三毛別羆事件|ホラー映画を超える日本史上最悪の恐怖の実話【閲覧注意!】

深酒してはたびたび喧嘩騒ぎを起こす酒癖の悪さも評判の兵吉でしたが、彼が付近に滞在していると知った三毛別の村長は、この最悪の事態を打開するべく、いち早く兵吉に熊の討伐依頼していたのでした

討伐隊とは別行動

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三毛別に現れた兵吉は、当初無人の人家に出入りする羆の様子を協力して窺うなど、討伐隊と共に熊狩りを行うかと思われていました。しかし14日に討伐隊による大規模な山狩りが行われると知り、大勢で麓を登る討伐隊とは別経路から一人入山を開始します。

三毛別羆事件⑩12月14日後編悪魔の最期に吹いた風

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頂上に辿り着いた熊は、ミズナラの木に体を預けつつも、その意識は麓をぞろぞろと登ってくる討伐隊へと向けられていました。そんな羆を200m手前の山頂に捉えた兵吉は、気配を殺しその距離を詰めていきます。

山本兵吉と羆の一騎打ち

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討伐隊に気を取られ、その接近に気付かない羆と兵吉の距離はたったの20mという至近距離。兵吉は一旦ハルニレの樹にその身を隠し静かに狙い撃ちます。一発目の弾丸は見事に羆の心臓付近を貫き、羆は兵吉に気付いて立ち上がり睨み付けます。 

至近距離からの狙撃にも関わらず、冷静に次弾を装填すると、自身に向かって真っすぐ突進する羆の眉間に二発目を撃ち込みました。響いた銃声に駆け付けた討伐隊が目にしたのは、集落を恐怖に陥れた羆の討ち取られた姿でした。

熊風が吹いた

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山頂に駆け付けた隊員たちは絶命した巨大な熊を前にして、それまでの怒りや恨みを爆発させその死体を殴るけるなどしますが、次第に誰からともなく万歳を高らかに叫びだし、冬山に大勢の万歳が響き渡りました。

地元では古くから熊を殺すと空が荒れる熊風の言い伝えがあり、羆が橇で運ばれている最中にそれは起こりました。晴天だった空が陰り雪が降り始めたかと思うと、たちまち猛吹雪となり、あわや遭難かという事態で5kmの下り道に1時間半もかかったそうです。

恐ろしい真実

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見事に撃ち殺された巨大熊を見た、雨竜群アイヌの夫婦と旭川で食害した羆を知るマタギらが「肉色の脚絆と赤い肌着の切れ端が羆の腹から出るはずだ」というので胃を開いてみると、それぞれ羆に食害された女性の遺品が出てきたのです。三毛別の阿部マユのぶどう色の脚絆と結った頭髪もありました。 

なんとこの熊は、三毛別と六線沢の集落に来る前から雨竜と旭川だけに飽き足らず天塩でもう一人、飯場の女も食害していました三毛別以外でも食害に遭った犠牲者があった事に、集まった一同皆悲しみに暮れるのでした。

三毛別羆事件のその後

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羆が倒され一応事件は解決しましたが、残された家族の悲しみは言わずもがなです。そして不自由な環境ゆえに、事件現場となった家屋に住み続けなければならないという、精神的苦痛と恐怖は相当なものです。太田三郎さんや斎藤石五郎さんもその被害者です。 

離れた土地に頼れる親族がある人は、すぐさま土地を離れてしまったのも頷けます。太田さんも失意のまま立ち直れず、程なく三毛別地を離れ何度か転居しています日を追うごとに村民は土地を去って行き、現在の三毛別、六線沢は共に住人はおらず復元跡地があるのみとなっています。

生き残った被害者も…

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明景家の妻ヤヨは頭部の傷が順調に回復したものの、ヤヨに背負われたまま背後から牙を受けた梅吉は傷の後遺症がもとで事件から2年8か月後に短い生涯を終えます。無傷で生還した勇次郎は後にアジア太平洋戦争に従軍し戦死しています。要吉は、翌春には回復し仕事に復帰しますが、怪我の後遺症かは不明ですが川に落ちて亡くなってしまいます。

山本兵吉のその後

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羆を撃った兵吉は、事件後三毛別に居を移し滞在していたといいます。事件当時57歳であった兵吉はその後も熊撃ちを続け、のちに彼の孫からの証言で、92歳で亡くなった兵吉が生前に狩猟した熊の数は300頭を超えていたのだそうです

区長の息子は後の名熊撃ちに

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当時熊の対策本部が置かれた大川区長宅息子春義、生き残った人々から事のあらましと犠牲者の話を聞き、父に背中を押された事もあり自身も熊撃ちを志しました。熊撃ちの師として、三毛別に滞在していた兵吉に師事され狩猟の知識や技術を学びました。

熊撃ちになる上で、春義は犠牲者7名の慰霊碑の前で「犠牲者一人につき10頭、計70頭羆を撃つ」と、誓いを立てました。その誓いは彼の人生をかけて羆を追い続けるという、長い長い目標となりました。

生涯で102頭の羆を狩猟

弔いと仇討の為に70頭の羆を狩るという目標を立てた春義でしたが、目標達成後も羆による被害が絶えない事と周囲からの要請もあり、当時すでに60歳を迎えていましたが、新たな目標に100頭狩猟を掲げこれも見事達成されています。

親子二代で追った北海太郎

春義の息子である大川高義もまた、父の意志を継ぎ熊撃ちとなります。父春義が追った「北海太郎」と呼ばれた巨大羆を高義が引き継ぐ形で追跡を続け、その実8年もの歳月をかけて高義は北海太郎を討ち取ります。体長2.43m、体重500kgの巨体は日本史上最大とされています。

事件を起こした羆の行方と剥製の有無

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古い習わしでは、人を食い殺した羆を狩猟した場合バラバラにして腐り果てるまで放置する、とされています。本来ならこの羆も死体は解体して野ざらしにされるところでしたが、その所業があまりに残忍であったのと、犠牲者の弔いが必要として麓へ持ち帰られました。

羆の死体をどうしたか

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犠牲者供養のために肉は煮て食べられましたが、筋張って美味いものではなかったと言われています。その他の肝などの内臓は当時漢方薬としての金銭的価値が高かったので、50円で売却され(1915年当時の価値で小学校教諭の初任給相当)全額被害者の方たちへ贈られています。

頭骨と毛皮は残されたが行方不明に

残った頭骨と毛皮については、事件後も保存して残されているという話はありますが、実際誰がどこでどのようにといった部分も不明です。頭骨・毛皮共に現在でもその行方を知る人はいないとされています。

苫前町郷土資料館・考古資料館にある剥製

資料館に展示されている巨大な熊の剥製が、北海太郎が三毛別で事件を起こした羆として紹介されることがあります。しかし実際の展示物に詳細が記述されており、北海太郎と渓谷の次郎は大川春義の息子である二代目猟師、大川高義によって撃たれた羆なのです。 

三毛別の事件を起こした羆ではありませんが、日本で狩猟された個体の中で最も巨大である事実には変わりはなく、北海太郎は幻の大熊と呼ばれる有名な個体の剥製です。幻と言われるだけあって、その巨体の剥製は訪れた人をゾクリとさせる迫力です。

どうして被害を防げなかったのか

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未曽有の被害者を出した三毛別の羆事件ですが、何故ここまで肥大が拡大してしまったのでしょうか。当時の集落と開拓民の状況と合わせて、事件が拡大してしまった背景をご紹介していきたいと思います。

銃の不発が相次いだ理由

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太田家襲撃事件の直後、5丁の銃が用意されるも4丁は不発に終わるという結果になってしまいました。理由は、開拓農民として開墾するためにやって来た彼らは、あくまで農民であり猟師ではないので、銃を扱う技術や手入れをする知識を持ち合わせていなかったのです。

そして、この時まで冬眠に失敗して狂暴化した、極めて危険な羆に遭遇する経験もありませんでした。羆は出没しても被害はないから大丈夫と安易に考えてしまったことも、銃が手入れされることなく放置された原因でした。

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