戸川純の現在は?結婚した旦那や妹の自殺の真相、病気で車いすの噂も

戸川純は女優兼歌手で、独特のファッションや狂ったような歌唱方法が当時話題となった人物です。また、会話に独特な間があることから「不思議ちゃん」とも呼ばれました。この記事では、戸川純の生い立ちや芸能活動の経歴、車いす生活の噂や結婚の真相に現在までご紹介します。

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ROCKとマンガと家事が大好きなイケてるパパ(自称)

戸川純はサブカルの先駆けといえる歌手!

それまでの若者文化とは異なる独自の信条をもつ若者文化サブカルチャーも、音楽ではパンクやニューウェーブなどの出現により日本にもその波が押し寄せました。その中で一際異端を放っていたのが歌姫であり女優の戸川純さんです。あまりにピュアなその感性は、量産されたコンテンツに馴れきった万人に受け入れられるものではありませんでした。

しかし逆に多くのメディアが物珍しさで取り上げた事によってCMなどで知名度が上がり、「不思議ちゃんとかメンヘラとかさんざん言われてきたわよ」と本人も言われている通り注目の的となりカルト的な人気を集めました。

ここではそんな戸川純さんの独特の感性を育んだ生い立ちから、現在の活動状況に至るまでをまとめてご紹介します。

戸川純の生い立ちから大学時代まで

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東京は新宿生まれで地域性に富んだ歌舞伎町で育ち、女優を目指し劇団での活動を経ていじめにもあった学生時代。その間自分の内面での想像世界を構築し現実と虚構の区別がつかない事もありましたが、戸川純さんの人格を形成し独自の不思議な魅力を創り出す上で必要不可欠なプロセスであったと言えます。

戸川純は東京都の「裏新宿」で誕生

かつて新宿にあった新宿赤十字病院で1961年3月31日に戸川純さんは誕生しました。退院直後に病院は火災に見舞われましたが難を逃れ、さらに1961年昭和36年は日本に多くのサリドマイド児が生まれた年でしたが、五体満足で生まれ育った事はとても運が良かったのでしょう。

戸川純は幼い頃に絵を描いて過ごしていた

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蝋石で絵を描く事が好きだったので、幼稚園入園前にアパートの壁や地面にいたずら書きをして過ごす事が多かったと言います。悪い事だと言う意識があったためわざと下手に描いてごまかしていたつもりでしたが、近所に絵を描く子供がいなかったのですぐにバレて叱られていました。

戸川純は西大久保教会幼稚園に通っていた

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現在は戸山幼稚園となっているキリスト系の幼稚園、西久保教会幼稚園に入園し元々お芝居が好きで子供ながらに女優志望だったので、降誕祭の演劇でも天使の役を演じた事がありました。しかし本当はマリア様の役をやりたかったと後々語っています。

戸川純は小学生の頃に劇団へ入団

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きっかけは戸川純さんが新宿区立戸山小学校3年生の時に妹の京子が入団すると言うのでオーディションに付いていった所を「君もやってみない?」と劇団関係者に声をかけられ第一次審査・第二次審査を受け入団が決まったと言う事です。

小学生・中学生時代にいじめを受ける

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特別な理由もなくいじられるタイプだったのか、ひまわりでも同じ劇団の女の子から公園の砂場で描いていた絵を踏みにじられたり、小学校でも物を隠されたり傘を折られた事もありましたが決して泣きませんでした。中学1年で転校した先では”新宿から来たスケバン”と噂され、仲間外れにされストレスが溜まり登校拒否にもなりました。

高校時代いじめは回避したが自虐癖がつく

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高校入学後はどうせダサくてつまらない人生ならもっとダサくしてしまえと、制服もダサく着こなし人との間に壁を作りこちらから周囲を拒否する事でいじめを避け続けました。滑り止めだった事もありその学校が心底嫌いでしたが、何も勉強しなくても成績が上位から下がらない事がとても恥ずかしかったそうです。

戸川純は関東学院大学へ進学、女優業も開始

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小学校時代に劇団のおかげで学校とトラブルになり6年もの間封印されていた女優への道が解禁されたのは、高校卒業後に関東学院大学文学部英米文学科へ入学したおかげでした。大学では周囲にもおもしろがられ仲間はずれなど無く楽しく過ごした大学生活だったようです。そしてさまざまなエキストラを務めているうちに女優のチャンスが巡ってきました。

「しあわせ戦争」で準レギュラーに

1980年にTBSの水曜劇場「しあわせ戦争」の準レギュラーを獲得し女優への第一歩を踏み出しました。オーディションでは特技を聞かれ、李香蘭の「蘇州夜曲」を堂々と唄ったと言います。かつて幼い頃からいじめの対象になり周囲との壁で遮断していたスタンスの、消極的な少女であった戸川純はもう完全に影を潜めていました。

大学時代はパンクバンドを観に行くことも

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パンクファッションで決めていた大学入学当初でしたが飽きてしまい、昭和初期的なアナログレトロファッションを好むようになった頃、門限が8時半と緩くなり日比谷野音やライブハウスにパンクバンド8 2/1(ハッカニブンノイチ)のライブを良く観に行っていたと言います。いわゆる追っかけの元祖のようなものですね。

「NYLON100%」に入り浸る

その8 2/1に在籍していた上野耕路さんが脱退後に結成した「ハルメンズ」の追っかけだった戸川純さんは、渋谷センター街にあったニューウェーブ喫茶「NYRON100%」上野耕路さんと出会います。以前から「蘇州夜曲と同じソプラノでニナ・ハーゲンみたいな声も出る」と噂を聞いていたので、銀座の公園の「めぐりあいの泉」の前で歌ってもらいました。

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