「まぐわい」ってどんな意味?昔から使われるまぐわいの意味や由来とは

似て非なる言葉が数多く存在するまぐわいですが、古事記の中でも記されている通り、その本質は男女の存在を互いに認めあい、そして、相手を慈しむ心(内面の欠損を補う意味があると解する)が大事と捉えることができます。

そもそも、どうして人間は一人では子孫を残すことができないのかについて、神の視点から模索されたのが古事記における美斗能麻具波比(みとのまぐわい)の一説であれば、好きという感情では足らない気持ちを表現した言葉が、まぐわいなのだと考えることができます。

昔の時代の恋愛事情

まぐわいという言葉には、特別な意味があると考えていた当時の恋愛事情について触れておきたいと思います。昔の時代ならではのしきたりや、結婚観に加えて、本音と建前が入り混じる耽美な世界を記述をもとにご紹介します。

飛鳥時代には歌垣という文化があった

今から1,400年ほど昔にさかのぼる飛鳥時代(飛鳥を都としていた時期)には、歌垣という文化がありました。恋愛というよりも、宗教色をまとった儀式のようなもので、その点ではまぐわいに似ていると言えなくもないのですが、場に集まった男女が豊作を祝い、飲み食いを交わし、意中の相手と行為に及ぶという無礼講のお祭りのような慣習です。

歌垣はアジア圏では広い範囲で伝承されている

実際、この歌垣は公家、民間を問わず、神事の一つという理解に皆の納得を求めつつ、各地で慣習として受け継がれてきたようです。広くアジア圏の国々にも同様の風習があり、参加年齢に制限があったとする地域もありますが、当時は戸籍がはっきりしているわけではないので、おおらかな親睦の和に許された土着信仰とも言えます。

実際には、どこまでの行為が許されたのかは定かではありませんが、日本の例を紐解けば、歌垣の名前の通りに、自慢の歌を読んで異性の気を惹くことで、初めて親密な仲へと繋がりを持つことができたため、歌垣と呼ばれていたとする説が伝えられています。

平安時代は家柄が重視された

時代が進み、1,200年ほど昔の平安時代(平安京を都としていた時期)を迎えると、恋愛の要素に家柄が関わったという記述がつたえられるようになります。これは公家の結婚観にも繋がっており、出世と立身が身分に直結していたことを伺わせます。

しかし、それとは別に、夜這いと言われる男性が女性の寝所に夜に這い入る行為も、この頃から記述に見つけることができます。暗がりの月夜の下に男の影と言うと、無粋に思えるかもしれませんが、遠方の旅人を泊めた際に、家主の娘が種を授かるのを名誉とする考え方もあったようで、若い男の数が少ない時代の姿が見え隠れします。

結婚するまで相手の顔がわからない

本当に、結婚するまで相手の顔がわからなかったのかというと疑問に思えるところですが、今のように写真が普及する前の時代では、人相書きや、物見小僧の話で相手の顔を見知ったという記述が日本国内のみならず、ヨーロッパの文献でも見つけることができます。

また、当然のことながら、そのような意識的な情報収拾とも取れる方法を選べるのは、資金に余力のある身分の者たちであって、多くの庶民は外観よりも心情を褒め称える姿勢が根強く、日本の子女の褒め言葉の一つに、器量好し(器の量が大きくて良い)と言われるのは、外見よりも内面が重視されてきたことに起因する証なのだとか。

鎌倉時代は和歌で気持ちを伝えた

時代も進み、今から800年ほど昔の鎌倉時代(公家の政治から距離を置いた鎌倉に幕府が開かれた時期)を迎えると、武家社会と公家社会の垣根が少しづつ、距離感を詰めるようになり、複雑化しつつある身分制度の荒波の中で、知性と品格(=本人の才覚)が試される時代へと移り変わろうとしている風潮が生まれ始めます。

家柄だけでは出世できない壁ができる

どちらの公家の出であっても、分家の数が山のように裾野を広げると、次に問われるのは、本人の才覚というわけで、時代の荒波を生き残れるだけの知性と品格が、結婚観にも反映されるようになり始めます。

実際、日本は歴史の上では、この200年の後には戦国時代へと舵をとることになります。見目麗しい女子と言われる慶びもさることながら、まずは生き残ることを考えた一夫多妻の現実が見え隠れします。

歴史に見る貞操観念と恋愛の話

実は、世界における貞操観念は、かなりまちまちです。それには生活環境や教育水準、信仰する宗教観念、集団の立場や権力構造が大きく関わっています。現在の日本とは明らかに異なる貞操観念について紹介します。

性交渉をタブー視させたのは誰なのか

性交渉は大っぴらに行うものではないと考え始めたのは誰なのかと言うと、そんな人物を特定するのは極めて困難なため、どのような地域から性交渉をタブー視するようになったのかを考えてみたいと思います。まずは、諸説ある中からもっとも影響力があったと考えられるのが、キリスト教の存在です。

キリスト教における処女性は、信仰の対象となっています。処女生殖によって懐胎したという件から、神の子と呼ばれるに至り、預言者の祝福を受けたことが聖書に記されていることから、後に大航海時代を迎えての植民地競争で、性交渉が大っぴらに行われていた南半球の国々を支配する際の理由の一つになったと考えられています。

ヨーロッパ社会における貞操観念

個人の自由が謳われるようになるまで、ヨーロッパの一部地域では、身分制度に基づく初夜権が定められている地域が点在していました。初夜権とは、新郎に先立って新婦と関係を持つ権利のことです。この行為は宗教色が強く関係しています。

領民は貴族の所有物であるとの考え方から遊び半分であったとする説や、新郎を魔女から守るために司祭が先に一夜を過ごすべきとする考え方や、宗教の立場を尊重し非処女であることを隠す意味があったとまで言われており、処女と魔女という、ヨーロッパの歴史上もっとも陰惨な女性名称が頻繁に登場することになります。

現在も続く割礼の風習

割礼は、男性に対しても、女性に対しても存在しますが、特に処女性を重んじる風潮は、性病に対して有効な手立てがなかった時代からの子孫存続のための最終手段として、命を産むことができる女性に課せられた使命として表現されることがあります。

しかし、そこに宗教色が色濃く関わってしまったことで、本人が望んでいないにも関わらず、外科手術によって性器の一部を切除されることがあります。女性の場合、そのままでは性交渉に及ぶことができないように縫合し、処女性を強制的に担保する手段となってしまっている地域があります。

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