娯楽を禁止していた日生学園では、寮へのお菓子や雑誌などの持ち込みを禁止していました。当時の生徒達は、寮と学校の往復のみで、外の世界の出来事が分かりませんでした。唯一、月1回の五厘刈りをするときに、下に敷く新聞を見て情報を得ていたそうです。
校則が厳しすぎて密輸が横行した
実家に帰省した際や、親からの送られてくる荷物にコッソリお菓子や雑誌を入れてもらい、何とか寮への持ち込みを行う生徒もいました。
教師による荷物チェックを潜り抜け、寮内へ持ち込むため鞄などを工夫し、物を忍ばしていました。これを密輸すると呼び、生徒の中で広まり行っていました。持ち込みが見つかった場合は体罰が待っています。
修学旅行・娯楽行事は一切なし
当時の他の高校では、修学旅行は学校行事の中の教育行事の1つとして位置づけられていましたが、娯楽を禁止していた日生学園では修学旅行はありませんでした。もちろん、学校で行う行事の学園祭や体育祭なども一切ありませんでした。
話ただけで退学処分!男女交際一切禁止!
男子生徒と女子生徒が会えるのは、学校の授業の間の休み時間の10分だけでした。それ以外で一緒にいるところを見つかった場合は、退学処分が待っていました。異性に興味を持つ年頃に会話もしてはいけないと言うのは厳しさが感じられます。
先輩の命令は全部YES!校内の上下関係
今では考えられないことに、寮の相部屋が30人いるということです。先輩もその同じ部屋にいるとなると、先輩から命令が下されるのは当然です。部屋の中の権力者(先輩)がいましたので、命令は聞くのが当たり前、聞けなければ消灯後の暴力は当たり前でした。
挨拶がないだけで「しばき」という暴力も
一年生は挨拶しなかっただけで、消灯後、しばきという暴力を先輩から受けていました。しばきには5コースあり、軽めの30分コース、1時間コース、3時間コース。5時間コース、最悪の朝までコースなどがありました。
コースの内容は正座して説教、ビンタ、説教、体を殴る、ビンタなど、永遠に続く暴力でした。三年生は神様、二年生は一般人、一年生は奴隷といった感じです。先生からは、しごきもあり、心行を数時間させられたり、同じ部屋の生徒は連帯責任として、楽しみにしている帰省の短縮や、帰省無しなど、厳しい指導を受けていました。
生徒だけじゃない!教師にも厳しい体罰があった
体罰は生徒だけではなく、教師がミスや不手際な事をすると、校長や教頭から頭を叩かれると言う体罰がありました。教師も寮に住み込み、娯楽は禁止で、タバコを吸うことも、酒を飲むことも禁じられていました。
そして、教師も生徒同様、五厘刈りにし、しかも生徒より1時間も早い3時に起き、心行を行っていました。先生も大変な学園生活を送っていたことが分かります。
教頭がベルトのバックルで生徒に怪我をさせた
日常的に教師は平気で生徒に暴力をふるっていました。ある日、全校生徒が参加する朝の国旗掲揚の際、教頭がある生徒を叱っているときに、ベルトのバックル部分でその生徒の頭を殴り血が流れました。
隣にいた女生徒がハンカチを出し血を拭おうとしたのですが、それを制し、説教を続けたという有名なエピソードがあるほど、暴力や体罰がありました。
Contents
内部告発で日生学園事件が発覚!日生学園の対応は?
1965年から始まった日生学園で行われていたスパルタ指導という名の暴力や体罰は20年間は良いものされていました。問題児が日生学園に入ったことにより、更生されていく姿を見て親などは絶大な信頼をしていたからです。
1985年教師からの内部告発
しかし、行き過ぎたスパルタ指導、厳しい校則により問題が多くあった日生学園に耐えられなくなった教師が20年間の沈黙を破り1985年に内部告発しました。それをマスコミが報道し、全国に知れ渡りました。
娯楽のない寮生活、暴力と脱走が多発した
先輩たちは娯楽のない寮生活を後輩への暴力でストレスを発散させていました。顔を殴ると教師にバレてしまうので、正座をさせて説教をし、体を殴る、正座している足の下に棒を置く、針が刺さるようにホッチキスで殴るなど、過激な暴力が日常的に行われていました。
厳しすぎる寮生活、先輩からの暴力に嫌気がさし、脱走する生徒が多くいました。消灯後の夜中に脱走を試みますが、教師に見つかり、車で数台付近の捜索が始まります。捕まってしまえば、寮に連れ戻され、今度は教師から体罰を受けます。
自殺者や死亡事故まで発展していった
暴力が嫌で脱走しても引き戻されて体罰を受けるという堂々巡りが行われる中、自殺者が絶えませんでした。死んでしまわない限り続く悪夢だったのでしょう。また、死亡事故も起こっていますが、日生学園は原因不明として処理しています。
学校側は改善しようとしなかった
教師の内部告発により以前の自殺者や死亡事故のことが報道されましたが、学校側は原因を究明するどころか原因を隠蔽し、暴力による死亡事故だということは分かりきっていることなのに改善する動きもありませんでした。
世間で大騒ぎに!三重県から行政指導が入った
脱走者、退学者、死亡者がいる日生学園のことは世間で騒がれるようになり、国会議員が調査を行ない、三重県から学校へ行政指導が入ることになります。日生学園はそうとう厳しい指導を受け、創立して約20年の時を経て、暴力のない日生学園が作られることになります。
噂される不祥事や事件
教師の内部告発の内容は、生徒や教師による暴力事件や、生徒の自殺や不審死があったということ、行き過ぎたスパルタ指導と暴力に耐えかね脱走する生徒がいたということでした。でも告発後にも、まだ事件は起こっていたのです。
柔道部員の不審死
2009年には、柔道部員の不審死がありました。柔道部に入ったばかりの生徒で、後ろ受け身の練習をしていたが、頭を強打し、具合が悪いと言ってトイレで嘔吐し意識不明になり、急性硬膜下血腫で死亡しました。顧問の教師は練習には立ち会っておらず、詳細は分かっていません。
野球部員の不祥事
2010年には、野球部員の喫煙や暴力事件などの不祥事があり、警告処分を受けています。野球部の不祥事は他の高校でもあることですが、暴力事件があったと聞くと、やはり日生学園と暴力が切り離せなくなります。
日生学園と戸塚ヨットスクール
スパルタ指導や体罰や暴力と聞くと思い浮かべるのは、戸塚ヨットスクールではないでしょうか。1983年に発覚した戸塚ヨットスクール事件も世間で大騒ぎになりました。ではどのような事件だったのでしょうか。
戸塚ヨットスクールとは
戸塚ヨットスクールは、1976年、愛知県に戸塚宏氏によりヨットの技術を教える教室として設立しましました。日生学園同様、当時は校内暴力などが多く問題視された時代でしたので、戸塚ヨットスクールも問題児を受け入れていました。
青田強氏の独自の教育方針のように、戸塚宏氏にも独自のものがあり、それは「脳幹論」といって、青少年の問題は、脳幹の機能低下によって起こるとし、アトピーや喘息、登校拒否、引きこもりや癌までも脳幹を鍛えれば治ると説くものでした。ヨットやウィンドサーフィンなど自然を相手にしていれば脳幹が鍛えられるといって厳しく教育を行っていました。
死者や行方不明者
1983年に発覚した戸塚ヨットスクール事件は死者や行方不明者がスクールから出ていたというものでした。死者や行方不明者が出た理由は体罰によるものでした。
教師の体罰による死亡、腹痛を訴えた生徒を暴行し訓練させ死亡、体罰が嫌で訓練中の船から海へ飛び込み行方不明、特別合宿の訓練中のヨットの上から教師が生徒を何度も海に落とし、その後食事を食べなくなって死亡したなどあります。
日生学園と戸塚ヨットスクールの比較
同じ時代のことなので、内容は類似するものが多く見られます。問題児を受け入れる学校、そして問題児を更生させるために行われる体罰や暴力などです。しかし、大きく違うところは、戸塚ヨットスクールは先輩からではなく、教師による体罰だったというところです。
事件が発覚し裁判があり、戸塚宏氏や元コーチ合わせて9人は実刑判決となり刑務所に入れられました。
戸塚ヨットスクール事件のその後
2006年には戸塚宏氏は刑務所を出所しましたが、その後、体罰の方針は変わらず、自殺者が出ました。うつ病の生徒が水死体で発見されたり、生徒の飛び降り自殺が数件ありました。それでもスクールに子供を預ける親が絶えずいるということは、スクールに入って良かったと思える生徒もいたということのようです。
ある番組に戸塚宏氏が出演し、「体罰は生徒の利益になる」と語り、体罰を受けて生徒が死んでいるのに何を言っているんだと批判を買っています。
現在の戸塚ヨットスクール
現在でも戸塚ヨットスクールはヨット教室の経営として存在しています。代表者は変わらず戸塚宏氏です。教育や更生方針に賛同し、死亡事故発生によりスクールが誹謗中傷を受けたとして戸塚ヨットスクールを支援する会があり、会長に石原慎太郎さんがいます。
日生学園出身の有名人とは?
日生学園の卒業生には有名人もいます。浜田雅功さんは、日生学園の色々な仰天エピソードを各種番組で語っています。お笑い芸人の今田耕司さんも仰天エピソードを語っていますが、途中で退学しています。
その他の有名人は、スポーツ界には、元プロ野球選手の鮫島秀旗さん、Jリーガーの千葉和彦さんがいます。系列校卒業に元フジテレビアナウンサーの長谷川豊さん、ロックバンドSOPHIAのドラムス赤松芳朋さんもいます。
日生学園を卒業した浜田雅功さん
入学の訳を浜田雅功さんは、ある番組で語っていました。約束をしていた友人の家に行くとドアに鍵がかかっていて友人が出てこないので、ポストをドライバーで外し、ノコギリで木製のドアを切ったそうです。
それを知り、浜田雅功さんの父親は、我が子を普通の高校に通わせてはいけないと思い、中学校の先生の推薦で、日生学園にお世話になろうと入学させたそうです。当時、問題を起こす子供は日生学園に行かされていたことが分かります。
浜ちゃんが語った日生学園の世界
色々なエピソードをテレビ番組で語っている浜田雅功さん。日生学園での3年間は忘れようにも忘れないほど強烈な体験だったと語っています。ある番組では当時一番怖かった教師が登場し、副学寮長をしていた浜田雅功さんのことを頑張っていたと褒めています。その時の浜田雅功さんの顔が強ばっているのを見ると、スパルタ指導の厳しさが感じられます。
日生学園の全力
日生学園には、全力体操というものがあったり、授業中に手を挙げる時、拳を握りピシッと全力で上に手を伸ばしていました。それは軍隊を思わせる行動です。心行についても語っていますが、実際の映像は衝撃的過ぎるとしてマンガで紹介しています。ですが、実際の映像とほとんど変わらず、生徒は全力で心行を行っていて、熱がこもっていて、マンガの映像も実際の映像も湯気で曇っています。
キツいこと
ある日、朝から部活が終わる夕方までコンクリートに正座をさせられ、仲間と一緒に号泣したほど、キツかったとも語っています。卒業の3か月前には6時間心行を行ったことも語っていますが、そうとうキツかったと思われます。
甘いもの
寮では甘いものが出てくることがなく、甘いものは貴重でした。でも、女子寮では、どうやら甘いお菓子が出ていたようで、浜田雅功さんと同部屋にいた学校の番長のところへ、その女子寮の甘いお菓子が献上されていました。
その甘いお菓子を番長が少しづつ、同部屋の浜田雅功さんたちに分け与えてくれていたとも語っています。
浜ちゃんの帰省した時の話
浜田雅功さんは、帰省した際、歯磨き粉が3色になっていてびっくりします。そこでアクアフレッシュを購入し、寮生に渡そうと持参すると、他の寮生も、みんなに渡そうと沢山持参していたと言っています。それだけ、世間の情報が入らない閉ざされた空間だったのです。
脱走して退学になった今田耕司さん
夜中にトイレの窓から脱走した今田耕司さんは厳しさに耐えられなかったようです。しかし、脱走が見つかってしまい戻されてしまいます。生徒が脱走すると警報が鳴り、教師が車で探しに行きます。探している間、他の同級生は正座させられるそうです。
しかし、今田耕司さんは諦めず、再度脱走に挑戦します。最寄り駅から電車に乗ると地元の人に通報されるので、山を2つ超えて隣の駅から電車に乗り実家へ帰りました。電車代は前に帰省した時に1000円札をパンツの中に隠して持参したものでした。
「学校に戻ります」と言うまで殴られた
2回目の脱走に成功しましたが、実家へ学校から、辞める手続きをしに学校に来るよう言われました。手続きをするために学校へ行くと、学校に戻りますと言うまで教師に殴られたそうです。
でも、やはり耐え切れず、冬休みに帰省したきっかけで、退学できることになりました。
今田耕司さんの甘いもの
「角砂糖1つ持っていたらクラスをシメられた」と言うほど、甘いものが貴重だったと語る今田耕司さん。自分で持ち込むことができなかったので、親に手紙を書き、送ってもらう荷物に、いちごミルクの飴を枕の綿の中に忍ばせて密輸してもらい、普段お世話になっている人に配ったそうです。
日生学園の卒業生の声
日生学園は厳しかったと語る卒業生がほとんどです。あの辛い体験を共に生き抜いた”同士”といい、想い出を共有する人もいますが、卒業後にまで影響があって、大変な思いをした人もいます。それはどんなことなのでしょうか。
卒業生の声①:精神をズタズタにされた
中学校は不登校だったため、日生学園へ入学し、期待を胸に高校生活で立ち直るぞと思ったけれど、結局いじめにあい精神をズタズタにされたと言う卒業生もいます。ただでさえ、厳しい校則にいじめまであっていたと思うと、当時の大変さが伝わります。
卒業生の声②:うつ病になり社会進出が困難に
日生学園を卒業した後、うつ病や不眠症などにかかり、社会進出が困難になった卒業生もいます。現在では、仕事をすることができていますが、日生学園でのことを振り返ると、喪失感しかないと語っています。
日生学園には生徒を救う学校になってほしい
行き過ぎた厳しい指導で、体罰や暴力などが日常的に行われていた日生学園ですが、生徒がいなくなることもなく、学校も存在することは、現代でも必要な学校と言うことが言えます。
現代でも、いじめによる不登校や引きこもりの生徒がいることは事実で、それを受け入れしてくれる学校は必要なことです。日生学園は、今後もそのような生徒を救う学校となって、そのような生徒の希望の学校となっていくことでしょう。