フライデー襲撃事件!ビートたけしの襲撃理由やその後!つまみ枝豆は?

なぜ2人は参加しなかったのか理由を見てみます。井手らっきょは、当日彼女の家に行っていたため連絡が取れず、ラッシャー板前は痔のため入院していたからでした。その後、留守番部隊としてテレビに出演することになったことを考えると、ラッキーな2人と言うべきなのでしょうか。

フライデー襲撃事件から2年後!フライデーとビートたけしは和解

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ビートたけしは、事件後、フライデーのこと悪くは言いませんでした。向こうは商売をしただけ、お互い損をしただけだったと語ります。一方フライデー側は、懲りもせず、ビートたけしを悪く書きますが、世間の写真週刊誌への不信感が増えたことにより、だんだん部数も減っていきます。

1988年にはビートたけしとフライデー編集部による交流試合も?

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1988年には、神宮草野球場にて草野球大会を行いました。ピッチャーだったビートたけしの第一球はデットボールだったようで、後にそのまんま東は、和解の厳しさを物語っていたと言いました。

さらに同誌にてビートたけしのカラーグラビアが掲載

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1998年2月20号同誌に、ビートたけしのカラーグラビアを篠山紀信が撮影し掲載しました。写真は、12年もの時間が経ち、事件現場の編集部に来るというストーリーの写真でした。

これは完全に和解したことを物語っているのですが、売り上げが伸び悩むフライデー側と、映画監督としても成功を収めたビートたけしとを比較するとビートたけしが勝ったのではと思う人も多くいるそうです。

講談社で当時編集長であった人物が語ったフライデー襲撃事件

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講談社の週刊現代の編集長の伊藤寿男氏は、活字だけで表現する週刊誌に限界を感じていました。活字だけでは、指摘された時に、信憑性に欠けることがあるので、写真を掲載することで、信憑性がある記事になると思っていたからです。

フライデー襲撃事件当時に編集局長だった伊藤寿男

伊藤寿男氏は、1981年にFOCUSがされたことをきっかけに、自分も写真週刊誌を発刊するため勉強します。それがフライデーでした。週刊誌業界は競争でしたので、FOCUSよりも長く張り込みをし、地道に努力してきました。

しかし、当時は個人情報などの規制は緩やかで、芸能や政治を取材する編集部員は40名もいて、しかもフライデーが売れていたので、おごりがありました。

たけし軍団に踏み込んで取材することで地位を確立?

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プライベート写真と記事や、社会的タブーを掲載することによって、世間から反対意見を得て、週刊誌の地位を手に入れたと思っているそうです。でも行きすぎた取材だったことにより、事件前から両者の間でわだかまりがあったことも語っています。

事件後に石垣島で謹慎していたビートたけし!後の映画作品に影響も?

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判決が出るまで、謹慎処分を受けていましたが、東京の週刊誌の取材から逃げるため、伊豆の温泉宿に行きました。ビートたけしが移動する車を取材の記者が乗るバイクや車で追跡されました。

フライデー襲撃事件で謹慎処分となったビートたけしは石垣島に?

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謹慎中、ビートたけしは石垣島のコテージに1人で逃げます。淋しかったのですが、その間、たけし軍団を呼ぶわけにも、女性を呼ぶわけにもいかず、芸能界の友人の島田洋七を呼びました。島田洋七が来るのを楽しみにし石垣空港で朝から待っていたそうです。

石垣島で「キタノブルー」が生まれた?映画作品に影響も?

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週刊誌の取材からの逃亡生活で、ゴルフすれば目立ってしまうので、海岸で貝をゴルフクラブで打って暇つぶししていました。

その後、ビートたけし監督の映画の中で、よく使われる気品のある青色のことをキタノブルーと呼び、島田洋七と一緒に行った、石垣島の川平湾のキレイな青い海の色をイメージしたものだったと言われています。

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ビートたけしの映画”ソナチネ”には石垣島の逃亡生活でしていたような海岸で暇つぶしするシーンや、釣り師に扮した殺し屋の登場などは、逃亡生活中に海岸で出会った漁師がモデルではないでしょうか。

ビートたけしは謹慎中に勉強していた

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石垣島での暇な逃亡生活をも、その後の映画に生かしたビートたけしは、他にも謹慎中にも行っていたことにより、その後生かされることがありました。それは小・中学生が解くドリルを勉強し直すことでした。

平成教育委員会の発案に繋がった

謹慎中に勉強したことにより、義務教育で教わったことと、一般常識の基礎のギャップに気付き、テレビ局に平成教育委員会の原案を提案します。その後、平成教育委員会という番組が始まりました。

世間やビートたけし自身にも大きな影響を残したフライデー襲撃事件

フライデー襲撃事件は、当時、テレビなどで引っ張りだこだったお笑いタレントのビートたけしの暴力事件と言うだけのことではなく、世間に、報道・言論・出版の自由を問い、知る権利と、人権やプライバシー侵害の問題を考えさせられる事件となりました。

現在では写真週刊誌も廃刊となり2誌ほどしか残っておらず、当時のような写真週刊誌業界の戦いはなくなっています。

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