吉展ちゃん事件の全貌|警察がミス?死刑囚・小原保の生い立ちや自白の記録

吉展ちゃん事件に「昭和の名刑事」平塚八兵衛を投入

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犯人の特定も、人質の救出もかなわないまま、事件は発生から2年の月日が流れます。1965年5月、暗礁に乗り上げた状況を打開するため、警視庁は担当チームを一新します。抜擢された人間の中には、名刑事として名高い平塚八兵衛の名前がありました。

「昭和の名刑事」「警視庁の至宝」と呼ばれた平塚

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1913年生まれの平塚八兵衛は、39年に警察官となります。当初は交番勤務でしたが、警視庁管轄内一の検挙率だった腕を買われて、その後捜査一課に配属となります。

以来32年間、巡査から警視までを無試験で昇進。「落としの八兵衛」「鬼の八兵衛」などとも呼ばれ、帝銀事件や3億円事件など数々の難事件を担当。当時、在職中に警察功績賞と警察功労賞の両方を受賞したのは彼だけだったと言われています。

「シミモチを食った」小原保のアリバイは崩れた

平塚を筆頭とする新しいチームは、録音された音声から小原が犯人であると確信します。新たな分析の結果、声の主は30歳ぐらいの年齢と判明し、また、彼の足は障害がありながら俊敏に動くこともわかりました。残る問題は彼のアリバイです。平塚は、自ら福島へ出向き、問題の日に彼を見たという人間をあたって、真偽を確かめました。

その結果、3月29日の朝の目撃情報は確かでしたが、4月1日の目撃は誤りで、本当は3月28日に見たというものだったとわかります。さらに、小原は「29日の夜に実家の蔵の鍵を壊して忍び込み、中にあったシミモチを食った」と証言していましたが、実際には蔵の鍵は壊されておらず、その年はシミモチを作っていなかったということでした。

強制捜査を申し出、小原保の3度目の取り調べ

6月23日、平塚らによる聴取が行われます。この3度目の取り調べは人権団体からの抗議の影響もあり、あくまで任意の聴取であり、期間も10日間に限るという制約付きのものでした。しかし、平塚の追及に対し、彼は黙秘を貫きます。有力な手がかりを得られないまま、期限の日が近づいてきます。

小原保が墓穴を掘った「西日暮里の大火」

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タイムリミットの日である7月3日、平塚は小原と何気ない世間話をします。これは最終手段であるFBIでの鑑定のために、声紋を採集する目的で行われたものでした。この時、小原は「西日暮里の大火を電車から見た」と話します。平塚はこの話を聞き逃しませんでした。

この大火は西日暮里のゴム工場が燃えた火事のことで、事件が起きた年の4月2日に起こっています。これは村越家に最初の電話がかかってきた日です。この日に大火を見たというなら、4月3日まで福島にいたという彼の証言と食い違います。

ついに小原保を落とした!おふくろの話し

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最早、彼が犯人であることは疑いようがないと思った平塚らは、彼に泣き落としをかけます。平塚は福島に行った時に、小原の母親に出会った話しを始めました。「俺の前で、おふくろさんどうしたと思う?こうしたんだ」といって、平塚は土下座して見せました。

「私の息子は決して人を傷つけるような悪い人間ではありません。でも、もし悪いことをしているとしたら、本当のことをしゃべって、真人間になるよう言ってやってください」母親がそのように言っていたと聞かされてた小原は、ほどなくして犯行を認めました。

小原保の自白により、吉展ちゃんの遺体を発見

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小原の自供により、吉展ちゃんは、攫われた直後に殺害されてたことがわかりました。攫った子どもに足の障害を知られた彼は、この子を返せば自分が犯人であると簡単にわかってしまうと考えます。人質を連れながら思案しているうちに、荒川区南千住の円通寺付近にやってきました。

2人はここで寺の住職とすれ違いました。住職は2人のことを覚えてはいませんでしたが、小原は自分の姿を見られたと思い焦ります。そこで、寺の裏の墓所で子どもを絞殺し、適当な墓の石室に骸を隠したのです。この自供通り、墓石の下から遺体が見つかりました。

吉展ちゃんの検死は元監察医・上野正彦が担当

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遺体が見つかったのは、65年の7月です。事件が起こってから2年もの月日が経ってしまっています。あまりに変わり果てた姿であったため、両親ですらこれが吉展ちゃんのものであるかわかりません。検死を担当し、小原の自供を裏付けたのは、元監察医の上野正彦氏です。

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