江川事件とは?歴代ドラフト史場最大の事件!巨人との空白の一日の真相は?

野球界に大きな影響を与えた「江川事件」は、その後のドラフト制度を変えるきっかけにもなりました。この記事では、江川事件の背景に迫るとともに、空白の一日はなぜ防ぐことができなかったのかという点に言及し、江川事件の当事者である江川卓の生い立ちと現在も紹介します。

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江川事件とは?当時の野球界に衝撃を与えたドラフト事件

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日本でも非常にポピュラーなスポーツ『野球』英語では『baseball』と言いますが、多くの人たちがプレーヤーとなって実際にプレイしたり、テレビや球場で観戦する人たちもいます。もちろんスポーツでありゲームなので色々なルールがあり、プレーヤーでは無ければあまり知らないような知識や歴史がたくさんあります。

プロ野球やプロ野球選手であれば、絶対に関係してくる誰がどこの球団に入るかを決めるくじ引きのような大事な制度『ドラフト』これも野球においては欠かせない知識や歴史の一つなのです。ひと昔前に起きたこの事件がその大事なドラフトという制度や、日本の野球界に大きな影響と衝撃を与えたのです。今回はそんな出来事について解説していきます。

江川事件の概要と電撃トレードまで

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平成でも高校野球や甲子園で名を馳せるピッチャーが数多く存在し、各球団から1位指名されて入団後もまざまざとその実力を発揮するそんな野球選手がいるはずですが、昭和に大活躍した『江川卓』という野球人もまたその1人でした。彼が高校野球や甲子園で数々の偉業を成し遂げながら、チームを優勝に導きプロ球団やマスコミ、世間から注目されました。

果たして彼はこの後、高校卒業後どんな道を選んで進んだのか?そしてどんな風にあの『問題』や『騒動』が起きていくのか。ここの見出しでは彼が高校卒業後に決めた最初の進路、そしてプロになって事件が起きるまでの概要を時系列ごとに解説していきます。野球の事や当時の事をよく知らない方にも分かり易くまとめていきます。

江川事件の概要①江川卓は大学進学のため1度目のドラフトを拒否

彼は栃木県宇都宮市にある名門の高等学校に入学し、野球部に入り春と夏の甲子園で偉業と呼べる成績を数々残していきました。当然関係者や世間、マスメディアも彼を注目していて、彼の自宅まで関係者が自宅に押し寄せるくらいだったのです。高校卒業後、すなわちその年のドラフト会議では、多くの球団から『一位』指名を貰う事は誰しも予想していました。

しかしこのとき彼は『大学進学』を強く希望しました。ある名門大学同士の伝統的な試合に出たい。活躍したいという強い気持ちがあり、それを裏で手引きして吹き込むように誘導した者にも従い、その名門大学のどちらかに進学するという目標がありましたが、残念ながら不合格となり別の大学に進学することになりました。

江川事件の概要②2度目のドラフトで江川卓「福岡は遠い」と入団拒否

彼はその大学でも数多くの記録を打ち立て、快挙を挙げて大活躍してよりプロでの活躍の期待が高まると、大学4年卒業間近になると『巨人』への入団希望をほのめかしました。実はこのとき彼が卒業した高校の上層部にあたる役員が裏で、巨人以外の球団は彼の事を1位指名する事を避けるように根回ししていたのです。

なのでほぼ間違いなく両者の希望通り巨人入団が予想されましたが、九州にホームを構える球団が売り上げが落ち込んでいた経営を再び立て直そうとして、ファンも増え人気が出そうな彼を一位指名したのです。これは各当事者たちが予期せぬ事態となりました。しかしで彼はある理由のために『入団拒否』したのです。

彼女(後の奥さん)の存在

彼が進学した大学は、『東京都』千代田区に存在していたのですが、この時後の奥さんになる彼女と付き合っていたのです。その彼女は当時CA、つまり『キャビンアテンダント』として働いていたのですが、恐らくは仕事柄、関東や東京から離れるわけにはいかなかったのです。

もちろん彼が巨人に憧れて入団を希望していたのは色々な理由が考えられますが、その理由の一つに彼は『九州』にホームを構える球団に入団してしまうと、彼女と必然的に離れ離れになってしまうので、彼は関東や東京近辺にホームを構える球団に入団したかったのです。そのため彼は入団を拒否しました。

ドラフト規定を考慮して

国内の社会人チームに入っていてしまうと規定上2年間はプロになれない、つまりドラフト指名が受けれるのが3年後になってしまいます。一方の留学であれば一年後のドラフト会議に指名が受けれるのです。そのため入団拒否して大学卒業した後、彼は野球のために『留学』という名目で海外のアメリカ合衆国に飛び立ちました。

またかつては彼の事を1位指名していた、九州にホームを置く球団の運営会社から、現在の『西武』という企業に球団が譲ることになり、必然的に彼の『交渉権』も引き継がれました。同年の11月20日つまりドラフト会議から二日前に両者の交渉が行われましたが、彼はここでも入団拒否の意向を示し、交渉権が消滅しました。

江川事件の概要③江川卓と巨人による「空白の一日」事件が起きる

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これまでの規定ではドラフトの対象になる生徒は『国内の中学校、高等学校、大学校に在籍していて卒業を控えている生徒』でしたが、 実はこの年の夏ごろにプロ野球の組合により対象となる人物を『上記の学校を卒業した人物及び在籍していた生徒』と規定を変更しました。これは当時アメリカに留学していた彼を考慮してのことでした。

この規定は次のドラフト会議より行使される決まりになっていました。20日に彼の交渉権がなくなり、22日のドラフト会議が開催される。つまり間の『21日』には彼は『完全フリー』の選手になっていた。と巨人は捉えて至急アメリカにいた彼を日本に戻して、契約を進め入団が両者によって強行的に取り決められました。

しかし野球協会は・・・

巨人はこの規定の穴を突く形で、強行的に彼の入団契約を取り決めていきましたが、野球協会は『21日』のことは規定を改定するために、たまたま生まれてしまったものだとして、強行的に結ばれたこの契約を認めませんでした。当の本人である彼もこの日の契約の事を当日の朝に聞かされたそうなので計画的なものではなかったと考えられます。

野球業界ではなく、多くの日本人やファンにあり得ない嘘をついて、音楽業界に大きな話題と波紋を呼び大問題になったゴーストライターについて、興味のある方や知りたい方はぜひこちらの記事を合わせてご覧ください。

江川事件の概要④江川卓3度目のドラフトで阪神が交渉権を得る

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野球協会がその契約を認めなかったために、巨人軍は猛反発して抗議して、22日に開催されたドラフト会議に参加せず放棄しました。放棄したことに対して彼は『不満』をあらわにしました。この時他の球団に対して、巨人の役員は『もしも彼を一位指名したら訴える』と戒めるように声明しましたが、他の4球団がこれを無視して彼を一位指名しました。

同じ選手をいくつかの球団が指名したら、くじ引きによる『抽選』という形式が同年から取り入れられていたので、その4球団がくじ引きをして見事『阪神』が交渉権を得ることになりましたが、ここでも巨人が猛反発して抗議を起こしましたが、野球協会の上層部はこれに対してこのような事態になったのは自軍のせいたとして、そのままその結果が認められました。

江川事件の概要⑤江川卓と当時巨人の小林繁投手が電撃トレードへ

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彼ももともと『巨人』に入団するつもりでいたので、このような結果に至ったことに不満を抱えていました。阪神は交渉権を使って彼との交渉を進めていきましたが、巨人に移籍したい、トレードしてほしいとう意向を一切曲げずに、最終的には阪神はそれを受理して、巨人軍で活躍していたピッチャー『小林』と『電撃トレード』することになりました。

野球協会はこの異例のトレードは規定上になくルールに反するとして、『小林』は交換する選手はなく『移籍』という形をとって阪神に移り、彼はその年のシーズン開催日に巨人に『移籍』することになったのです。こうして念願の巨人入りを果たしたわけですがこの後困難が待ち受けていました。尚野球協会はこのような事例は今後は認められないとしました。

江川事件後の江川卓と世間への影響

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野球協会が彼もその年のドラフト会議の対象選手にしようとして、規定を変更したために生まれてしまった21日という『盲点』により、巨人がそこを突いて強行的に契約を進めたことにより、一連の事件が起きてしまったわけですが、最終的には特例のトレード(移籍)で彼の巨人入りが果たす事が出来ました。

しかしこの数か月間に及ぶ一連の騒動は、プロ野球球界だけではなく、マスメディアや世間にも相当な影響を及ぼしました。事件の後、つまりその年のシーズン戦開幕日に巨人に移籍された後、どんな出来事が起こり各方面はどんなアクションを起こしたのでしょうか?次にその後の『影響』について解説していきます。

江川はマスコミに追い回された

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高校生のときに甲子園を賑わせて、さまざまな記録を多く打ち立てて偉業を成し遂げたピッチャーであったことから、当時から彼の周りには野球関係者やファン、更にはマスメディアが取り巻いていましたが、移籍の後は更にマスメディアが張り付くようになり、プライベートでもお構いなしに追い掛け回されてしまったのです。

それは強行的な契約に至ったこと、自分の要望を最後まで曲げずに巨人入団の意向を示し続けたことなどに対して、各方面から批判を浴びたので、スポーツ新聞各社、各放送局の報道陣が連日彼の心情や声明を取り上げようと必死だったためでした。良くも悪くも彼は成績や実力だけではなく、一連の騒動からも大きく注目を集めることになったのです。

チーム内でも江川への嫌がらせがあった

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球団同士のいざこざ、彼の強い要望や巨人入団の意向により、巻き込まれてしまう形になった『小林』を慕うチームメートも勿論いたことでしょうし、特例や強行的な手段により、半ば強引に入団した彼に対して不満を募らせる選手、気に食わない選手も少なくなかったのでしょう。またすごい選手なだけに彼を妬む人物もいたかもしれません。

彼が登板する試合にはわざと『黒星』が付くように成績が悪くなるようにと、わざとエラーをして失点させてみたり、打席に立ってもわざと空振り三振したりと、様々な方法で手を抜いて嫌がらせする『チームメート』もいたのです。この事は後に開催されるパーティで彼と他のチームメートの『奥さん同士』の会話で明らかになったのです。

巨人は謝罪、江川の出場も自粛へ

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新しい規定上で抜けていたあの21日という『盲点』を突いて強行的に契約を取り交わした巨人は、それから数か月間、野球界や野球協会に対して強く反発して、抗議を続けるなど反抗的な態度を見せていましたが、翌年のシーズンが始まったあたりで、野球協会や世間、マスメディアに向けて深く謝罪しました。

この謝罪に伴い、彼が移籍したのはシーズン開始してすぐの事でしたが、約60日間の間は試合に出場及び登板を控えるという意向を示しました。つまりこれは野球界や野球協会の意向で『出場停止』の処分を下したのではなく、『自粛』という形をとったのことになります。そしてその年の6月の頭に彼はようやく『一軍』に登録されると、明くる日にプロ野球『初出場』・『初登板』を果たしました。

読売ジャイアンツの広告が至る所から消える

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新たに『西武』がプロ野球球団に参入して、その流れで彼を一位指名して『交渉権』を獲得していた九州の球団から、引き継がれることになりましたが、今回の一連の騒動(他の事態も含む)により『巨人』と大きく揉めて両チームで激しい論争が続きました。これにより野球界だけではなく、企業グループにもその影響が及んだのです。

『読売』と『西武』は元々は良好な関係でありましたが、野球界の波紋が広がり、読売が持つ新聞広告やテレビの放送局でのCMなどでは西武系の企業を締め出し、一方の西部側は鉄道の構内や電車内に掲載されている『広告』を徹底的に排除して対立したのです。この対立は数十年続き、現在から28年前の平成3年、当時の読売グループの社長が亡くなるまで及んだと言われています。

江川事件の「悲劇のヒーロー」小林繁

この見出しのタイトルのような異名で知られて、国民から人気だったプロ野球選手。現役時代は先発ピッチャーであればだれもが目指して獲得したいであろう『沢村賞』や『最優秀投手』を2度も獲得している凄い選手なのですが、彼も今回ご紹介している一連の騒動に巻き込まれた当事者であり、事件のもう一人の主人公なのです。

そんな彼がどんな人物であったか?一連の騒動及び事件ではどんなポジションにいたのか?なぜ上記の異名で呼ばれるようになったのか?など詳しくこの人物のプロフィールや概要をご紹介していきます。いわばライバル的な存在であり、ファンや国民から愛された野球人なので是非この機会に彼のことを知りましょう。

エース格の小林繁がトレード要員に

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彼は一連の騒動、事件が起きる5年前に既に『巨人』に入団していました。そこまで世間や野球関係者、マスメディアから注目されず6位でピッチャーとしてドラフト指名されました。入団当時から体格もそこまで大柄ではなく、速球も140キロも出ていなかったそうですが、いわゆる技巧派ピッチャーだったらしいです。

キャンプでの厳しい『猛特訓』により鋼の様に硬い筋肉や無尽蔵な体力を手に入れると、1軍ピッチャー、それもエース格として活躍し始めました。あの一連の騒動、異例の事件が起きるドラフト会議の一年前には沢村賞や最優秀投手にまで選ばれていたのです。そんな矢先にその翌年、大注目されていた新人投手とのトレード要員に選ばれてしまったのです。

小林はキャンプインの前日という強行日程で大阪へ

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彼自身がそのことを球団から聞かされたのはいつだったのでしょうか?それはシーズンが開始される前に、春季キャンプが行われる前日というタイミングでした。恐らく今シーズンもいよいよ開催されると、身体を仕上げて投球を調整して、また今年も活躍してチームに貢献するぞ!と意気込んでいた頃だと考えられます。

そんな心情の中で突然自分が所属していたチームから、強制的にそれも勝手に『トレード』されることになったと言い渡されるのです。どれほど悔しくてつらいを思いをしたことでしょうか?彼に『悲劇』という言葉が当てられるのも納得できるはずです。こうして彼は春季キャンプインの直前という変格的なスケジュールで『阪神』つまりは大阪へ向かう事になりました。

小林繁は阪神で「反骨のエース」へ

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「野球が好きだから阪神へ行く、同情は買いたくない」

(引用:1979年ー小林繁ー)

彼はそう言い放ち、新たな球団に移籍しました。昨年には日本で一番優秀なピッチャーに選ばれていながらも、球団側は自分ではなく「江川」を選んだのか?と自問自答して悔しさを募らせていました。そんな彼を一目見ようと、彼が色々な心境の中で練習している阪神のキャンプ地に、当時のファンや国民が10000人近くも押し寄せました。

その後『どうしても元いた巨人にだけは負けてたまるか』と反骨の精神をギラギラと燃やして、当時の阪神の監督に自ら『巨人戦』には必ず登板させてほしいと頼み込んだのです。そしてそのスケジュールに合わせて身体を調整して、その年のシーズンでは対巨人に対しては『8連勝』も収めるなど快挙を挙げました。

闘志あふれる投球

彼はもともと物静かでクールな印象があったそうですが、巨人との試合が始まる前のブルペンでは声を張り上げて闘志むき出しなのを露わにしたそうです。彼はこうしてその年のシーズンでは20勝以上の好成績や3割以下の防御率と、優秀な成績を収めて再び『沢村賞』と『最優秀投手』を獲得しました。

引退後に初めて江川卓に言及する

その数年後にシーズン成績を13勝で終え、彼は15勝できなかったら引退するという『宣言通り』に潔く引退しました。そこから国民的に人気を博した数々の『大物女優』との関係が騒がれるようになり、数回結婚と離婚を繰り返しました。現在から12年前の平成19年にお酒の『コマーシャル』にて事件の当事者である2人は共演を果たしました。

小林はそこで『心をずっと縛っていた鎖のようなものが外れた』『辛かったよな・・・俺も辛かった。2人とも辛い思いをした』と言及すると、江川は哀愁に満ちた表情で感慨深げに『そうですね・・・』と答えました。当時の野球界や一連の騒動を知っていた国民からしても、非常に感慨深いものがあったのではないでしょうか?

小林繁は57歳で急逝

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先ほどの『コマーシャル』の収録の際には『余生はこれまでとは違う』と言及していましたが、その余生は儚くも短いものになってしまいました。現在から11年前の平成20年には福井県の少年野球チームの監督に、その翌年の平成21年には北海道ハムファイターズの2軍の投手コーチに就任しました。

その翌年の平成21年委は北海道ハムファイターズの1軍の投手コーチに就任して、心身ともに新たにまた野球人として野球に捧げようと意気込んで、シーズン前の春季キャンプを控えていた頃、突然その日はやってきました。その日自宅で『背中が痛む』と病院に通報して、救急車で搬送されると、その時すでに心臓が止まっており、そのままこの世を去ってしまったのです。

江川卓事件「空白の一日」はなぜ起きた?2つの盲点

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今回ご紹介している一連の騒動、事件の当事者であり、巻き込まれていた『小林』について解説していきました。この野球選手及びピッチャーもまた優秀な成績を残して、闘志むき出しの投球から国民やファンから愛されていたことを知っていただけたのではないでしょうか?10年前に亡くなってしまっています。天国へ行っても野球を続けていてほしいですね。ご冥福をお祈りいたします。

振り返ると巨人が規定上の穴を突いて、21日に強行的に契約を取り交わさなければ、普通のデビューを飾ることができ、大きな波紋を生んだいざこざが起きなかったかもしれません。ではなぜ今回の一連の騒動が起きてしまったのでしょうか?次にその年に改定されたドラフト会議の新たな規定の『2つの盲点』について解説していきます。

西武ライオンズの優先交渉期間終了後に巨人が交渉した

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高校卒業後のドラフト会議では元々大学野球を体験しておきたったのと学歴のため、プロ入りを回避して、大学卒業後の2度目のドラフト会議では彼女と離れたくないという理由から、関東にホームを置く球団、巨人への球団を強く希望し、母校である高校の役員が裏で巨人以外の球団に根回して指名しないように手引きしていました。

それを無視して、経営再建を図るために人気が出るであろう大物新人ピッチャーを我が球団に迎え入れようとして、九州にホームを置く球団が1位指名して『交渉権』を勝ち取ったのですが、それに反発して応じずアメリカに留学していました。その間に球団は『西武』企業が買収して、交渉権も引き継がれたのです。

10月20日に

勿論球団の企業グループが変わろうとも、入団する気はなかったので、交渉はうまくいかず契約も取り交われることなく、次のドラフト会議が開催される2日前の10月20日にその『交渉権』が抹消されて、つまりは優先交渉の期間が終了したのです。そしてその翌日に巨人はここぞとばかりに彼と強行的に契約を取り交わしたのです。

江川卓は当時の「ドラフト対象外」の選手に属していた

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さらに重要なポイントがあります。以前までの規定ではドラフト会議で指名してプロ入りする選手は『中学校、高等学校、大学を卒業する予定のある人物』でしたが、アメリカに留学していた彼の存在を考慮して『各学校に在籍経験がある人物』に規定が変更されたのです。しかしこれは次のドラフト会議より適用されるとのことだったのです。

つまり学校にも、社会人野球チームにも属しておらず海外に留学していた彼は、特例で21日の時点ではまだドラフト会議でプロ入りする選手の『対象外』になっていたのです。以上の2つのポイントに目を付けた巨人は即刻その日のうちに契約を取り交わした。という事なのです。

つまり誰が悪いのか?

もちろん強行的に契約を進めて、以降も抗議を続けて激しく反発した巨人の対応も適切なものと言い難いですが、この規定を定めた野球協会にも比があったのではないでしょうか?皆さんは今回の事件、騒動についてどのように感じますか?

日本には様々な記録を打ち立てた偉大なスポーツ選手がたくさんいます。『内柴正人』もまたその一人で、柔道の選手であり元オリンピック金メダリストだったのです。彼はその後指導者として日本の柔道界に君臨することになるのですが、教え子たちに手を出してしまい逮捕されて話題になりました。そんな人物について気になる方はこちらの記事をご覧ください。

江川卓の生い立ちと入団以降の功績

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