【煩悩の数】除夜の鐘で打つ「108」の意味と由来、数字の不思議を解説

つまり端的に言えば、煩悩は人の幸福を妨げるよくないものです。だったらそんなもの、ないほうがきっといいはず。仏教で目指すべきは心静かで穏やかな、いわゆる・・・「さとり」を開いた状態。

そういものを目指すべきなんじゃないの?と一度は思ったことでしょう。ですがお待ちください、あなたはさとりの何たるかを本当にご存知ですか?

「さとり」とは何か?

jplenio / Pixabay

よく悟った=閃いた、諦めたという意味で使用する人がいますが、仏教的にはそういった意味ではありません。

さとりは人生観や境遇を一新させてしまうほど劇的な価値観の変化を指します。さとりを得るということは、虫が人間になるほどの違いがあると言われています。そして、さとりは生涯でたった一度きりのものではないのです。

さとりは全部で五十二段階ある

katsuwow / Pixabay

さとりは全部で五十二段階(位)があります。

たった1つでも難しいことが五十二回も起きるのです。それは途方もないことであり、修行を重ね高僧と呼ばれるほどの地位についた僧侶でも、十段階進めればとんでもない偉業と言われています。それほどまでに人の身には困難なことなのです。

油断するとさとりがパァに?!

Alexas_Fotos / Pixabay

さとりは四十段階目までは退転(たいてん)位と呼ばれ、油断するとあっというまに崩れてしまうほど不安定なものとされています。一度悟ったからといってずっとそのままでいられるとは限らない、元に戻ってしまうことも充分にありえるのです。

なお四十一を過ぎると不退転位、何があっても揺るぎないさとりの世界に入るとされています。

阿耨多羅三藐三菩提

さとりの最高位、五十二番目の境地に辿り着くことを正覚、また「アノクタラサンミャクサンボダイ」と呼びます。

仏教の目指すべき真理の境地に至った人。これは仏教史上たった一人しか達成していません。そう、ガゥダマ・シッダールダ。仏教の開祖であるお釈迦様、その人だけです。

普通の人間には遠すぎるさとり!けれども…。

vincentc / Pixabay

「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」(引用:仏教ウェブ)

これは、真にさとりに至ったのはお釈迦様だけ、という意味の言葉です。

常人に至るにはとても無理な境地!…と思って決してあきらめないでください。たとえ同じさとりを開けなくとも、真の幸福を探求することはとても大切です。せめて一段階でいいから悟ってみたいものです。

煩悩を消せば人は幸せになれる?

Free-Photos / Pixabay

悟るのは無理でも、どうにかして煩悩を消したい!だってそうすれば辛さも苦しさもなく、幸せに生きていくことができるのでしょ?どうすればこの我欲を消滅させられるの?!・・・と思った方も多いことでしょう。

ですが大変残念なお知らせです。たとえどんなに大変な修行をこなしたところで、欲望を完全に消すことは不可能なのです。

煩悩は、決して消せない

仏教には煩悩具足という言葉があります。「具足」とはそのように出来ているという意味です。

我々人間は、悩み欲するようにできている。つまり人は欲望で構成された生き物だということなのです。我々から煩悩を消してしまったら後には何も残らない、ただ消え去って無になってしまうだけなのです。

煩悩とうまく付き合う方法を見つける

n-k / Pixabay

僧たちは修業で欲求や渇望を消そうとしているわけではありません。そんなことをしては人ではいられなくなってしまいます。ただ、付き合い方を変えるように努力しているのです。

同じ事象でも見方次第で、苦が楽に転じることもたくさんあります。雨の日は憂鬱ですが、庭木の花が咲くためだと思えば待ち遠しくなるものですよね?

仏教における究極の幸せ、煩悩即菩提

煩悩即(ぼんのうそく)菩提とは悩み苦しみが喜びに転ずるという意味の仏教用語です。

仏教が目指す境地とは、煩悩そのものである人の在り方を変えることではありません。あるがままで、しかし究極の幸福に至れるように、感じ方や考え方を一新させることなのです。

渋柿の渋がそのまま甘みかな

これは昔から伝わっている歌で、食べがたいような渋い柿ほど、干した後は甘い甘い柿になるという意味です。

柿は柿であり何も変わっていないのに、そこに気づいた者だけが渋さを甘さに転じることができる。煩悩とさとりは表裏一体であると教えてくれる大切な一句です。

まとめの煩悩の数「108」は奥が深かった!

Vitamin / Pixabay

煩悩と「108」の数、仏教、さとりの世界が本当に奥深いことがよく分かりましたね。お坊さんですら生涯問い続けるという難しさですが、自身に投げかける問答自体も修行となります。

たとえ真理は遠くとも道の先に必ず存在するのですから、諦めることなく自問自答を繰り返し、幸福の境地にわずかでも近くよう努力をかかさないようにしましょう。

インドの宗教に関する記事はこちら

宇宙の秘密に関する記事はこちら