7日に抗議闘争が行われ8日には抗議集会が行なわれ、警察はこの集会にガス弾を使い重傷者が出ました。この闘争で現地の支援者東山さんが後日死亡しました。鉄塔決戦はまた暴力により幕を閉じました。話し合いによる解決への糸口はないものでしょうか。
空港開港直前に起こった「成田空港管制塔占拠事件」
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航空管制塔占拠事件とは開港間近の東京国際空港に乱入して機器の破壊活動行いました。破壊したのは極左暴力集団で、集団的実力闘争を行いこの件で新東京国際空港の開港は2ヶ月遅れで、5月20日に開港しました。1978年のことです。
空港特急が全半焼「京成スカイライナー放火事件」
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新左翼が起こしたテロ事件です。京成スカイライナーに放火し、特急電車は全半焼しました。革命的共産主義者同盟全国委員会が起こした事件です。革命的共産主義者同盟さえ、日常の生活には耳にしない組織です。
1978年5月20日ついに成田空港が開港
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一般市民はあれ以来過激派や、新左翼を恐れて目を向けなくなりました。開港までゲリラ戦を繰り返し、なんとか開港に漕ぎ着けました。現在では1年に25万回の発着本数があります。それでもなお厳重な警備体制が敷かれているなど、完全にはぬぐえてはいないのです。
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三里塚闘争の現在とは?今もなお終わっていない?
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反対同盟側としても、代執行阻止闘争での大量逮捕により打撃を受けでいます。反対同盟結成時に320軒あった用地の中の反対派農家は代執行前後には45軒、1976年には23軒にまで減少していました。農家を今も続けている家もあります。
反対派の高齢化・孤立と闘争継続!未完成の成田空港
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反対派同盟の農民は、その後成田空港の関係に職を得て農業から離れた者もいます。警察官も複数いますが、配属先はこのエリアから外されているそうです。村に入ると裏切り者の烙印を押されて、村八分も起こっていました。
2017年までにゲリラ事件が511件発生している
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2017年までに511件のゲリラ事件を起こしていますが、反対派も孤立と闘争を繰り返していました。よくよく振り返って考えると、始まりは農民の気持ちを汲まないお役所的な事務処理で、何度同じ過ちを繰り返すのか。
誰が指示したのか。社会党はなぜ危険に気がついたときに止めに入らなかったのか。成田闘争を文章にしようとしたときに、とてもこのスペースでは伝えられないことは承知していました。複雑な思惑が絡み合っていたのです。
現在も成田空港周辺は「反対」の旗が目立つ
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今でも空港周辺には反対の幟が立っています。滑走路の横には畑があります。2018年年が明けた途端には、爆破予告がありました。また芝山鉄道には今なお警察官が乗車しています。ここにいたのは満洲の開拓団や沖縄からの入植者で、手を携えてやってきた村がズタズタに分断されてしまいました。被害者は農民ですよね。
農民を置き去りにして「君たちは金が全てなんですよね」と金を出すだけで、話し合う場を設けなかった罪は重いと今なお庶民派は考えています。東京オリンピックまでの年に、100億をかけて空港を改装する計画があります。東京オリンピックが速やかに開催できるよう祈るばかりです。
成田空港問題円卓会議など対話する場も設けられている
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現在は滑走路の延長や、騒音問題の話し合いが、隣接する市町村との間で持たれています。住民ありきの法にのっとり、根気よく続けられています。いまさらながらに、あの強制代執行まで進んで行く騒ぎはなくてはならないものだったのでしょうか。
三里塚闘争を描いたドキュメンタリー映画作品を紹介
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1965年あたりに若者だったあの世代もすっかり老人になりました。学連や全共闘、学生運動に熱くなっていた世代です。大きなものに対抗してエネルギーを燃やしていた若者たちがこの台地にいたのです。よくも悪くも元気な日本でした。
三里塚闘争を描いた映画①「三里塚のイカロス」
三里塚のイカロスは三里塚闘争をしてきた若者たちの姿をドキュメンタリータッチで描いてゆきます。農民と結婚した女子大生やリーダーを務めた若者男性が何を思い何をしたかったのか三里塚のイカロスを通じて考えてみましょう。
三里塚闘争を描いた映画②「三里塚に生きる」
三里塚に生きるはドキュメンタリー映画です。ナレーションは吉行和子さん、熱田派と旧熱田派のメンバーを追います。日本最後の百姓一揆として取り上げています。三里塚闘争は三里塚に生きる人たちにとってすべてがマイナスの闘争だったのでしょうか。
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成田空港リニューアル
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成田空港のリニューアル工事が完了し、2017年11月10日にリニューアルオープンしました。新しくなった成田空港は東京オリンピックで多くの旅行者を出迎えます。より明るく美しくなった成田空港を見て見ましょう。
JALのファーストクラスラウンジが明るい
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これが空港のラウンジかと思うほど素敵です。場所は前回のラウンジの上にあった上の階になっております。和食ラウンジと洋食ラウンジに分かれています。メニューがあるんです。メニュー表を見て皆さん迷ってしまいます。本格的なお寿司屋さんもできました。
またトイレが二箇所になり個室が広くて綺麗です。靴磨きのサービスコーナーができました2名体制ですので比較的混み方は少ないと思います。マッサージのサービスが無くなりました。照明がLEDに変わっています。
成田空港は地元と共に歩んでいます
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周辺の農家と協力して、JALは2018年5月から農業にも参入しています。直売所や体験型農園、バーベキュー施設など地元の農家と協力をすることになりました。JALはこれまでの成田空港の歩の頃から地元に貢献意識が強く雇用しているスタッフも千葉県のスタッフが50%もいます。
2018年は開港40周年にあたり成田チョコクランチなど記念グッズが販売されています。今後は国内線にも力を入れエルシーシー専用ターミナルはこれまでの2倍に広げる予定です2022年の完成を目指しています。2020年に向けて第一第二ターミナルもリニューアルしてます。駐車場もスペースを広げました。
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3番目のC滑走路の建設とB滑走路の延長は2022年まで待たれます。これにより大幅に航空機の発着に運用できます。これで成田闘争が終結したことになれば良いのですがこれ以上の騒ぎが起きないことを祈ります。
現在の三里塚と成田周辺
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農地を買い取り国際空港を建設した成田周辺の現在とそこに今も暮らしている人がいます。熱い時代が過ぎた今、村はどのように様変わりしたのでしょうか、頭上を飛行機が飛び交う轟音とともに生きる三里塚と成田の今をお伝えいたします。
三里塚で今も農業を続ける
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成田空港にはまだ2.9haの未買収の土地があり、そこには2軒の農家があります。三里塚北原同盟に所属しています。畑では約50種の野菜をつくり、今は夏野菜のシーズンで忙しいと言います。この農地がB滑走路の誘導路が屈折する原因になっています。成田空港周辺には騒音防止地区があります。生まれた時からこの地区に暮らす人がいます。
騒音防止地区に暮らす
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昔を知る農家は1軒だけになりました。兼業農家です。昔は70世帯300人が暮らしていました。現在は7世帯26人(2018年)です。新滑走路が完成すると、騒音防止地区の住民は1000世帯に広がります。たしかにあの騒音の下に一日中暮らすのは厳しいと感じます。
三里塚闘争~多くの犠牲を払った成田空港建設~
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成田空港は美しく清潔感があると世界でも評判のいい空港です。過去に過激な闘争があったとは、その時代に居合わせた者でも、もはや信じられません。国家が必要とした空港ですが、農民たちにしたら自分たちの生活のどこにも関わりが見出せないのです。自分たちに関係ないものの建設のために、苦労して育てた土地を追われるのです。
あり得ない事です。ひとえに初期段階での説明不足であったと悔やまれます。今はこの経験を生かして、国家の政策には充分に話し合いを重ねて理解を求めているようです。沖縄の基地問題や、原発の問題など、解決の糸口が見出せることを願ってやみません。成田は今、近代的な美しい空港に変貌を遂げようとしています。
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