おもちゃたちが活躍する『トイ・ストーリー』。そんなこの作品の中にも、ちょっとしたオマージュが含まれています。元ネタは、スタンリー・キューブリック監督作『シャイニング』。
『シャイニング』に登場する超能力少年ダニーの部屋のカーペットの模様が、『トイ・ストーリー』の舞台となる家の壁紙として用いられているのです。
オマージュ作品②ズートピア
2016年のディズニー映画『ズートピア』。登場人物であるデュークが売りさばこうとする海賊版DVDが、これまでのディズニー映画を模したものとなっています。
またデュークの名前自体が、2013年のディズニー映画『アナと雪の女王』のヴィラン(悪役)である、デューク・ウェーゼルトン公爵からとられたものです。
オマージュ作品③ファインディング・ニモ
ピクサーによる2003年のアニメ映画『ファインディング・ニモ』。こちらには現在も人気の高い「サメ映画」の元祖、『ジョーズ』へのオマージュが隠されています。
作中に登場する3人組のサメ、そのリーダー格であるブルースの名前は、実は『ジョーズ』の撮影に使われていた機械仕掛けのサメに、スタッフたちがつけていた愛称「ブルース」からとられているのです。
オマージュ作品④プレデター2
1990年公開の映画『プレデター2』。地球外生命体プレデターとアメリカ特殊部隊の死闘を描く映画ですが、こちらには同じく宇宙からの侵略者『エイリアン』へのオマージュが見られます。
作中に登場するプレデターの本拠地には、エイリアンのものと思しき頭蓋骨が飾られているのです。どちらも宇宙からやってきた存在ですから、この共演(?)はある意味では自然なものなのかもしれません。
オマージュ作品⑤ドラゴンボール
言わずと知れたバトル漫画の最高峰『ドラゴンボール』。これまた有名なサイヤ人の主人公・孫悟空の名前は、『西遊記』の登場人物の名前をそのまま拝借したものです。
また作者・鳥山明の作品『Dr.スランプ』の登場人物Dr.マシリトは、「イヤなやつ」として当時の編集者・鳥嶋和彦をモデルにして作られたなど、ユーモラスなエピソードが数多く語られています。
「オリジナリティ」はどこにあるのか:①ロシア・フォルマリズム
それでは最後に、オマージュとパクリをめぐる言説のキーでもある、「オリジナリティ」について、いくつかの文学理論を参照しながら、考察してみることにしましょう。
文学研究の世界においては、「文学とは何か」という問いがしばしばなされ、古今東西の学者がさまざまな説を唱えてきました。まずは「ロシア・フォルマリズム」についてご説明しましょう。
ロシア・フォルマリズムとは?
ロシア・フォルマリズムとは、1910年代半ばから、ロシアの文学者・言語学者を中心に展開された、文学批評運動のことです。著名な人物として、言語学者ヤコブソン、批評家シクロフスキーなどが挙げられます。
ロシア・フォルマリズムそれ自体は、比較的「短命」な運動でしたが、彼らの主張や研究手法などは、のちの文学理論に多大な影響を与え、現在でも研究の対象となっています。
「異化」と「詩的言語」
ロシア・フォルマリズムの一派は、文学作品を文学たらしめるものは何か、という問いに対し、「異化」という概念を提唱しました。異化とは、慣れ親しんだものを、それとは異なるものにすることです。
「異化」とは「日常言語に組織的に加えられる暴力」であり、その結果生まれるのが「詩的言語」であると、ロシア・フォルマリズムに属する文学者たちは考えたのです。
詩的言語の具体例
詩的言語の具体例として、日本語の七五調が挙げられます。七五調は、日本語においては語呂や調子がよく、耳に心地よいものではありますが、日常会話で七五調を話す人というのはいません。
このように考えれば、俳句は日常言語を五七五音節に組織替えする形で異化を行っている、それゆえ詩的言語であり、文学である、ということができるのです。
ロシア・フォルマリズムの破綻
このように、異化、すなわち通常の表現を変形したものを、ロシア・フォルマリズムにおいては文学性の本質とみなしていました。しかし、何をもって「変形」とみなすのか、という判断は困難です。
さらにそうした判断には、地域差、歴史的推移など、考慮しなければならないことがあまりに多すぎることが明らかになり、最終的にロシア・フォルマリズムの論理は崩壊してしまったのです。
異化は「オリジナリティ」の根拠になり得るか?
ロシア・フォルマリズムの破綻が私たちにもたらしてくれる教訓は、異化、すなわち通常とは異なる表現方法をいくら駆使したところで、それは作品の文学性を担保してくれることにはならない、ということです。
「オリジナリティ」についても、同じことがいえるのではないでしょうか。独自の手法・技法を展開したとしても、それによって作品のオリジナリティが絶対的に保証される、とは言い切れない面があるのです。
その他、独特な表現技法で知られる三島由紀夫についてお知りになりたい方は、以下の記事をご参照ください。
「オリジナリティ」はどこにあるのか:②テクスト論
さて、次に「テクスト論」と呼ばれる文学理論について見ていきましょう。テクスト論における文学作品へのアプローチの仕方は独特であり、ここにも「オリジナリティ」に関するヒントが隠されています。
テクスト論とは?
テクスト論とは、1980年代から唱えられている文学理論であり、さまざまな文学作品を論ずるにあたり、「作者」についてだけは言及を避け、文学作品を純粋な「テクスト」として見る、という立場のことです。
それまでの文学研究においては、作品を著した「作者の意図」に近づき、それをくみ取るのが文学の最終的な目標であるとされていました。しかしテクスト論は、あえてそうした考え方を排したのです。
ロラン・バルト『作者の死』
テクスト論の先駆けとしてしばしば言及されるのが、フランスの批評家ロラン・バルトによる『作者の死』というエッセーです。
この中で、バルトは文学作品はそれ自体が「テクスト」として自立しているので、文学作品を論ずるにあたり、必ずしも作者に対する言及をする必要はない、と述べ、次のような有名な言葉を残しています。
「読者の誕生は、『作者』の死によってあがなわれなければならないのだ」(引用:石原千秋『読者はどこにいるのか』)
「作者の意図」なんてわからない?
私たちは文学作品を読むとき、「作者はどんなことを伝えたくて、この作品を書いたのだろう」と、つい自然に考えます。しかしいくら文学作品を読み込んだところで、本当に作者の考えがわかるものでしょうか。
テクスト論においては、「作者の意図」を作品から読み解くのは不可能であるという前提の元に立ち、あくまで作品=「テクスト」を分析することに徹します。テクスト論とはそのような「立場」なのです。
テクストは「引用の織物」
また、バルトは、テクストは「引用の織物」である、とも言っています。どんな文学作品であっても、今まで語られてきた言語を使って書く以上、部分部分を見れば、それは「引用」に過ぎない、というわけです。
ゆえに文学研究がなすべきことは、テクストの内部に「編み込まれている」文化や思想、論理などをひもとき、分析することなのだ、とバルトは説いたのです。
「引用」と「オリジナリティ」
テクスト論がもたらしてくれる見識は、「作者の意図」は、必ずしも読者に伝わるとは限らず、伝わったとしても、それはたまさかの一致にすぎないかもしれない、ということです。
ゆえに「オリジナリティ」も、読者の受け止め方次第です(オマージュとパクリの違いについての議論を思い出してみましょう)。作者も読者も、あまりナーバスにならないほうがよいのかもしれません。
オマージュとはオリジナルへの尊敬を込められた作品のこと!
オマージュについての記事はいかがでしたでしょうか。世の中には「こんなところに?」と言いたくなるような、ちょっとしたオマージュが隠されている作品が数多くあります。
そうした「元ネタ」を探してみたり、古今東西の作り手たちの一風変わった交流に、思いを馳せてみるのもよいかもしれません。
ポプテピピックに関する記事はこちら
三島由紀夫に関する記事はこちら