘争が激化したのは新左翼学生が加わったからだと言われています。当時学生運動が盛んで学生たちは三里塚の農家に住み込んで闘争と農業の両方を手伝いました。農民たちは人手が出来て大変助かったと言っています。

新左翼学生たちは安保闘争から三里塚闘争へ

新左翼の学生たちは安保闘争の経験をし、そのまま三里塚闘争に加わりました政府の横暴ぶりが許せなかったのです。いわば正義のために戦っていると言う自負がありました。学生たちが過激な方向に走っていったのはどういった経緯なのでしょう。

新左翼の合流により三里塚闘争は過激

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農民たちの戦いの中に闘争を経験してきた若者たちが流れ込んだことによって火炎瓶や角材、バリケード、矢倉が使われて様相は一変過激な闘争になりました。機動隊も学生もケガ人がたくさん出ました。しかし学生たちは逮捕されることを恐れ、届け出る事はありませんでした。正確なケガ人の数字は出ていません。

三里塚闘争の激化!1971年2月・第一次行政代執行

三里塚闘争は次第に激化して、とうとう1971年2月政府により第一次行政代執行が行われることになりました。その前に三日間戦争と言われる争いがあり2月22日強制代執行との戦いが開始されたのです。三里塚は戦場さながらになりました。

成田空港建設反対派VS機動隊

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機動隊がバリケードを作り盾を持って突入していく様は、なかなか最近の日本では見られませんが、学生運動が盛んだったころには実際に度々起こっていました。路上には火炎瓶が飛びかい、道路を引きづられていく若者の姿をカメラは捉えていました。

機動隊に対して火炎瓶で応戦

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反対同盟は地下壕を掘り砦を築いて徹底交戦を固め、決死隊は少年機動隊、老人行動隊が入り口を固める形で守ったのです。テレビ中継が入ったためこの様子は全国民の知るところとなりました。農民は立木に登り体を鎖で縛り、竹槍で機動隊を迎え撃つ作戦です。闘争が始まるとまさに戦争で、投げ石や火炎瓶で機動隊に立ち向かいました。

地下壕・農民放送塔は撤去

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反対同盟が登る櫓にロープがかけられました。櫓が引き倒されてゆく様は、農民の家の者なら誰れもが胸を裂かれる思いで見ていました。国を相手に喧嘩をしても無駄、民、百姓の力なんて所詮はこんなもの。勝つ喧嘩をしなけりゃ意味がない。

闘いは、機動隊が民間人を傷つけないように注意を払っているのが見て取れました。しかし機動隊も命がけで鎮圧にあたります。結局は1ヶ月もの期間闘争を繰り返しました。村には反対同盟が住み着きかつての静かな村の様相は一変しました。

負傷者は警官を含めて1000人以上・逮捕者は450人超え

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三里塚闘争の激化で第一次行政執行は双方に1000人以上の負傷者を出してしまいました。このように新左翼が加わることによってかなり過激な路線をたどり始めたため社会党や外部協力団体も次第に遠巻きになり左翼と警察一騎打ちになってきました。

三里塚闘争激化!1971年9月・第二次行政代執行と東峰十字路事件

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機動隊は3人の死者を出しました。それほど激しい闘争となった行政代執行と東峰十字路事件とは実際にどのようなことが行われていたのでしょう。時系列で追っていきたいと思います。この戦いは多くの犠牲を払った戦いです。

反対派・過激派と警官隊が衝突!死者3名を出した東峰十字路事件

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この年の8月の末に第二次執行においては一般市民また反対派を警戒して9000名を動員し団結小屋を検問線で3重に包囲しました。 三重丸作戦は沖縄戦において旧日本軍の神風特攻隊対策でアメリカ軍が採用した作戦からヒントを得たものです。

しかしこれだけの規模の作戦は前例がないため神奈川県警は3分の2の人員に減らしました。結果として外側の警備が手薄になっていました。千葉県警の人の3分の1が成田に動員され 人員は5500人になりました。

反対派ゲリラにより火炎瓶が投下される

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後方にいきなり火炎瓶が投下され、部隊が分断したところにゲリラが襲いかかり、火だるまになっている警察官に棒やクイで殴るなど、凄惨なリンチを加えました。顔を中心に殴って、大怪我を負わせています。

火だるまにした上で凄惨なリンチを加える

機動隊が駆けつけた時には反対派はすでにひきあげていました。3名が亡くなりました。殉職した3名は司法解剖に回されました。大火傷を負って顔は晴れ上がっていました。これは学生のやることではないとその場にいた警官は泣き崩れました。

東峰十字路事件による検挙人数は472名に上る

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この事件による検挙人数は472名に上りました。これには建設に反対していた農民たちも弱腰になります。警察官を殺せとは言っていない、まさかこんなことになるなんて。この件によって一気に解決に向けての動きが始まりました。

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