リクルート事件とは?戦後最大の疑獄事件の真相とは?

戦後最大の疑獄事件といわれた「リクルート事件」では、多くの政治家が関与していたことで政財界に大きな影響を及ぼし、国民の政治不信を引き起こしました。「未公開株」を賄賂として用いた事でも話題になったリクルート事件について、概要やその後をわかりやすく解説します。

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リクルート事件とは?

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リクルート事件とは、1988年(昭和63年)に発覚した、戦後最大といわれる贈収賄事件です。収賄の疑いをかけられた者が100人以上という規模の大きさだけでなく、与党自民党の大物政治家が何人も関係していたことが明るみに出たため、国民の自民党への信頼が失われ、政界の大きな流れの潮目が変わってしまうきっかけになりました。

当時の首相であった竹下登さえも収賄の疑いをかけられました。竹下首相自身は逮捕も起訴もされなかったのですが、彼の内閣はすっかり国民の信用を失ってしまいます。その結果、内閣支持率が大きく低下して、最後は総辞職に追い込まれました。

「リクルート事件」のきっかけと発覚

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情報誌の発行を主な事業としていた株式会社リクルートは、1960年(昭和35年)の会社創設の当初から業績を順調に伸ばし、事業をどんどん拡大して行きました。しかしどんなに業績が良くても当時はいわゆる「新興企業」としかみなしてもらえず、歴史のある大企業が主導する財界の中では、浮いた存在だったといわれています。

同社の創業者で会長の江副浩正(えぞえ ひろまさ)氏は、このような状況をなんとかして打ち破ろうとしました。政財界との太いパイプを作って、会社の立場をより確固としたものにすることを目指したのです。そしてこの「秘密の活動」が、この大きな疑獄事件を引き起こす直接のきっかけとなりました。

リクルート・コスモスの「未公開株」を議員に譲渡した事実

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目的を果たすために、江副浩正氏は当時の大物の政治家や財界人、そして旧文部省や旧労働省の高官などの要人に、子会社のリクルート・コスモス(現在のコスモイニシア社)の未公開株を譲渡して回りました。贈賄に使われたのは約200万株、渡した相手は100人以上です。

当時この会社は、近い将来株式を公開することに決めていました。そのためもらった株を株式公開後に売却すると、大きな利益が得られることが、あらかじめ予想されていたのです。どうして企業の未公開株が、大きな利益につながるのでしょうか?

「未公開株」とは

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未公開株とは、証券取引所でまだ取引されていない会社、つまり非上場の会社の株のことです。その企業が証券取引所に上場されて、株を誰でも自由に買えるようになった時点(ふつうは証券会社が窓口です)で、その株は「公開された」ことになります。

株を公開した時点で、その株はふつう値上がりします。リクルート・コスモスのようにしっかりしたバックボーン(一流企業の子会社)がある市場の期待が大きい会社なら、大幅に値上がりすることはほぼ確実です。そのため未公開株をもらった人は公開後にそれを売ることで、多額の利益がほぼ確実に得られます。

リクルート・コスモス株が上場し不正な売却益を得た

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譲渡は1984年(昭和59年)12月から1986年(昭和61年)6月まで続きました、そして1986年(昭和61年)10月公開後、リクルート・コスモスの株は予想どおり急激に値上がりしました。そのためこの時点でこの株を売った人は、多額の不正な利益を得ました。譲渡されていた株の売却益は、総額で約6億円に達したそうです。

たとえば当時の日経新聞社の森田康(もりた こう)社長は、1984年(昭和59年)12月にもらった未公開株を売却することで、約8,000万円の余計な収入を得ることができました。(その後この件は発覚し、森田康氏は社長を辞任しました。)

川崎市助役への賄賂が発覚したことにより事件が明るみに

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もちろん、これらの譲渡は秘密のうちに行われました。しかし川崎市の企業誘致責任者であった小松秀煕(こまつ ひでき)助役に問題の未公開株が贈られたことが、1988年(昭和63年)6月18日の朝日新聞のスクープ報道で、世の中に知られてしまいます。

この譲渡は、リクルートが関係していた川崎駅西口の再開発で便宜を図ってもらう目的で行われました。同社は再開発が行われていた地区の建ぺい率を500%から800%に引き上げてもらい、より高いビルが建設できるようにしてほしかったのです。

リクルート事件の追及と贈賄の現場スクープ

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朝日新聞の報道で取り上げられたのは、川崎市の小松秀煕助役だけです。しかし他のマスコミ各社も巻き込んだ報道合戦が続くうちに、未公開株を譲渡されたのは、当時の大物の政治家や財界の実力者から政府の高官まで、合計100人以上になることが次第にわかってきました。そして世の中は大騒ぎになりました。

国会での厳しい追及

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マスコミの取材合戦で、このスキャンダルに関係していることがわかった大物の政治家の中には、その当時の首相である竹下登をはじめ、前首相の中曽根康弘、後に首相になる宮沢喜一副総理兼大蔵大臣、現在(2019年(令和元年))の首相で安倍晋三の父親である安倍晋太郎氏、渡辺派の長である渡辺美智雄氏などが含まれています。

このため社会党などの野党は、江副浩正氏とこれら大物の政治家を、国会で証人喚問することを目指して、攻勢を強めました。しかし江副浩正氏側はそれをなんとか逃れるため、あの手この手を尽くしました。そのためリクルート・コスモスの社長室長が、この問題を厳しく追求していた社民連の楢崎弥之助議員に賄賂を贈ることになりました。

野党への贈賄を隠し撮りスクープされた

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誘いを受けた楢崎弥之助氏は、自分の身の潔白をはっきりと示すための方法をいろいろ考え、周囲にも相談しました。その結果、とりあえず誘いに応じたふりをして、その現場を知り合いの民放のカメラマンに隠し撮りをさせることに決めました。会見は1988年(昭和63年)の8月末に議員宿舎で行われました。

楢崎弥之助氏は9月5日に告発のための会見を開き、その夜日本テレビの「NNNニュースプラス1」で、リクルート・コスモス側が現金の入った紙袋を楢崎氏に贈ろうと押し付けた瞬間の映像が、全国放送されました。この生々しい放送が引き金となって野党の攻勢は勢いづき、東京地検特捜部も本格的な捜査を始めました。

マスコミのスクープ合戦

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現在(2019年(令和元年))、安倍政権の付託を受けたマスコミは、政府に対する批判的な報道を控えるようになっている、という意見がSNS上などでよく聞かれるようになっています。しかし1988年(昭和63年)当時のマスコミは、現在とは全く異なる状況の中で活動を続けていたのは明らかです。激しいスクープ合戦です。

過熱気味の報道

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江副浩正氏も、2009年(平成21年)に発表した手記の中で、当時のマスコミの過熱した報道の様子を、逮捕されたときに「大量のフラッシュが焚かれた。自分はただの被疑者なのに。」と言う内容のことを述べています。

このマスコミ各社の激しいスクープ合戦が事件を世の中に広く知らせ、世論や国会、さらには事件の捜査の動向にまで大きな影響を与えたことは、いうまでもありません。当時は報道関記者にとって、とてもやりがいのある時代だったといえます。

スクープが世の中を動かした

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リクルート事件の経緯をたどっていくと、あちらこちらで新聞社の記事やテレビ局によるニュースのスクープ報道によって、事件が次のステップへと展開していく局面があることがわかります。事件が明るみになったのは朝日新聞のスクープであり、世間の注目を集めることになった原因は日本テレビのスクープでした。

朝日新聞や日本テレビのスクープがこの事件を世間に知らせ、事件の本格的な追求のきっかけになりました。報道各社の激しいスクープ合戦によって、事件の規模が非常に大きなものであることが少しずつ明らかにされて行きました。

リクルート事件の判決でさらなる波紋

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1988年(昭和63年)10月に東京地検特捜部は正式に捜査を開始しました。捜査は賄賂が贈られたルートを4つに分けて(政界、NTT、旧労働省(現在の厚労省)、旧文部省(現在の文科省))行われ、1989年(平成元年)の5月まで続きました。

さまざまな関係者が収賄についての調査を受けました。調査の途中で関係者の疑わしい死亡事件も起こりました。それだけ大規模な捜査を行ったにもかかわらず、最終的に起訴にまで至ったのは、12人だけでした。

贈収賄罪で12名が起訴され有罪に

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捜査の結果、江副浩正氏をはじめ12人が1989年(平成元年)に起訴されました。贈賄側は江副氏をはじめ4名、収賄側は政界関連が2名(藤波孝生元官房長官と池田克也元議員(公明党))、NTT関連が3名、旧労働省関連が2名、旧文部省関連が1名の計8名です。これに伴い東京地検特捜部は5月29日に捜査集結の宣言を行いました。

裁判の結果、程度の差こそあるものの、全員が執行猶予つき有罪の判決を言い渡されました。贈賄側主犯の江副浩正被告は、一審(東京地裁)で裁判を14年も続けた結果、2003年(平成15年)に懲役3年執行猶予5年の刑を言い渡されました。

政治家は全員不起訴へ

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12名が起訴されて有罪判決を受けたというと、一見人数が「多い」感じがします。しかしリクルートの未公開株を受け取ったその他の人間、特に中曽根康弘前首相、竹下登首相、宮沢喜一副総理(以上、すべて当時)など超大物の政治家たちは全員おとがめなし、つまり不起訴処分でした。

政治家の中で起訴されたのは自民党の藤波孝生元官房長官と公明党の池田克也元衆議院議員の2名だけです。大半の政治家が起訴をまぬがれたのは、この未公開株の譲渡を通じて、リクルート側がどんな見返りを要求していたのかを、具体的に特定することができなかったためだといわれています。

「妻が…」「秘書が…」が流行

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リクルート問題は国会で野党の激しい追求を受けました。またマスコミも黙っていませんでした。しかし疑惑をかけられた大物の政治家たちは、まるで口裏をあわせたように「妻(あるいは他の家族)が株をもらってしまったが、自分は知らない」とか「秘書がうっかり受け取ってしまった」と言い逃れをくりかえしました。

その結果、小学生の間にまで「妻が、妻が…」「秘書が、秘書が…」という言葉が流行するようになりました。しかし真相は相変わらずやぶの中という状態が続き、国民が政治を信用しなくなる傾向はますますひどくなりました。

首相秘書はなぜ亡くなった?

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リクルート事件が残した謎のひとつに、竹下登首相(当時)の秘書であった青木伊平氏が、1989年(平成元年)4月26日に自宅寝室で首をくくって亡くなったことが、あげられます。ちょうど竹下首相が退陣表明をした翌日でした。

青木氏は竹下首相のお金の流れのすべてを把握してると考えられていて、連日検察からの事情聴取を受けていました。毎日続く厳しい取り調べに耐え兼ねて、自ら命を絶ったとしてもおかしくありません。遺体はパジャマ姿で、そばには奥さんや竹下首相などにあてた遺書が4通残されていました。

疑わしい死因

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遺体のそばに遺書があったため、この件は自殺として処理されました。しかし亡くなった現場の状況におかしな点がいくつかあったため、一部では死因を疑う声もあがりました。青木伊平氏の証言次第で現役の首相が逮捕される可能性があったためです。それを防ぐため、もしかしたら誰かに殺されて自殺にみせかけられて…というわけです。

疑わしい理由

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例えば、遺体は発見された際ベッドに横たわっていました。自殺をしたにしてはあまりにも不自然な姿勢です。左手首にはカミソリによる切り傷が十数カ所もありました。また首をくくって亡くなった場合に通常生じる、脱糞による下着の汚れも見つからず、どこかで殺されて自宅に運ばれた可能性も否定できません。

しかも青木伊平氏には自殺した旧友(中学校の同級生)がいました。その旧友の遺族を世話した経験があったため「自殺だけはやってはいけない」と常に周囲に語っていたという証言もあります。そういう人間が果たして自死を遂げるようなことがあるだろうか、という点も疑問です。

リクルート事件の政財界への影響

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リクルート事件には、政権与党であった自民党の超大物をはじめとするさまざまな政治家が、関係していました。そのためこの事件は、その後の政治の流れに、大きな影響を与える結果になりました。

最も大きな影響は国民が政治を信じられなくなる傾向(特に自民党離れ)です。政治が信用を失ってしまう現象は自民党の一党独裁体制(55年体制)を崩壊させて、非自民・非共産の連立政権の誕生まで事態を進めてしまいます。

国民の政治不信が高まり内閣総辞職

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この事件に、当時の首相であった竹下登氏を含む多くの政治家が関係したことにより、内閣支持率は大幅に低下しました。竹下内閣においても関係者として名前の上がったメンバーの辞任が相次ぎます。1988年(昭和63年)12月9日に宮沢喜一副総理兼大蔵大臣、12月30日にも長谷川峻法務大臣が辞任しました。

竹下首相自身も疑われるようになりました。首相自身は起訴を免れたものの、国民が政治への信頼を失ってしまうという政治の流れには勝てません。1989年(平成元年)4月25日にいずれ退陣することを表明し、6月3日には内閣総辞職をする結果になりました。

詳しい事情

竹下首相がリクルートから5,000万円借り入れをしていたことが既ににわかっていました。しかし秘書の青木伊平氏がそれは単純なお金の貸し借りに過ぎないという証拠を提出しました。そのため東京地検も5,000万円に犯罪の要素はないと考えて、それ以上捜査を続けることはありませんでした。

しかしその後、朝日新聞がこの借金についてスクープ記事を発表しました。そのため竹下首相は、1989年(平成元年)4月25日に退陣を表明し、6月3日に総辞職をするところまで追い込まれてしまいます。

次期首相候補がいない?

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竹下内閣の退陣後、自民党には次期首相候補となる人材があまり残っていませんでした。それに該当する人たちはすべてリクルート事件に関係していたため、謹慎しなければならなくなったためです。結局、リクルートとの関係があまり取り沙汰されなかった宇野宗佑氏が次の首相になりました。

自民党の支持率低下と自公民体制

リクルート事件に関係した政治家の大半が自民党に所属していたため、国民の自民党離れが大きく進みました。1989年(平成元年)に導入された3%の消費税も、それに追い打ちをかけました。竹下内閣の総辞職に伴って後を継いだ宇野内閣も、宇野首相の女性スキャンダルなどにより人気は低迷しました。

その結果、1989年(平成元年)の参議院選挙で大敗してしまい、宇野内閣も総辞職します。そしてその後の自民党は、公明党などと妥協(自公民体制)しなければ単独政権を維持できないところまで、追い込まれてしまいました。また宇野宗佑氏の次は58歳の海部俊樹氏が首相になり、政治の世界の世代交代が一気に進みます。

社会党が勢力を伸ばした

与党である自民党の信用が失われるのに比例して、当時の野党第一党であった社会党が国民の支持を集めるようになり、1989年(平成元年)の参議院選挙で大勝しました。この当時の社会党党首であった土井たか子氏は、この結果を「山が動いた」という言葉で表現しました。

リクルート事件による追い風に加え、土井たか子という女性が党首を務めたことにより、社会党は翌年の1990年(平成2年)の衆議院選挙でも、「マドンナ旋風」と呼ばれたブームに乗って大きく議席を伸ばしました。ただしブームは長く続かず、1992年(平成4年)の参議院選挙、1993年(平成5年)の衆議院選挙で社会党も衰退しました。

55年体制の崩壊

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国民が政治を信じなくなる傾向は、1955年(昭和30年)から長く続いた55年体制(自民党が与党第1党で社会党が野党第1党)の崩壊につながります。自民党、そして国民の自民党離れの受け皿になることに失敗した社会党から離党者が続出し、彼らが中心に結成された新生党や新党さきがけ、日本新党などが躍進します。

この結果、新生党、日本社会党、公明党、民社党、社会民主連合、日本新党、新党さきがけが連立して、1993年(平成5年)8月9日に細川内閣が成立します。非自民連立政権がはじめて発足したことで、40年近く続いた55年体制は終わりをむかえます。

公職選挙法の改正

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国民が政治への信頼を失った結果、政界は「国民に信用される政治と政治家」という課題に、大きな関心を払い始めます。その結果1990年(平成2年)以降、いくつかの重要な改革が行われました。1994年(平成6年)に成立した「政治改革四法」はその主なものです。

改革のうち主なものは「選挙における小選挙区比例代表並立制の採用」「政党助成金制度の導入」「公職選挙法の改正(執行猶予付きの判決を受けた場合、議員などの公職に就くことはできない)」「閣僚の資産公開をする際には、本人だけでなく配偶者と扶養する子供も対象とする」などです。

リクルート事件後のリクルート社

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リクルート事件によって、株式会社リクルート自体も大きな影響を受けました。会社の評判は悪くなり、進学情報関連事業などの分野では、クライアント離れがどんどん進んで行きました。この深刻な事態からリクルートはどのようにして立ち直り、今日まで生き残ることができたのかを、ここでは紹介します。

江副浩正が経営から退きダイエーの傘下へ

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1988年(昭和63年)のリクルート事件の発覚後、7月に江副浩正氏はリクルートの会長を辞任します。その後1992年(平成4年)に自分が持っていたリクルート社の株をダイエー創業者の中内功氏に売りました。(この売却で、江副氏は約400億円の利益を得たといわれています。)

リクルート社はダイエーの支配下に事実上入ったのです。そしてダイエーは何人かの幹部をリクルートに送り込みました。しかしその他の面で、ダイエーは「物言わぬ株主」に徹することに決めます。そしてリクルート社が背負っていた負債の肩代わりはしないことも、決定しました。

バブル崩壊により経営危機に

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1991年(平成3年)に1980年代後半から続いていたバブル景気が崩壊しました。リクルート社はバブル期に手を出した不動産事業やノンバンク事業などに失敗、資金が焦げ付いてしまい、リクルート事件のため企業イメージが悪化した影響がこれに重なって、多額の借金を背負い込むことになりました。

有利子負債を自力で完済して2014年に東証一部上場

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ダイエーはリクルート社の危機においても「もの言わぬ株主」の姿勢を貫きます。このためリクルート社はダイエーから来た高木邦夫専務のもと全て自分たちで対応し、1994年(平成6年)には約1兆4千万円の有利子負債の返済を完了しました。2014年(平成16年)には、持株会社のリクルートホールディングスが東証一部に上場しています。

再建の途中において

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リクルート事件によってはじまった株式会社リクルートの危機を、同社は企業と社会、企業と従業員との関わりを徹底的に見直すことで切り抜けました。企業風土の徹底的な改革に取り組んだのです。

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