夕張保険金殺人事件とは?
この事件は、暴力団組長を名乗る日高安政と、その妻・信子が企てられた火災保険、従業員らの生命保険金を得るために行われた放火殺人事件です。子供2人と救助隊員を含む7人の焼死者が出ており、特殊な状況下での裁判でさらにひと悶着あった夕張市の負の歴史に残る大事件となっております。
夕張保険金殺人事件発生から逮捕までの流れ
それでは、これから詳しい事件の内容を解説していこうと思います。7名もの人を我欲で死に追いやったこの事件の全体像はいったいどのようなものなのでしょうか。事件発覚の驚きの経緯には注目です。
日高工業の作業員宿舎に火災が発生7名が亡くなる
事件が起こったのは1984年(昭和59年)。端午の節句・5月5日という日に、子供2入を含む7名が亡くなるという痛ましい事件が起きました。時刻は夜中の10:50ごろ。大抵の人が寝静まった時間帯でした。
火災現場は北海道の夕張市。日高夫妻の経営する炭鉱下請け会社、日高興業所の作業員と家族が生活を営む宿舎でした。火災直前にパーティーをしており、ほとんどの従業員が酒を飲んでいたほか、皆が寝静まった後の出火であったため逃げ遅れた人も数多くいました。
事件当初は火の不始末が原因とされていた
その日は新たな従業員を迎えいれた記念として従業員とその家族でジンギスカン鍋を囲んだパーティーを行っており、当初はその鍋、もしくは使用していた暖房器具の火の不始末が火災の原因ではないかという方向で調査が進められていました。事故かと思われていたこの事件ですが、2か月が経った頃事態が一転します。
火災保険金と従業員の死亡保険金合わせて1億3800万円を受け取る
日高夫妻は計画通り大金を獲得。宿舎にかけていた火災保険と亡くなった従業員の方4名の生命保険の金(1人当たり2~3000万円かけていたといいます)等、合わせておよそ1億3800万円あまりの大金を手に入れました。
しかしあろうことか、この1億以上の多額の保険金はデートクラブの開業や高級品の購入、ギャンブルなどの豪遊による浪費でわずか1か月という短期間でほとんどを使い果たしてしまったといいます。もし逮捕されていなければこの後にも保険金目当てで事件が起こっていたのかもしれないと考えるとゾッとします。
実行犯である石川清の自白で事件の真相が明るみに
事故が一転、事件となった最大の理由はなんと実行犯による自白でした。実行犯・石川清は火から逃れようと2階から飛び降りて両足を骨折する大けがを負い、入院していました。しかし同年7月18日に、石川清は病院から逃亡。突如として行方をくらましてしまいます。
次に彼の消息が明らかになったのは病院逃走から更に1か月が経過した8月15日でした。警察に彼が、逃亡した青森から電話をかけてきたのです。口封じと次なる保険金獲得のための犠牲者になることを恐れた石川清は自首。事件の真相を洗いざらい明らかにすることを選択しました。この自白により日高夫妻はあっという間に逮捕されました。
夕張保険金殺人事件の裁判と判決、日高夫妻の恩赦の期待
この事件は、特異な裁判となっていることもこの事件を語るうえで欠かせない要素となってきます。この事件の裁判の特異性とは何なのか。日高夫妻が裁判のさなか何を狙っていたのかを用語解説を織り交ぜながら説明していこうと思います。
夕張保険金殺人事件裁判①石川清は自主による減刑で無期懲役
事件のキーポインターで実行犯の石川清。彼は自首による減刑がなされ無期懲役の判決が下されました。このとき、彼は亡くなってしまった子供2人を助けようとしていましたが、予想以上に火が回るのが早く助けられなかったことをとても悔やんでいたといいます。
夕張保険金殺人事件裁判②日高夫妻は殺害の指示はしていないと主張
日高夫妻はというと、石川に報酬を条件に放火の指示を出したことに関してはすぐに認めました。しかし、あくまで火をつけて建物を焼き、火災保険のみを手にするはずの手筈で指示を出しており死者を出すつもりはなかったと言っていました。
恩赦とは?
あまり聞きなれないこの制度。これは一体どんなものなのかを少し解説します。今後の展開を理解するために非常に重要な要素となります。端的に言えば、これは政府と天皇陛下が、皇族の特別な日に行う裁判で決まった刑を軽くしたり免除したりする行いの事です。
最近では皇太子殿下と雅子様のご結婚の際に行われました。また、2019年の新元号発令に合わせても実施される予定で同年秋に行われる予定となっています。しかしこの制度、現在では皇族の当たり日に犯した罪が軽くなったりなくなったりするのは何の関連も無くおかしい、不要ではないかという声も上がっております。
夕張保険金殺人事件裁判③日高夫妻はなぜか控訴を取り下げ死刑確定
日高夫妻に下された判決は死刑。その理由は、従業員達に飲酒をさせ、さらに彼らが寝入ったところで火をつけろという指示を出したという点で未必の故意(火事で逃げられない状況になってしまうだろう、亡くなってしまうだろうということを予測していながら実行に移すこと)を検察側に指摘されそれに対して反論出来なかったからとされます。
ではなぜ日高夫妻は死刑判決を受けたにも関わらず抵抗、控訴を取りやめたのでしょうか。それには上記させていただきました恩赦が大きく関わっています。日高夫妻は上記した恩赦による減刑を狙っていました。そしてその対象となるために急いで罪を確定させたいという下心がありました。
恩赦の対象
恩赦の対象となるためには条件があります。それは「行われる段階で罪が確定していること」であり、裁判で争っている真っ最中であると対象外となってしまうため急いで刑を確定させる必要があったのです。
何故滅多に行われない恩赦を狙ったのかというと、この時丁度昭和天皇が病気で重篤な状態となっており、丁度良く崩御すれば崩御、皇太子の即位などのタイミングで恩赦が行われると踏んだからでした。しかしその期待は見事外れることとなります。
恩赦の期待が外れた日高夫妻は最高裁に特別抗告も棄却、死刑へ
控訴をせずに急いで刑を確定させ恩赦対象になったつもりでいましたが、その期待は外れます。恩赦の前例に死刑囚が無期懲役となった例はありましたが、いずれも殺人罪のみの罪状でした。日高夫妻は殺人の他にも放火等複数の罪が併合していたため恩赦の対象にすら入っていなかったのです。
恩赦の対象となれないことに気付いた日高夫妻は1996年(平成8年)に棄権した控訴審をもう1度行うよう裁判所に求めますが、札幌高裁・最高裁共に申請を認められず、同じ年の8月1日死刑執行。その最期は壮絶だったといいます。
27年ぶりの女性死刑執行
死刑囚自体は残念ながらそれなりの数がいましたが、女性の死刑囚は数少なく、この時の死刑執行で戦後3例目という非常に珍しいケースとなりました。ちなみに、日高夫人の前は27年前の1970年(昭和45年)に行われたものでした。
夕張保険金殺人事件・日高夫婦の犯行動機
では、この放火殺人事件を考え付いた経緯、行うに至った日高夫妻の動機はいったい何だったのでしょうか。自分勝手な犯行故に動機もとんでもなく自分勝手なものでした。その驚きの動機をここでは説明させていただきます。
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故で保険金を得る
動機を語るうえで欠かせないのは日本の歴史上3番目に多い死者を出したという炭鉱事故です。北炭夕張新炭鉱ガス突出事故と言われる事故は劣悪な環境、杜撰な危機管理体制により引き起こされたガス突出と、可燃性のそのガスによる火災事故です。
支払われた保険金
この事故により日高班は従業員の半数近い人数を失うこととなってしまいました。しかし、その代わりに従業員にかけていた多額の保険金が会社に支払われました。その保険金は当然遺族たちへ支払われましたが、その支払いを済ませてもなお1億円以上の大金が日高夫妻の手元に残ったといいます。
1億以上の金を浪費し2年で使い切る
思わぬ多額のあぶく銭を手に入れた日高夫妻は舞い上がってしまい計画性皆無で散財、豪遊します。その内容としては、自宅の新築、ペットにポニーを購入、新事業の立ち上げ、高級車購入etc.といった散財の限りを尽くします。その結果1億円という超大金はわずか2年そこそこで姿を消してしまいます。
炭鉱閉鎖で業績が悪化し豪遊時とは一転借金を背負う生活
炭鉱事故と石油の台頭によるエネルギー転換により壊滅の危機に陥っていたところをこの夕張の事故やその後に起きる2件の事故で完全にとどめを刺されてしまっていました。夕張に最後まで残っていた三菱南大夕張炭鉱も間もなく廃坑になり、炭鉱員が要らない状態になりました。
日高夫妻が無計画に豪遊の限りを尽くしているとき、石炭業界は相次ぐそれにより当然廃坑員派遣業は廃業。他にもいくつか手掛けていた事業も立て続けに経営不振に陥り、手元にはなくなった1億円に代わり多額の借金が残される事態となりました。
一発逆転を狙う新規事業のために殺人を計画
日高夫妻が借金返済のために考え付いた計画はなんと新規事業を打ち立てるというものでした。手元に既に金はありませんでしたがあのあぶく銭の味を占めてしまったがために思考は如何にして保険金を得るかに向いてしまいます。そこで目についたのが多額な保険をかけた宿舎と従業員でした。
夕張保険金殺人事件の被害者たち
この身勝手極まりない犯行により、7名の死者が出ました。ここではその犠牲となってしまった方々を悼みつつその火災状況を細かく説明していきたいと思います。この火災は宿舎のみに留まらず、隣の建物も全焼に追いやったかなりの規模と勢いの火災だったようです。
就寝中の従業員4名が亡くなる
火災は台所にある新聞紙に実行犯・石川清が火をつけたことで発生しました。犠牲になった4名の従業員達は、この日新たに宿舎へやってきた人の歓迎会と称して酒とジンギスカンを囲んでいました。この4人の中に歓迎してもらっていた新たな入寮者がいると思うと不運としか言いようがありません。
住み込みの炊事婦の子供2人も死亡
また、この4名の中には宿舎の管理を住み込みで行っていた炊事婦も含まれていました。そして彼女には子供もおり、その子らもまた犠牲となってしまいました。実行犯の石川清は子供達を助けようとしたため逃げ遅れたらしく、死なせてしまったことを後悔していましたが、そもそもなぜ火をつける依頼を受けてしまったのかと思わざるを得ません。
消火活動を行った消防士1人
また、犠牲者は宿舎の関係者だけに止まりませんでした。消火活動に参加していた消防士の1人も救出活動のさなか宿舎の崩落に巻き込まれ殉職してしまいます。延焼や実行犯ですら逃げ遅れたその状況を鑑みるに、火の勢いはとんでもないものであったように感じます。
夕張保険金殺人事件の犯人①日高夫妻
この痛ましい事件を計画し、自らの手を汚すことなく保険金を得るために画策した日高夫妻。この自分勝手極まりない夫婦はそれぞれどのような人物だったのでしょうか。旦那の日高安政、妻の信子それぞれにスポットを当てていきたいと思います。
計画を企てた陰謀者は暴力団の日高夫妻
日高夫妻は件の会社、日高班の他にも有限会社日高工業、さらには様々な水商売や貸金業などを営む多角的な会社経営者でした。しかしその実態はというと誰もがニュースで1度は耳にしたことがある指定暴力団山口組の配下、北海道内では最大級の暴力団組織誠友会の総長と面識がある暴力団関係者でした。
山口組とは
暴力団対策法が作られた時真っ先に指定された3つの暴力団のうちの1つで、その構成員数は10000人を超えているという日本の中で1番大きな暴力団となっています。兵庫県に本部があり、系列の組織も全国各地に存在し、山形・広島・沖縄以外のすべての県に拠点が存在しています。
北海道も例外ではなく、それが先ほども名前が挙がった誠友会という組織です。その拠点は札幌にあり、北海道で最も大きな組織として1963年からから続く歴史があるとされています。日高安政はここの総長と面識があり、構成員の1人でした。
日高安政と日高信子はともに北海道生まれ、バーで知り合う
日高夫妻は共に北海道生まれでなんと小学校は同じ小学校に通っていました。どちらもとてもではないですが素行がいいとは言えないような子供だったようで、悪名はかなり知れ渡っていたようです。バーで出会うという馴れ初めですがもしかしたらお互い名前だけは知っていたかもしれません。ここでは、それぞれの生涯を分けて説明していきます。
日高安政
1943年に生まれ、7人兄弟の6番目でした。早くに父を失い母子家庭だったそうです。日高安政は兄たちの素行が悪く、その真似をして早くから兄たちと共に店荒らしや賽銭荒らしといった数々の非行を行っていたようです。
1968年、1度目の結婚
日高安政は日高信子と結婚する前、すでに1度別の女性と結婚しそして離婚しています。その結婚生活はおよそ1年そこそことされており、1人娘をもうけたそうですがあまりに短い結婚生活と言わざるを得ません。
日高信子
1946年に生まれ、こちらも大家族で7人兄妹の4番目でした。父親は夕張炭鉱で炭鉱員として働いていたようです。こちらもかなり素行が悪かったようで、高校のころには地元では女番長と呼ばれ、名のある不良だったようです。
高校卒業後はなんと美容師になるための専門学校に通うために上京。しかし夢は叶うことなく専門学校を1年で中退、地元夕張に帰ってきたといいます。その後夕張に帰った日高信子は暴力団に所属する男性(日高安政とは別人)と結婚します。
前旦那との死別
1児を授かり幸せな家庭を気付くかと思いきや、わずか数年の結婚生活の後前旦那はガンを患い亡くなってしまいます。その後生活のため日高信子はバーでホステスの仕事を始めます。このバーこそが、日高夫妻の出会いの場所となりました。
日高安政と日高信子は結婚後に起業し派遣事業を続ける
それから2人は交際をはじめ1972年(昭和47年)にお互い再婚を果たします。その直前、1970年(昭和45年)には件の炭鉱員派遣会社日高班を創立します。しかしどれも上手くいくことがないまま日高安政は覚せい剤所持や銃刀法違反などの罪で逮捕され起こした会社はほとんどなんの成果もあげれないままに倒産することとなりました。
しかし一旦は倒産してしまいましたが、日高安政が2年6か月の牢獄生活をしている間、妻・信子が会社を再興。この時代に女性1人で見事会社を切り盛りし会社を継続させることに成功していました。
日高安政は17歳から暴力団所属、暴力団組長へ
起業したのとほぼ同じくらいの時期から、日高安政は暴力団誠友会日高組の初代組長を名乗りだします。日高安政は義務教育終了後ほぼすぐの17歳の時から暴力団の世界に入ったとされていますが、このころにはそのツテで金貸し業や水商売といった事業にも手を出していたようです。
日高夫妻の死刑執行と日高信子最期の言葉
日高夫妻の死刑が執行されたのは1997年(平成9年)の8月1日でした。2人はそれぞれ別の独房に収容されており、死刑の際も別々に行われたため1987年(昭和62年)の最後の裁判以降2人が顔を合わせることはなかったといいます。
最後の言葉「目隠しを取ってもらえませんか」
日高信子の死刑執行の際の様子は壮絶なものだったそうです。死刑場への護送中は泣き叫び激しく抵抗し、恐怖のあまり失禁した跡が生々しく残っていたそうです。最後に観念したのか目隠しを外すよう懇願しました。同行した女性刑務官の顔が見たいといったそうです。
大体の死刑囚が諦めた様子でおとなしく死刑執行されるのに対して、激しく抵抗し生への執着を見せる姿は罪人とはいえ悲壮感に満ち溢れていたそうです。立ち会った女性刑務官はこの光景があまりに衝撃的過ぎてその後退職を決意したそうです。
日高夫妻の娘は2019年現在47歳、両親を未だに庇っている
死刑が確定した際の裁判での証言で日高夫妻はこの事件について、従業員や子供たちを殺すつもりはなくあくまで建物のみを焼いて建物にかけた保険金を手に入れるつもりだったと証言しておりました。彼女はそれが真実であると信じ、現在までずっと両親に殺意はなかったことを信じているようです。
日高夫妻の生い立ちを見る限りこの娘さんは連れ子のはずですがこのような発言をするということは家族仲は割とよかったのかもしれません。しかし、事件後に得たこれまた1億円以上の保険金は前回のときよりも早いたったの1か月でそのほとんどを使い切ってしまっているあたり減刑を狙った言い訳のようにしか聞こえません。
日高夫妻の娘夫婦が経営する会社がある?
あくまで噂の域を出ない情報ですが、その娘夫婦が北海道の札幌でコンクリートを取り扱う事業を行っているといいます。ハッキリしたソースを得たわけではないのであくまで噂であると思って読んでいただければ幸いです。また、それっぽい名前の会社さんを見つけてもいたずら等しないようお願いいたします。
夕張保険金殺人事件の犯人②の実行犯の石川清
次は実際に宿舎に火を放った実行犯・石川清について掘り下げていこうと思います。一時の目先の利益に目がくらみ道を誤ってしまいましたが罪悪感が残っていた彼のおかげで事件が発覚したわけですが、彼は日高夫妻にとってどのような人物だったのでしょうか。
石川清は日高組に入って2年目だった
犯行当時、石川清は24歳。日高組の在籍期間もわずか2年ほどのいわゆる新参者の下っ端ポジションだったようです。日高安正が遊び歩く際の足役としてよく使われていたようで、日高安正は石川清をわりと気に入っていたようにも思います。
それに、このような計画を打ち明けるには少なからず信用もしくは忠誠心がないと難しいと思います。このことから考えて、石川清は日高夫妻にとって忠実かつ口の堅さに定評がある部下という位置づけだったのかもしれません。入って2年でこの評価。もしかしたら石川清は案外真面目な青年だったのかもしれません。
500万の報酬と組での立場向上を約束され犯行に荷担
石川清は計画に加担する際に500万の報酬と日高組内での立場向上を約束されて日高夫妻に手を貸すことを決意しました。しかし、一仕事やり終えた彼に待っていたのは大きな後悔と日高夫妻に対する不信感。そして恐怖でした。
負った傷
放火直後、2階で寝ていた子供達の存在を思い出し石川清は救出に走ります。しかし石川清の想像以上に火の回りが早く子供達を助けられないどころか、自身も飛び降りざる負えない状況に追い込まれてしまいます。