お菊人形の「かわいい」ポイント
お菊人形ってどんな見た目か、ご存知でしょうか?怖いイメージが先行してはいませんか?ネット上で出回っている画像も、なんだか怖い雰囲気が漂ってますよね。だけど、そんなに怖い存在じゃないんですよ。まずは、「お菊」と名付けられたこのお人形の印象を、プラスに変えることから始めます。
幼い子どもを思わせるあどけなさ
「市松人形」は、幼い子どものような顔立ちで、あどけなさが垣間見えます。「お菊」も例外ではなく、ほっぺは幼児特有の丸みを帯び、黒目がちで、美しく澄んだ目をしています。長い歳月を経た人形なので、多少の傷みは出ますが、愛らしい佇まいは健在です。
着物が似合う黒髪
市松人形は色白で、「日本人らしい」顔つきなので、とても黒髪が似合います。また、黒髪は着物とも相性が良いことで知られますよね。本来、市松人形は「着せ替え人形」なので、着物を何着か合わせてみたり、季節によって着物を替える楽しみ方もできます。余談ですが、「お菊」の着物も、ときどき着せ替えられています。
成長している?
「お菊」の顔は、昔の写真と比較すると「変化している」そうです。具体的には、「大人っぽくなった」といいます。長い月日が経っていますし、あらゆる理由で人形の顔に変化が出てくることもあるでしょう。あるいは本当に、「お菊」自身に宿った魂が成長し続けているのかもしれません。
「市松人形」とは?
「お菊人形」とは、「お菊」という名前の「市松人形」を指します。ここでは、「市松人形」の存在にも興味を持ってもらうために、少しだけ市松人形の歴史に触れていきます。ぜひ知ってください。
着せ替え人形の一種
市松人形の発祥は室町時代の「抱き人形」からです。「裸市松」という形で売られており、着物は自分で作るのが一般的でした。「裁縫人形」としての側面が強く、子どもが人形の着物を縫うことで、裁縫の練習台として各家庭に存在していました。
体長は20㎝から80㎝と豊富です。40㎝が一般的なサイズで、「お菊」もまた40㎝です。頭は木製で、胴体はおがくずの詰まった布でできています。「お菊」はお腹を押すと鳴く仕組みです。鳴くタイプの人形は昭和に入って出てきたようで…お菊人形の話はどこまで本当なのか、真偽のほどは定かでありません。
「市松」の由来は?
「市松」の由来については、3つの説があります。最も有力な説は、人形の顔が江戸中期に人気を博した歌舞伎役者「佐野川市松」に似ていたからというものです。「市松」の名に便乗したかたちです。
二つ目は、単純に、その当時「市松」という名の子が多かったため付けられた、との説です。三つ目は、販売の際に「市松模様」の服を着ていたから「市松」…という説ですが、ほとんどは裸の状態で売られる状況を考慮すると、その説は薄いといえます。
「お菊人形」の現在
一時期すごく話題になった「お菊人形」、今はどこに居るんでしょうか?今ではまったく話題に出なくなってしまったのですから、気になりますよね。現在のお菊人形の居場所や、今の姿をお伝えします。
北海道岩見沢市の「萬念寺」に居る
お菊人形の噂が出始めた当初から言われる、北海道岩見沢市栗沢町の「萬念寺」にいまも居ます。お寺の戸の左側には「お菊人形安置場」と大きく書かれた木の看板が立っています。年に一度、3月にお菊人形の「整髪会」が執り行われるそうです。
見学はできるが写真撮影はNG
お寺の住職やスタッフに声を掛ければ、お菊人形に直接会うことができます。撮影は動画でも静止画でもNGです。お菊人形に宿る魂が撮影を嫌がり、とくに写真だと不機嫌そうな顔や恐ろしい表情を浮かべてしまうためだそうです。実物に会ってみると、「意外と怖くなかった」との声が多いようです。
「お菊人形」を知る人が今でも訪れる
当時のオカルトブームで、「髪の伸びるお菊人形」を知った子どもたちが大人になり、実際に会いに来るというケースも多いのです。また、単純に現在のお菊人形の姿を拝もうと、何度も訪れる方も少なくないそうです。
「お菊人形」が有名になった経緯
なぜ「お菊人形」は、世に知れ渡ることになったんでしょうか?お菊人形がオカルト好きの間で知られるきっかけとなった記事を紹介し、変化していった「お菊人形の伝説」を比較しながら、お話していきます。
「髪が伸びる人形」として雑誌で知られる
初の登場は、1962年8月6日号の『週刊女性自身』です。同誌上では、1958年に鈴木助七は、娘の「清子」が大切にしていた人形を「萬念寺」に預けます。預かり受けて3年後のある日、住職は夢の中で助七に「人形の髪を切って欲しい」と伝えられます。翌朝、住職が人形を確認すると、なんと髪が伸びていたんだそうです。
続いて、1968年7月15日号の『ヤングレディ』では、時代背景が大正になり、娘の名前も「菊子」になります。父の助七が娘に人形を買い与えた一年後、菊子は病死してしまいます。樺太に行くことになった助七は、人形を「萬念寺」に預け、数年後、住職が人形の髪が伸びていると気付く…というストーリーでした。今の伝承と若干違います。
オカルトブーム怪奇特集の常連
1970年代は、空前の「オカルトブーム」でした。口裂け女や人面犬などは、小学生を恐怖に陥れる存在でした。また、「こっくりさん」も流行り、「こっくりさん」を禁止した学校もあったほどです。宇宙人やUFOの目撃談が増えたのもこの頃です。
そのような「オカルトブーム」の中で、この「お菊人形」は、恐怖心を煽る「呪いの人形」として、一躍脚光を浴びました。数々のオカルト誌の中で特集されつづけ、根強い人気を誇ってきたのでした。
「髪」の次は「口」が開き始めた
「髪が伸びる人形」としてメディアに露出し続けた中で、その写真を見比べていくと、なんだか口が開いてきた気がする、という声もあがりました。お菊人形の口の中に、歯が生えているのを見た!という噂も出回ったほどです。
髪に慣れてきたからか、お菊人形の「怖い部分探し」が始まったのです。お菊人形には触れてはいけないので、口の中のようすは、今でも謎です。妖怪などのオカルト話に興味がある方は、こちらの記事もご参照ください。
お菊人形の髪が伸びるのは子どもの魂が宿ったから?
お菊人形の髪が長くなることに対する一つの見解として、持ち主の「菊子ちゃん」の魂が人形に宿っているからというものがあります。「お菊」という呼び名が付けられたことにより、お菊人形それ自体が依り代のようになっているのでしょう。「萬念寺」で定説として唱えられる「お菊人形」の物語をお聞かせします。
幼くして亡くなった「菊子ちゃん」
この市松人形の持ち主は、当時3歳の鈴木菊子ちゃんです。17歳の兄・永吉が、1918年8月に札幌で催された大正博覧会で、菊子への手土産として人形を購入しました。菊子は大喜びで、片時も人形を手放しませんでした。しかし、年があけた1月24日、菊子の風邪は重篤化し、命を落としてしまいます。