アウシュビッツ強制収容所とは?
第二次世界大戦中に当時のナチスにより作られた施設のことです。そこには大勢の人々が拘禁され、そのほとんどが虐殺されました。1979年には人類が同じ過ちを犯さないようユネスコの世界遺産となり、現在は観光地です。
本当にあった強制収容所
アウシュビッツとは当時ドイツが占領していたポーランドの南部の都市で、現地語でオシフィエンチムといいます。そこにポーランド軍兵営の建物を使って反体制派等を拘禁するために作られ、規模の大きさと残虐性で名高い歴史的遺産です。
世界最大級の犠牲者数
ここでの犠牲者数は世界でも類を見ません。はっきりとした数字は不明ですが、最近の推計では120~130万人とされていて、そのほとんどがユダヤ人で約100万人が亡くなっています。その他、ポーランド人、ロマ族(ジプシー)、ソ連軍捕虜等も犠牲になりました。
収容所は全部で3か所存在していた
ひとくちにアウシュビッツと言っても、実は3か所から成っていました。いずれも労働力を搾り取れるだけ搾取して最後に殺す意図がうかがえる施設で、被収容者の増加とともに増やされていき、最も多い時には3か所合計で14万人がいました。そのうちの2か所は現在も残っており、当時の姿を見ることができます。
アウシュビッツ第1強制収容所
1940年5月、オシフィエンチム市に作られ、後に基幹収容所として3つの収容所を管理する役割も担いました。主にソ連軍捕虜、犯罪者、ゲイ・レズビアン等が拘禁され、被収容者は多い時で約2万人いました。現在では博物館として当時の施設を見ることができます。
アウシュビッツ第2強制収容所ビルケナウ
1941年10月、第1収容所から約2.5㎞の場所に作られました。施設は300以上有り、ユダヤ人絶滅の目的を担っていたため絶滅収容所とも呼ばれています。多い時には約9万人を収容しました。
アウシュビッツ第3強制収容所モノビッツ
1942~1944年にかけて、モノビツェ村(ドイツ語でモノビッツ)に建設されました。炭鉱や大企業の製造工場とともに作られ、労働者を供給していましたが、爆撃目標とされたり、解放後にソ連軍が破壊したりしたため現在は残っていません。
アウシュビッツ強制収容所には女性も子どもも存在した
アウシュビッツは、はじめは反体制派や政治犯を拘禁していました。しかし、徐々にナチスの思想が変化し、ユダヤ人であれば老若男女、さらには妊婦や障害のある人も対象になりました。
収容されると行われる「選別」
人々は窓のない貨車に詰め込まれてやってきます。到着するとすぐにナチスは、性別や人種、健康状態等で労役ができるかどうかを選別しました。女性や子ども・お年寄りを中心に約75%を不可とし、ガスで殺しました。
収容所内での女性の暮らし
被収容者は毎日約半日の肉体労働をし、仕事ができない者や遅い者はすぐに殺されました。女性も例外ではありませんでしたが、一部は衣服の修繕や料理をしたり、また他の者が労役へ行く時と帰る時にオーケストラとして音楽を演奏したりする仕事をしていました。
アウシュビッツ強制収容所では女性は不利だった
アウシュビッツでは基本的には最初の選別の際に妊婦や乳幼児を持つ母親、老人をはじめとするほとんどの女性が殺害の対象となりました。生き残った一部の女性も、暴力や強姦の被害に遭うことが多かったといいます。
アウシュビッツの住環境
アウシュビッツは非常に過酷な環境で、その悪さから命を落とす人々も少なくありませんでした。少しの食べ物しか与えられず、冷暖房もない小屋で服1枚だけをまとって過ごしていました。
夏は暑く、冬は寒い
もともとアウシュビッツは、夏は最高40℃近くまで上がり、冬は最低マイナス20℃以下になる地域です。しかし掛け布団は薄い麻布しか支給されず、暖房設備はあっても燃料がもらえませんでした。
衛生環境が悪く、感染症が多い
アウシュビッツは衛生状態も劣悪でした。床は常に泥状なうえ、被収容者は排水ができず仕切りもないトイレを使っていました。その結果、シラミや病原性の下痢、チフス等の伝染病が蔓延していました。
医療環境も整っていない
伝染病等にかかると所内の医療施設に移され、医師や看護師の資格を持つ被収容者が治療にあたりました。ただ、設備や薬等はほとんどなく、回復が難しいと診断が下るとガス室へ送られました。
また、1日の食事が草を煮出した飲み物、具のないスープ、パンと少しのマーガリンといった程度だったため、常に食べ物の奪い合いがあり、栄養失調で犠牲になる者も多くいました。
アウシュビッツでの仕事は4つに分類される
第1強制収容所の入り口には「働けば自由になる」と記されたゲートがありますが、実際は生きて出てくる人はほとんどいませんでした。アウシュビッツでの仕事は大きく分けて4つあり、いずれも常に命を脅かされる状況に置かれていました。
懲罰部隊
これは人々を死ぬまでこき使うもので、実際短期間で死亡する人が多くいました。必要な衣服、食べ物、休息を与えられずに道路の舗装をしたり、重たい石を運んだり、穴を掘って埋めたりといった仕事をしていました。
兵器の生産・収容施設の管理
この仕事は主に電気工事士、医者、化学者、建築士等の資格を持つ人々があてられ、工場で戦争資材や兵器の製造や、収容所の増設や維持管理等を行っていました。懲罰部隊よりは肉体的な酷使は少なかったものの、栄養失調や伝染病のリスクは常に負っていました。
被収容者の屍体の処分
この仕事は「ゾンダーコマンド」と呼ばれ、ガス等で殺されたり、病気や栄養失調等で亡くなったりした屍体を焼却炉に運んで処分するのが仕事でした。比較的待遇は良かったものの、口封じのために数か月ごとに処分されました。
他の被収容者の監視
これは「カポ」と呼ばれ、ナチスに協力的な者から成り、ペースが遅い・態度の悪い者、時には理由もなく暴行や拷問を与えていました。この人々にはまともな生活環境が与えられた人もいました。
大量殺害が行われた恐ろしいガス室
アウシュビッツで最も多くの犠牲者を出したのがガス室です。到着時の選別で価値なしとされた人々はすぐにそこで殺されました。その他にも病気等で働けなくなった人や、働けても口封じとして送られた人もいました。
ガス室は7か所存在した
ガス室はクレマトリウム(火葬場)と呼ばれ、ナチス軍人は直接手をかけることなく、さらに効率的に殺せるシステムでした。第1収容所に1つ、第2収容所に6つ作られ、大量虐殺の舞台となりました。その後証拠隠滅等のために破壊されたため、現在あるのは復元したものです。
ガス室の広さとは
入口を入ると脱衣室があり、人々はシャワーだと告げられそこで衣服を全て脱ぎます。奥には約30m×7m程度の部屋があり、そこにぎゅうぎゅうに押し込められ、戸が閉められると天井の穴から毒ガスの入った缶が投げ込まれ、人々は死に至ります。
屍体からは髪の毛や貴金属等を取り外し、つながった焼却炉に入れて燃やします。しかし、焼却炉だけでは追いつかず、屍体を外に山積みにして燃やすこともあり、灰は川等に捨てられました。
使用したガスはチクロンB
チクロンBはシアン化合物等から作られる劇薬で、缶入りで開封すると酸素と反応して毒ガスを出します。元々はシラミ対策や穀物の害虫駆除等に使われていましたが、ナチスによってガス殺に利用されました。