車に乗った女性のうち、10人以上の女性と関係をもったと供述しています。
殺人の被害にあった女性は大久保の嘘に気づき、矛盾点を指摘してその場を離れようとしたり、身内に警察・検察関係者がいるといったりして、逆に嘘をついた女性が彼の殺害行為の被害にあっています。
大久保清の生い立ち
大久保は1935年1月7日に現在の群馬県高崎市内で国鉄職員で機関士の父と白人とのハーフの母との間に8人兄弟の三男として生まれました。
幼少時代には両親から「ぼくちゃん」といって溺愛されていました。
太平洋戦争中は大久保の小学校時代にあたり、ロシア人クォーターであるため「アイノコ」、「アメリカ人の血が混ざっている」などといわれていじめを受けたようです。
小中学校を通じて成績は芳しくはありませんでした。
小学校6年生当時は幼女を麦畑に誘い込んで、性器に石を突っ込む強制わいせつ事件を起こしました。
そのとき被害幼女の親に対して母親は「お医者さんごっこに目くじらを立てることはない」と大久保を擁護する対応をしました。
中学校を卒業すると、農業を手伝いながら定時制高校通う生活を始めるも、高校はすぐに退学しました。
退学後、板橋の電器店に就職しましたが、近所の銭湯で女風呂を覗き解雇されています。
その後、義理の兄が大久保の後見人となり、電機学校に通学させるようになりました。
しかし学生生活を送るうちに風俗店に通うようになり、そこの従業員とトラブルを起こし、実家に戻りました。
実家に戻った後の大久保
実家に戻った後は、大久保は両親から資金援助を得て、ラジオの修理屋を始めますが、経営もうまくいかず、同業者とのもトラブルもあり閉店します。
1955年には大久保は自分の身分を大学生と偽り、前橋市内で女子高生を強姦する事件をおこしています。
この時はすぐに逮捕され、起訴後の裁判では初犯ということもあり執行猶予付きの判決となります。
それにもかかわらず、12月に再び犯罪に手を染めます。逮捕起訴され、裁判では懲役2年の判決をうけ、初犯時の刑期も合算し3年6月の服役をすることとなりました。
大久保は刑務所内では模範囚として振る舞い満期を6ヶ月残した1959年に仮釈放となりました。
仮釈放から約半年後に自宅で女子大生に対する、強姦事件をおこします。このときは両親に見つかり、未遂に終わり、示談となったことから不起訴処分となります。
1962年には自らの経歴を偽って結婚します。2年後には牛乳販売店の経営を始めます。
ところが翌年に牛乳瓶を盗もうとした少年の親族のもとに出向き2万円を恐喝し、さらに示談書を作成に関してもトラブルになり、恐喝及び恐喝未遂で逮捕されました。
この事件により、懲役1年執行猶予4年の刑をうけることになりました。この裁判を通じて自身の班歴が妻にばれ、牛乳屋も経営が不安定になっていきます。
この事件は、大久保が再び強姦に手を染めるきっかけとなり、1966~1967年にかけて2件の事件を起こし1971年まで服役することになりました。
大久保清が犯人の連続殺人事件
1971年に再び仮出獄した大久保は、最新のスポーツカーを購入しました。この資金は室内装飾品の販売を行うと言って親に融通してもらったものです。
この車がに使用され、大きな役割を果たすこととなります。
1971年3月31日に群馬県内で起こした殺人事件を最初として、逮捕される1ヶ月あまりの間に少なくとも8人を殺害しました。
いずれの手口も出所後に両親から買い与えられた車を使用して、女性を猥褻目的でナンパし、自分の嘘や経歴が明らかになると証拠隠滅のために殺害していまうというものでした。
大久保事件に対する公判と刑の執行まで
大久保は連続殺人事件に関して殺人などの罪で起訴されました。第1回公判は1971年10月に開かれました。罪状認否では「何も言うことはありません。」と答え、起訴事実を全面的に認めました。
公判では犯行動機を明らかにする事に注力されましたが、裁判官を職権乱用で告訴したり、私選弁護人を解任したりして裁判には協力的ではありませんでした。
判決公判時に弁護人を務めていた国選弁護人である町田弁護士は被害者・遺族への謝罪をさせようとすることに固執したため、大久保は最後まで反抗的な態度を取りました。
結局最後まで動機は未解明のまま結審しました。
1973年2月22日の判決公判では大久保に死刑が言い渡されています。大久保自身は地裁判決を受け入れ、死刑判決が確定しました。
同年4月にはそれまで収監されていた前橋刑務所から東京拘置所に移送されました。
拘置所で死刑執行までの間、大久保は「訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記」という手記を出版しています。
1976年に刑が執行されましたが、これは他の死刑囚に比べ死刑確定から3年弱でのスピード執行でした。
小平事件と同じ手口が使われた事件③首都圏連続不審死事件
首都圏専属不審死事件とは木嶋佳苗が起こした金銭目的の連続殺人事件です。今回、ごご紹介している他の事件の犯人は男性ですがこの事件の犯人は女性です。
犯人の木嶋は婚活サイトなどで結婚相手を探している男性などからを結婚をエサに金銭を騙しとり自殺に見せかけて殺害に及んだ事件をいいます。
小平事件、第二小平事件、大久保清事件と同様に結婚願望を逆手に取り、自分の欲望のまま金銭を騙しとって被害者を殺害しています。
存在が邪魔になれば被害者を殺害してしまうという構図では共通点を見つけられる事件といえるでしょう。
木嶋佳苗の生い立ち
木嶋佳苗は北海道で1974年に行政書士の父とピアノ講師の母を両親のもとに生まれました。子どもの頃からピアノを習っておりました。
中学時代には成績がよく、教員にも気に入られていたようです。ただ、この頃から売春を行っていたという噂があり、噂が本当だとしたら、お金のためには手段を選ばない人格垣間見えていたことになります。
また、事件の裁判では中学生の時に他人の預金を勝手に下ろすという詐欺事件を起こしていたことも明らかになっており、子供の頃からお金に対する執着が非常に強いことが伺われます。
高校を卒業すると、木嶋佳苗は上京します。一時、東洋大学に進学するも、中退してしまいます。
その後、ピアノ講師、ホームヘルパー、風俗店勤務などの職についていたようです。
木嶋佳苗の犯罪歴
中学生の時、知人の預金を勝手におろすといった詐欺事件を起こしたことをご紹介しましたが、その後も木嶋犯罪に手を染めています。
24歳の時の化粧品の万引きから始まり、毎年と言っていいほど万引きや窃盗事件を起こしています。
28歳の時はインターネットでオークション関連の詐欺をおこしており、お金に対する遵法意識の崩壊が感じられます。
自分を偽る木嶋佳苗
木嶋佳苗の特徴の一つとして嘘で虚像の自分像をつくり上げるというものがあります。
ネット上のブログでは詐欺で手に入れた金品を用いて、高級マンションに住む姿や高級車を乗り回す姿をアップしたりしていました。
更には「父は東大教授で、自らはピアノ講師、フードコーディネーターである。」とセレブな自分像を作り上げていました。