三毛別羆事件は日本史上最悪の獣害事件
人間が野生動物に襲われるパニック映画は、作り物であっても思わず目を覆ってしまうものですが、本頁で紹介するのは、104年前の1915年(大正4年)12月に北海道の三毛別・六線沢(現在の苫前町三渓)で、国内記録史上最も多くの犠牲者を出した凄惨な獣害事件です。
この事件に関する当時の資料は、生存者や関係者が語った文字のみとなります。しかし、詳細に残された証言記録など、精神的ダメージが強過ぎることでも有名な事件なので、獣害とはどういったものなのかを理解されたうえで閲覧する事をお勧めします。
三毛別羆事件の羆
事件を起こしたのは、北海道に生息するエゾヒグマという大きな体躯が特徴の熊でした。日本史上最大規模の食害事件を起こした凶悪熊とは一体どんな生き物だったのか、生態は一般的な羆でしたが、逆にその一般的な羆の性質故に事件は拡大したともいえます。
まさに‘‘ウェンカムイ”
北海道の原住民族アイヌの人々は、羆を山の神キムンカムイとして崇める一方。人を傷付け災いをもたらした羆はウェンカムイ悪神であるとされています。事件の羆の所業はまさにウェンカムイと呼ばれるものでした。
冬眠する為の穴を持てなかった羆を「穴持たず」と呼びますが、餌に乏しい冬山で冬眠に失敗した飢餓状態の羆の狂暴性は言わずもがなです。こういった状況の羆は人を襲う可能性が非常に高く、ウェンカムイを生むのです。
羆の習性
三毛別での被害が拡大したのは、羆の習性を正しく理解していなかったことが原因であるともされています。しかし正しい知識があっても、状況によっては危険を免れない相手ですので、野生動物がいかに危険であるのか理解する事が重要です。
習性①火は羆よけにならない
野生の獣は火を恐れる、というのは昔から言われています。しかし羆にとって火は獲物の存在を知らせる要因ともなり、いざ遭遇した際に松明程度を振りかざしてもさほど効果はありません。実際に被害者は松明で羆を退けようとしましたが、効果は得られませんでした。
習性⓶強い執着心
羆が獲たモノを取り返してはいけない、というのも今回の事件でよく分かる所です。一度所有物としたものへの執着が非常に強く、それを不用意に取り返してしまったことで、取り返しにやって来た羆は更なる狂暴性で被害を大きくしたのです。
習性③逃げるものを優先
被害者が二名以上いた場合に、その場を動かなかった人と慌てて逃げ出してしまった人とで被害状況に差があるのもこの習性ゆえです。熊は時速50kmで走ることが可能なので、走って逃げて注意を引いてしまえば逃げ延びる事は困難です。
習性④食べかけは埋めて保存する
食べ物に乏しい冬山ならば尚更、羆は獲物を一度に食べきらず埋めて保存食とします。事件でも見られた行動でしたが、習性②と合わせてこうした保存食を回収してはいけません。被害者が人間であれば致し方ありませんが、回収は羆への対策をきちんと行ってからです。
現代も羆問題がある
野生の羆への正しいと言われる知識も、近代の羆には効果が薄い事が問題になっています。羆の生息域と人の生活圏が近くなってしまった事が原因で、人間から得られる食べ物の味と、発する音への恐怖よりも興味関心の方が強くなっているようです。
熊の生息地が近いからといって、熊が人馴れして安全などという事は決してありません。現代でも熊による被害が絶えないところからしても、対策以前に近づかない事がいかに重要であるかがお分かりいただけると思います。
三毛別羆事件①別の場所でも獣害事件発生
北海道の開拓がはじまり、人が山に出入りする機会が増えてきたこの頃。実は三毛別の集落が襲撃される以前に、既に羆によるものと思われる獣害事件が起きていたのが以下の三件でいずれも食害が発生しています。
雨竜で女性が羆に食害される
雨竜群では先述した明治12年の石狩沼田幌新で起きた獣害事件が有名ですが、実は地元民からの証言で、三毛別事件の数日前にも雨竜で女性が羆に襲われ殺害されるという事件が起こっていました。
旭川で女性が羆に食害される
事件があった三毛別の六線沢の集落から離れた旭川でも、羆に女性が襲われ食い殺されるという事件が発生しており、その際狩猟に出たマタギは討伐に至らず、熊の行方は分からなくなってしまいます。
天塩の飯場の女性が羆に食害される
同様に、天塩川の漁場で飯場の炊婦として働いていた女性が、沢で熊に食害されたと思われる状態で死体が発見され、マタギが熊を捜索するも発見には至らず、旭川と同じく仕留める事は出来ませんでした。
三毛別羆事件②11月の三毛別に現れた羆
事件の羆はなにも突然に人間を襲撃してきたわけではありません。当時まだ山に人が入り土地を開拓している最中でもあったため、人家の周囲に野生動物が現れるのは日常茶飯事であり、獣除けに火を焚くなどして対処していた程度でした。
三毛別とは
現在の三毛別は、近くを流れる三毛別川とマルシメ沢川に挟まれた場所に位置し、北海道の苫前郡苫前町字三渓となっています。現場となった六線沢は、最寄りの苫前町まで30km程離れており、成人男性でも積雪の季節は町へ行くのに半日以上はかかる場所にありました。
池田家に羆が現れた
初襲来は、池田家のトウモロコシが荒らされた事から始まります。集落からすればいつもの事でしたが、この時発見した熊の足跡があまりに大きかった為、猟師二人を雇い迎え撃ったものの、掠り傷を与えた程度で獲り逃してしまいます。
三毛別羆事件③12月9日惨劇の始まり
巨熊を獲り逃すという一抹の不安を残したまま、季節は本格的な冬へ変わります。11月の段階で手負いとなっていた羆が再び集落へとやってきますが、本来ならば既に羆は冬眠に入っているはずの季節での再来です。
太田家にて最初の事件が発生
朝早くから家主の太田三郎と太田家の寄宿者で伐採を担う長松要吉の二人が、出荷用の氷橋の桁材を切り出しに出ており。屋内は穀物の選別作業に従事していた三郎の内縁の妻、阿部マユと預かっていた小児の蓮見幹雄の二人だけでした。
囲炉裏の端座っていた6歳の蓮見幹雄くんは…
先に帰宅した要吉は、囲炉裏の傍で座ったまま絶命している幹雄くんを発見します。幹雄君の喉元は鋭利な刃物で裂かれたかのように着物も血まみれになっており、側頭部は親指大に穿たれ白い脳みそが露出している状態でした。
阿部マユさんの行方
明らかな異常事態に気付いた要吉でしたが、屋内で作業していたはずのマユさんの姿が見当たらず、要吉が名前を呼ぶも返事はありません。ただ、薄暗い居間の奥から獣臭と異様な匂いがするだけでした。
現場の状況
出入口向かい側の窓が叩き壊されており、室内には薪の他に柄の折れた血濡れのまさかりが落ちていました。他には熊の足跡と部屋の隅におびただしい血だまり、そこから引きずられた様な跡が窓まで続き、壊された窓枠にはマユさんのものと思われる頭髪が絡みついていました。
事件を受けての行動
役場と警察へ報告と応援要請の為、斎藤石五郎が使者に志願して片道30km離れた苫前町へ向かいます。斎藤さんの妻子は安全の為明景家へと避難することになり、残った男衆30人で行方不明のマユさんの捜索隊を編成する流れとなりました。
三毛別羆事件④12月10日前編捜索の果てに
隣村の村長を含む30名で組まれた捜索隊は雪深い山中で、阿部マユさんの捜索にあたっていました。幸いな事に、なんと銃器を持つ村民が5名もおり、そうでない人々はクワやカマを武器として持参して捜索に臨みました。
捜索隊が羆と遭遇
太田家から延々と続く雪上の血のと足跡を追って150mほど進んだところでしょうか、そこで捜索隊の男たちは遂に羆と遭遇する事になります。その体長2.7m、立ち上がれば3.5mはあった事件後判明した体重380kgの巨熊の姿に村民たちは戦慄しました。
動揺もそのままに手にした銃を構えるも、響いた銃声はなんとたったの一発だけでした。しかもその一発ですらも羆に当たることはなく、万策尽きたと混乱した捜索隊は散り散りに逃げ帰ることになったのでした。
見つかった阿部マユさんは…
翌朝に恐々と捜索に出た一行は、木の根元で血に染まった雪と小枝の山を発見します。雪をかき分けると、黒の足袋とぶどう色の脚絆を履いた膝下と、頭髪の付いた頭蓋の一部のみになったマユさんの遺体が埋められていたのです。
通夜を襲撃する羆
山から太田家に持ち帰られた、膝下だけになったマユさんの亡骸は幹雄くんと一緒に通夜があげられました。しかしそこへも熊が襲撃、叩き落された棺から死体が放り出され、途方もなく巨大な熊に人々は驚愕し、家の梁によじ登る者やら野菜入れに飛び込む者、便所に逃げ込む者と必死のあり様でした。
三毛別羆事件⑤12月10日後編羆は手薄の明景家へ
太田家から300m離れた隣家で食事中の男衆が、物音や悲鳴に気付き駆けつけるも既に羆の姿はありませんでした。熊の再襲撃に驚愕した面々は、壁を破壊された家屋は危険と判断し、次なる避難場所にした明景家へ向かいます。
羆の襲撃で家は暗闇に包まれた
通夜を襲った熊はその足で、避難してきた斎藤家の妻子を含む女子供10名のいる明景家へと向かいます。この時護衛役の男衆が留守にしており、屋内にいた頼れる大人の男は要吉ただ一人でした。幼い梅吉を背負ったタケが煮炊き物をしているその時、窓を割る轟音と共に羆は襲来します。以下が当時の人数内訳けです。
- 明景家の妻ヤヨ・力蔵・勇次郎・ヒサノ・金蔵・梅吉の6名
- 斎藤家妻タケ・巌・春義の3名
- 護衛役:要吉
羆を追い払うもそこには地獄の光景が…
熊が去った後の屋内は目も当てられない地獄の惨状でした。一撃で撲殺されてしまった金蔵と春義は体を食い千切られ分断し、頭部の一部も噛み千切られていました。斎藤家の妻タケは、妊娠中のお腹を裂いて胎児を掻き出されたうえで、内臓を食われ絶命。血飛沫は天井まで届いていました。
室内に入った従軍経験者の男性が、敷き藁の下に隠されていた巌を発見しますが、肩と胸を齧られ左大腿部から臀部を骨だけになるほど食べらるという瀕死の状態で発見されます。保護され介抱されますが、程なく死亡しています。
生き残った者
ヤヨと共に脱出した勇次郎と熊突入のショックで気を失っていたヒサノ、さらに雑穀俵に隠れていた力蔵の3名はなんと無傷で保護されています。ヤヨの背に担がれていた梅吉は頭部に羆の牙を受けており、傷の後遺症により2年8ヶ月後に亡くなっています。
三毛別羆事件⑥12月11日斎藤さんの慟哭
太田家での初襲撃の後、家族を避難させた斎藤さんは一人集落を離れました。明景家での惨劇を知る由もないまま、平時でも片道半日以上かかる30km離れた苫前町の警察への道を、積雪をかき分け一人徒歩で歩き続けていました。
羆退治を行政などに要請する決議
もはや村民だけで事態の解決は不可能であることから、当時の三毛別区の区長を務める大川与三吉をはじめ、村長と村の有志者、分教場の教師と卸料局の分担区員や駐在巡査らで話し合いが行われ、警察や行政機関に羆退治に応援要請が決議されました。
警察に事件を報告して戻ってきた斎藤さんは悲劇を知る
苫前町の役場と警察で太田家で起きた事件の報告を済ませた斎藤さんは、翌12月11日に帰路につきます。往復60kmの旅路から三毛別川へたどり着いた斎藤さんは、そこでようやく妻子が羆によって殺害された事実を知ります。彼は呆然と雪上に倒れ伏し、ただただ慟哭するほかありませんでした。
三毛別羆事件⑦12月12日討伐が始まる
小さな集落を襲った羆の一報は北海道庁にまで入り、北海道庁警察部の保安課から、羽幌分署長の菅貢警部へと討伐隊を組織し直ちに羆討伐に向かうべく指示が出されることになります。この討伐隊の本部は大川興三吉の家に設置されることとなります。
討伐隊の組織と検死に訪れた医師が見つけた糞
遺体を検死する為に討伐隊より先に集落へ向かっていた医師は、道中で羆のものと思われる糞を発見します。糞を検分したところ、なんと中から毛髪、人骨の欠片、そして未消化状態の人肉を見つけ、羆が人間を食っていた動かぬ証拠に戦慄したのです。
非道な待ち伏せ作戦を受け入れる村人
如何にして熊を討伐するか考えた末、その習性を利用したある作戦が持ち上がります。「犠牲者の死肉を餌にして熊を誘い出す」という、非人道的な計画である事を重々承知の上で、菅隊長は遺族と村民の前で作戦内容を説明しました。
批難と罵声を覚悟の上でしたが、異議の声は上がることはなかったのです。それほどまでに事態は切迫しており、作戦は採用され直ちに実行に移されます。しかし何かを察したのか、羆は付近まで現れるものの罠にはかからず作戦は失敗に終わってしまいます。
三毛別羆事件⑧12月13日エサを探す羆
12月11日の段階で、三毛別・六線沢全15戸すべての村民が三毛別分教場(後の三渓小学校)に避難しており、集落は無人となっていました。人の気配がなくなった集落にも羆は出没しており、その執念深さに恐怖するばかりです。
村人不在の村を荒らす羆
不在の集落でも人家を荒らし、飼育していた家畜を食い殺し、保存食までも食い荒らしています。食べ物以外にも女性の衣類や枕どころか、湯たんぽ代わりに足元に入れて使う石までも齧るという奇妙な行動が見られました。女性を食べた事で、その捕まえ易さと肉の美味さを覚えてしまったが故の行動でした。
味を占めた手頃な餌が突然消えたことで、焦りと空腹から羆の行動は警戒心を欠いた大胆なものになっていきます。行動範囲は徐々に下流へと移り、昼間でも堂々と人家を荒らしに現れるようになっていきます。
氷橋防衛線の対岸に不審な切り株らしきもの
熊の行動が大胆になっている今が勝機とみた菅隊長は、氷橋を防衛線にしてここで羆を討ち取るものとします。そこへ、警備にあたっていた一人が対岸の違和感に気付き、菅隊長に一報が入りました。「6株の筈の切り株が一つ多い、そして動いているようである」と。
一報を受けた菅隊長は「人か熊か!」と対岸に張り上げるも返答はなく、隊長命令で撃ち手が一斉に銃弾を放つと、切り株と思われたそれは対岸の闇へと姿を消しました。事件を起こした羆で間違いないと確信すると共に、菅隊長は羆討伐実現への手応えを感じます。
三毛別羆事件⑨12月14日前編サバサキの兄と呼ばれた男
羆討伐に大勢が駆り出され緊張と興奮で沸き立つ中、2月10日の深夜に事件を聞きつけたとある人物が三毛別を訪れます。彼の登場でこの未曽有の事態は一気に急変する事になるのです。男は山本兵吉という猟師でした。
熊撃ちの山本兵吉
青年期に鯖裂き包丁一本で羆を刺し殺した事で「宗谷のサバサキの兄ぃ」と呼ばれ、「天塩国にこの人あり」とまで謳われた腕利きの猟師でした。日露戦争に従軍した際の戦利品であるロシア式ライフルと軍帽姿がトレードマークで、仕留めた獲物の数も名高い人物です。
深酒してはたびたび喧嘩騒ぎを起こす酒癖の悪さも評判の兵吉でしたが、彼が付近に滞在していると知った三毛別の村長は、この最悪の事態を打開するべく、いち早く兵吉に熊の討伐を依頼していたのでした。
討伐隊とは別行動
三毛別に現れた兵吉は、当初無人の人家に出入りする羆の様子を協力して窺うなど、討伐隊と共に熊狩りを行うかと思われていました。しかし14日に討伐隊による大規模な山狩りが行われると知り、大勢で麓を登る討伐隊とは別経路から一人入山を開始します。
三毛別羆事件⑩12月14日後編悪魔の最期に吹いた風
頂上に辿り着いた熊は、ミズナラの木に体を預けつつも、その意識は麓をぞろぞろと登ってくる討伐隊へと向けられていました。そんな羆を200m手前の山頂に捉えた兵吉は、気配を殺しその距離を詰めていきます。
山本兵吉と羆の一騎打ち
討伐隊に気を取られ、その接近に気付かない羆と兵吉の距離はたったの20mという至近距離。兵吉は一旦ハルニレの樹にその身を隠し静かに狙い撃ちます。一発目の弾丸は見事に羆の心臓付近を貫き、羆は兵吉に気付いて立ち上がり睨み付けます。
至近距離からの狙撃にも関わらず、冷静に次弾を装填すると、自身に向かって真っすぐ突進する羆の眉間に二発目を撃ち込みました。響いた銃声に駆け付けた討伐隊が目にしたのは、集落を恐怖に陥れた羆の討ち取られた姿でした。
熊風が吹いた
山頂に駆け付けた隊員たちは絶命した巨大な熊を前にして、それまでの怒りや恨みを爆発させその死体を殴るけるなどしますが、次第に誰からともなく万歳を高らかに叫びだし、冬山に大勢の万歳が響き渡りました。
地元では古くから熊を殺すと空が荒れる熊風の言い伝えがあり、羆が橇で運ばれている最中にそれは起こりました。晴天だった空が陰り雪が降り始めたかと思うと、たちまち猛吹雪となり、あわや遭難かという事態で5kmの下り道に1時間半もかかったそうです。
恐ろしい真実
見事に撃ち殺された巨大熊を見た、雨竜群のアイヌの夫婦と旭川で食害した羆を知るマタギらが「肉色の脚絆と赤い肌着の切れ端が羆の腹から出るはずだ」というので胃を開いてみると、それぞれ羆に食害された女性の遺品が出てきたのです。三毛別の阿部マユのぶどう色の脚絆と結った頭髪もありました。
なんとこの熊は、三毛別と六線沢の集落に来る前から雨竜と旭川だけに飽き足らず、天塩でもう一人、飯場の女も食害していました。三毛別以外でも食害に遭った犠牲者があった事に、集まった一同皆悲しみに暮れるのでした。
三毛別羆事件のその後
羆が倒され一応事件は解決しましたが、残された家族の悲しみは言わずもがなです。そして不自由な環境ゆえに、事件現場となった家屋に住み続けなければならないという、精神的苦痛と恐怖は相当なものです。太田三郎さんや斎藤石五郎さんもその被害者です。
離れた土地に頼れる親族がある人は、すぐさま土地を離れてしまったのも頷けます。太田さんも失意のまま立ち直れず、程なく三毛別地を離れ何度か転居しています。日を追うごとに村民は土地を去って行き、現在の三毛別、六線沢は共に住人はおらず復元跡地があるのみとなっています。