吸い込むと血液の酸素運搬能力を停止させるほか、濃度が高くなると肺自体が機能しなくなり窒息してしまいます。5kgで最大1700人程度が約20分で死に至るという非常に「効率的な」方法でした。
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ガス室以外の殺害方法
被収容者の多くはガスによって殺されましたが、その他の方法で殺された人々も少なくありません。形式的な裁判が行われ、そこで死刑となった人等が刑罰に処されました。見せしめ等のため、むごたらしい方法が用いられました。
銃殺刑
主に死の壁と呼ばれる壁の前で行われました。囚人は壁の前に全裸で連れてこられ、銃で撃たれて殺されました。ここではポーランド人が多く処刑され、その数は数千人にのぼります。また、脱走や自殺を試みようとした人等も銃で撃たれて殺されました。
斬首刑・絞首刑
見せしめのために絞首刑や斬首刑もよく行われました。エホバの証人の信者、レジスタンス活動をした者等が斬首によって殺されています。また、終戦後には虐殺にかかわったナチスの幹部等も絞首刑に処されています。
懲罰での死亡
人々は仕事中に排泄をした、リンゴを拾った、能率が悪い等の理由で様々な懲罰を受けていました。むち打ちや過重労働、爪をはがされる等の拷問や、独居房に入れられて餓死させられたり、立ち牢という約90cm四方の穴に4人が入れられ立ったまま衰弱死させられたり等残虐極まりないものでした。
人体実験
ナチスは軍人のケガの治療や新兵器の開発のため被収容者を使った実験も行っていました。双子に対する遺伝的な実験、骨等の移植、伝染病の治験、海水の飲用等非人道的な実験が行われ、多くの人が命を落としました。
強制収容の実態とは
1933年にドイツではナチスが政権を握りヒトラーが首相となりました。するとすぐに反ナチス人々の抑圧・隔離を考えました。しかし、逮捕し投獄するには裁判手続きが必要で時間と手間がかかるので、拘禁して政治思想を変えさせるために作られたのが強制収容所のはじまりです。
最初に拘禁されたのは犯罪者達
開所当初は反ナチスの活動家や政治家等の政治犯ばかりでした。しかし徐々に常習的な犯罪者や、暴力団・売春婦・ゲイやレズビアン・アルコール中毒者等も入れられるようになりました。第2次世界大戦では欧州のほぼ全域を占領したため各地に建設され、反ナチス・反戦を掲げる人々が拘禁されました。
ヒトラーの命によりユダヤ人が続々と収容
ヒトラーは1941年に欧州全域のユダヤ人を全滅させることを決め、それ以降は人種の理由のみでユダヤ人が移送されてくるようになりました。多くは収容と同時に殺され、欧州全体で70%程度が殺されました。
拒否権は無かったのか
強制収容所行きを拒否することは結局犯罪者として刑務所に行くことになり、場合によっては死刑もあり得ました。また、ユダヤ人たちはそのような場所に行くことすら伝えられず、移住するから荷物をまとめるよう命じられて連れていかれました。アウシュビッツには人々が持ってきたトランク等の山が今も残っています。
アウシュビッツに強制収容された人々
被収容者には犯罪者や反体制派の人もいましたが、多くは罪のない人々でした。特に戦時中にはその傾向が顕著にみられます。その人の人種や障害の有無等のみの理由で殺されていったのです。
ユダヤ人
そもそもユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々のことで、ユダヤ教はキリスト教の起源となった宗教でもあります。しかしユダヤ教ではキリストを救世主としていなかったため、後に多数派となるキリスト教徒と溝ができ、迫害を受けるようになりました。
それを利用したのがヒトラーで、ナチスではアーリア人(インド~ヨーロッパ人の全ての祖先とされる民族)が最優位の人種だとし、ユダヤ人を劣等民族だとしてドイツ国外に排除、果てには絶滅させる思想に変わっていきました。ナチスによるユダヤ人虐殺をホロコーストともいいます。
身体及び精神障害のある人
ナチスにおいて障害のある人は社会的に無用であり、またアーリア人の純血を脅かすとして価値のないものとされました。それにより心身障害者はガス室に入れられたり、薬物を注射されたり、食べ物や介助を与えられなかったりして、約20万人が犠牲になりました。
同性愛者や宗教家等
ゲイやレズビアンはナチスの思想を乱し、またアーリア人の血統を残すことができないとして迫害の対象となりました。ユダヤ人と同程度に低く扱われ、収容所では過酷な労役やガスによって殺害されました。
また、エホバの証人信者を中心とする宗教家も強制収容の対象となりました。エホバの証人は聖書の教えを固く守り神にのみ従う思想で、戦争やナチスに加担することを拒み信仰を貫きました。刑務所や収容所でも労役を拒否し集会等をやめなかったため、斬首刑等の死刑となる人々が多くいました。
強制収容された人々は延べ数百万人に上る
ヨーロッパ各地に作られた強制収容所に入れられた人々は延べ数百万人にのぼります。ナチスに協力する旨の誓約書等を書いて解放された人もいましたが、ユダヤ人のようにすぐに殺された人も多くいました。
死亡者数はアウシュビッツだけで推定120万人
殺された人々の数は今でもはっきりわかりません。なぜなら、収容時の選別で価値なしとなった人々は登録もされることなく殺されたため、その人数も名前も記録されていないからです。あくまで推計ですが、アウシュビッツだけで120万人ほど、ヨーロッパ全土では600万人ほどの犠牲者がいるといわれています。
脱走することができた人もいた
警備が厳しく、電気柵もあったアウシュビッツでは脱走は不可能と言われており、実際900人余りが脱走を試み成功したのは140人ほどしかいません。成功した人はナチスの制服を盗み軍人に成りすましたり、終戦直前の混乱に乗じたりして脱走しました。
脱走が見つかると死刑
脱走計画が見つかってしまうとすぐに罰が下されました。その場で銃で撃たれたり、協力した者も食べ物を与えずに餓死させたりして、他の被収容者の見せしめとなるようなやり方で殺害されました。
ユダヤ人を助けた人々
迫害が進む一方で、ナチスによる収容や虐殺から人々を救った人もいました。宗教的思想から手を差し伸べる人もいれば、個人的な考えで行動に至る人もいました。彼らは職権や財産を使って、自らも罰される危険もはらみながら、たくさんの人々の命を救っています。
オスカー・シンドラー
彼はドイツ系の実業家で、自らの持つ工場に兵器製造部門を作り、そこでユダヤ人を働かせました。工場移転の際も不可欠な労働力であるとして1200人ほどのリストを作り、彼らを救いました。このエピソードはスピルバーグによって『シンドラーのリスト』という映画にもなっています。
樋口季一郎と杉原千畝
樋口季一郎は日本の軍人で、ハルピン特務機関長だったときに特別ビザを発給し満州国にユダヤ人を受け入れ、数千人の命を救いました。また杉原千畝は日本の外交官で、リトアニアの領事館に赴任していた際にユダヤ人に対して独断で日本を通過し他国に亡命できるビザを発行しました。それにより6000人ほどが助かったといいます。
アウシュビッツのガス室や強制収容は残酷だった
アウシュビッツの実態は筆舌に尽くしがたいほど残酷でした。しかし人類として知っておくべき重要な歴史でもあります。『アンネの日記』や『夜と霧』等関連する書籍や映画は多くありますし、福島県白河市には「アウシュビッツ平和博物館」もあるので、この機会に訪れてはいかがでしょうか。