リクルート事件とは?戦後最大の疑獄事件の真相とは?

1988年(昭和63年)10月に東京地検特捜部は正式に捜査を開始しました。捜査は賄賂が贈られたルートを4つに分けて(政界、NTT、旧労働省(現在の厚労省)、旧文部省(現在の文科省))行われ、1989年(平成元年)の5月まで続きました。

さまざまな関係者が収賄についての調査を受けました。調査の途中で関係者の疑わしい死亡事件も起こりました。それだけ大規模な捜査を行ったにもかかわらず、最終的に起訴にまで至ったのは、12人だけでした。

贈収賄罪で12名が起訴され有罪に

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捜査の結果、江副浩正氏をはじめ12人が1989年(平成元年)に起訴されました。贈賄側は江副氏をはじめ4名、収賄側は政界関連が2名(藤波孝生元官房長官と池田克也元議員(公明党))、NTT関連が3名、旧労働省関連が2名、旧文部省関連が1名の計8名です。これに伴い東京地検特捜部は5月29日に捜査集結の宣言を行いました。

裁判の結果、程度の差こそあるものの、全員が執行猶予つき有罪の判決を言い渡されました。贈賄側主犯の江副浩正被告は、一審(東京地裁)で裁判を14年も続けた結果、2003年(平成15年)に懲役3年執行猶予5年の刑を言い渡されました。

政治家は全員不起訴へ

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12名が起訴されて有罪判決を受けたというと、一見人数が「多い」感じがします。しかしリクルートの未公開株を受け取ったその他の人間、特に中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理(以上、すべて当時)など超大物の政治家たちは全員おとがめなし、つまり不起訴処分でした。

政治家の中で起訴されたのは自民党の藤波孝生元官房長官と公明党の池田克也元衆議院議員の2名だけです。大半の政治家が起訴をまぬがれたのは、この未公開株の譲渡を通じて、リクルート側がどんな見返りを要求していたのかを、具体的に特定することができなかったためだといわれています。

「妻が…」「秘書が…」が流行

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リクルート問題は国会で野党の激しい追求を受けました。またマスコミも黙っていませんでした。しかし疑惑をかけられた大物の政治家たちは、まるで口裏をあわせたように「妻(あるいは他の家族)が株をもらってしまったが、自分は知らない」とか「秘書がうっかり受け取ってしまった」と言い逃れをくりかえしました。

その結果、小学生の間にまで「妻が、妻が…」「秘書が、秘書が…」という言葉が流行するようになりました。しかし真相は相変わらずやぶの中という状態が続き、国民が政治を信用しなくなる傾向はますますひどくなりました。

首相秘書はなぜ亡くなった?

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リクルート事件が残した謎のひとつに、竹下登首相(当時)の秘書であった青木伊平氏が、1989年(平成元年)4月26日に自宅寝室で首をくくって亡くなったことが、あげられます。ちょうど竹下首相が退陣表明をした翌日でした。

青木氏は竹下首相のお金の流れのすべてを把握してると考えられていて、連日検察からの事情聴取を受けていました。毎日続く厳しい取り調べに耐え兼ねて、自ら命を絶ったとしてもおかしくありません。遺体はパジャマ姿で、そばには奥さんや竹下首相などにあてた遺書が4通残されていました。

疑わしい死因

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遺体のそばに遺書があったため、この件は自殺として処理されました。しかし亡くなった現場の状況におかしな点がいくつかあったため、一部では死因を疑う声もあがりました。青木伊平氏の証言次第で現役の首相が逮捕される可能性があったためです。それを防ぐため、もしかしたら誰かに殺されて自殺にみせかけられて…というわけです。

疑わしい理由

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例えば、遺体は発見された際ベッドに横たわっていました。自殺をしたにしてはあまりにも不自然な姿勢です。左手首にはカミソリによる切り傷が十数カ所もありました。また首をくくって亡くなった場合に通常生じる、脱糞による下着の汚れも見つからず、どこかで殺されて自宅に運ばれた可能性も否定できません。

しかも青木伊平氏には自殺した旧友(中学校の同級生)がいました。その旧友の遺族を世話した経験があったため「自殺だけはやってはいけない」と常に周囲に語っていたという証言もあります。そういう人間が果たして自死を遂げるようなことがあるだろうか、という点も疑問です。

リクルート事件の政財界への影響

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リクルート事件には、政権与党であった自民党の超大物をはじめとするさまざまな政治家が、関係していました。そのためこの事件は、その後の政治の流れに、大きな影響を与える結果になりました。

最も大きな影響は国民が政治を信じられなくなる傾向(特に自民党離れ)です。政治が信用を失ってしまう現象は自民党の一党独裁体制(55年体制)を崩壊させて、非自民・非共産の連立政権の誕生まで事態を進めてしまいます。

国民の政治不信が高まり内閣総辞職

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この事件に、当時の首相であった竹下登氏を含む多くの政治家が関係したことにより、内閣支持率は大幅に低下しました。竹下内閣においても関係者として名前の上がったメンバーの辞任が相次ぎます。1988年(昭和63年)12月9日に宮沢喜一副総理兼大蔵大臣、12月30日にも長谷川峻法務大臣が辞任しました。

竹下首相自身も疑われるようになりました。首相自身は起訴を免れたものの、国民が政治への信頼を失ってしまうという政治の流れには勝てません。1989年(平成元年)4月25日にいずれ退陣することを表明し、6月3日には内閣総辞職をする結果になりました。

詳しい事情

竹下首相がリクルートから5,000万円借り入れをしていたことが既ににわかっていました。しかし秘書の青木伊平氏がそれは単純なお金の貸し借りに過ぎないという証拠を提出しました。そのため東京地検も5,000万円に犯罪の要素はないと考えて、それ以上捜査を続けることはありませんでした。

しかしその後、朝日新聞がこの借金についてスクープ記事を発表しました。そのため竹下首相は、1989年(平成元年)4月25日に退陣を表明し、6月3日に総辞職をするところまで追い込まれてしまいます。

次期首相候補がいない?

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竹下内閣の退陣後、自民党には次期首相候補となる人材があまり残っていませんでした。それに該当する人たちはすべてリクルート事件に関係していたため、謹慎しなければならなくなったためです。結局、リクルートとの関係があまり取り沙汰されなかった宇野宗佑氏が次の首相になりました。

自民党の支持率低下と自公民体制

リクルート事件に関係した政治家の大半が自民党に所属していたため、国民の自民党離れが大きく進みました。1989年(平成元年)に導入された3%の消費税も、それに追い打ちをかけました。竹下内閣の総辞職に伴って後を継いだ宇野内閣も、宇野首相の女性スキャンダルなどにより人気は低迷しました。

その結果、1989年(平成元年)の参議院選挙で大敗してしまい、宇野内閣も総辞職します。そしてその後の自民党は、公明党などと妥協(自公民体制)しなければ単独政権を維持できないところまで、追い込まれてしまいました。また宇野宗佑氏の次は58歳の海部俊樹氏が首相になり、政治の世界の世代交代が一気に進みます。

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