おじろくおじろくばさとは?昭和まで続いた長野県での嘘のような悲しい奴隷制度

社畜

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社畜といわれるほど、魂までは売り渡していないのかもしれません。でも、知らないだけでそのような厳しい環境で働いている方々もいます。最近では、大手コンビニチェーンのオーナーが本部の意向で過酷な労働環境に置かれていることが問題になっています。

会社のため、家族のためという意識の中に自分のためという思いがあれば社畜ではないのですが、あまりにも厳しい労働環境に置かれてたら、自分のためという思いは消えてしまいます。マインドコントロールされた機械のようです。

引きこもり

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引きこもりとは違います。少なくとも、仕事をしているのです。近所の人に挨拶をしないのは、自分自身を一人前だと思っていないのです。前に出てはいけない。自分のような厄介者が家にいることが、外に知られたくないのです。あくまでも厄介になっていると思いこんでしまっているのです。労働に対する対価など考えられない時代でした。

姪や甥は、おじろくおばさをないがしろにはしていません。ときに遊び相手だったり身内のおじさん、おばさんなのです。やはり成人を過ぎた長男だけは、彼らを厄介者扱いします。引きこもりと違うのは、彼らは逃避はしていない。自己防衛しながら、したたかに生きています。

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日本の隠したい身分制度

最近では学校で士・農・工・商・エタ・非人という身分制度は教えてないのですが、そういった身分制度はなかったと訂正しました。身分ではなく職業の区分であるとされています。2000年頃から間違いだったと記載がなくなりました。

実は更に酷い格差があった

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身分制度は、武士、平民、賎民に分かれていましたが、学校では身分制度はないと教えられます。黒歴史ってことですね。身分制度とは絶望的に這い上がれない格差です。江戸時代には湯屋がありましたが、入れるのは平民までです。えた、非人は同じ湯には入れません。身分制度を撤廃したときには百姓が一揆を起こしました。

同じ立場が我慢できなかったのです。賎民の起源は古く、元は賎業を課せられた奴隷です。賎民制が廃されて、それに係るエタ、非人、猿飼、ささら、おんぼう、鉢開きなどを四民平等としました。非人とエタとの間には上下関係はなく、同等の扱いです。これが身分でなく職業区分とするなら、職業の差別はあるわけで、官僚思想そのままな日本です。

身分違いは大変なことだった

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江戸時代の日本を考えたとき、職業は世襲であり、選択の自由などありませんでした。生まれ落ちた所でそれより上は望めないのです。近世の戸籍制度が確立する中でえた、非人は百姓町人と台帳を分けられました。身分制度の底辺として確立し、賤民が作られました。賤民は盗賊同類とされ、明暦二年には賤民の隔離監視されるべきだと唱えられました。

またエタと非人の間に支配関係が生まれました。その立場を利用して、賢く生き抜いた集団もありました。和泉国の泉郡南王子村では、雪駄製造のみが許されてまいしたが、皮の値下げ交渉を集団で行ったり販路の拡大に尽力し、財力を身にゆきました。すると近隣の百姓や町民が自らこの村に入り賤民になる者が現れました。

昭和の劇場型犯罪!もまた、社会の在り方を問うています。

戸籍を持たないサンカ

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この国には戸籍すらないサンカと呼ばれる人たちがいました。定住することなく、山から山に移動して、寺の軒先や洞穴などに寝泊まりしていました。明治時代にはその数20万人とも言われ、地方によって呼び方もちがいます。犯罪組織やアウトローの噂もありました。

サンカの生活

地域によって、川漁をしたり、竹細工や蓑をつくり農村で売っていた。また地方によってはささらや箒を売ったりして現金収入も得ていたようです。昭和30年代に入り明治時代の人別から漏れた者も漏れなく国家に吸収されたことになっています。サンカのことはまだはっきりとはわかっていません。

今の日本にはすでに存在していません。サンカについて書かれた本が後に偽物だとされたり、聞き取りだけで検証されないまま世に出たのです。サンカこそが日本に残された最大のミステリーかも知れません。最近ではまた秘密結社説なども論じられていますが、いまのところはミステリー、オカルトの域を出ていないのです。

 おじろくおばさは人道的に残してはならない制度

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時代のせいにはできないですよ。ギリシャ時代でも報酬は支払われていました。農耕民俗は食料を自分の手で作りますから、自分のためですね。労働はしているのですが、お金にならない労働なので、養ってもらっていると思いこまされています。

働かざるもの食うべからず。無駄飯食い。そんな立場に置かれている者にぶつける乱暴な言葉に対する防衛手段は耳を貸さないことです。唯一できる自己防衛が心を閉ざし語らないことだったのです。村社会は得てしてその残忍さに気がつかない。

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食べられなくなるのは明日は我が身ですから「あの厄介者さえいなければ」日常的に乱暴な言葉をぶつけます。日本社会はおば捨てなど、酷い因習もありました。今も格差は広がっています。繰り返さないことです。

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