【煩悩の数】除夜の鐘で打つ「108」の意味と由来、数字の不思議を解説

煩悩の数は一般的に108つですが、なぜ108つなのかその理由を解説します。108という数字にはインド哲学の深い知恵が隠されています。今回は煩悩の数について仏教の通説である数え方からあまり知られていない数え方まで煩悩の数に関するトリビアをまとめて紹介します。

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煩悩と煩悩の数

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「煩悩」という言葉を、誰しも一度は聞いたことがあるはずです。ですが本来の正しい意味を知っていますか?

だいたいの人にとってのイメージは「お金が欲しい」「モテたい」「怠けて生きたい」…というような、即物的で自制心を欠いた欲求という印象でしょうか。ですがルーツたる仏教においては、この言葉はもっと広い意味を指し示す言葉でした。

煩悩とは人間の欲望のこと

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まず基本的に、人間の持つ欲望を指し示す単語であること。これは間違いではありません。仏教用語であり、これを抱いているがため、私たちの一生は辛くなるとされています。

逆に言うと、欲望から自分を解き放つことで、ゆるぎない真の幸福を手に入れることができるのです。これは修行する僧たちにとってもひとつの目標になっています。

煩悩の数とは

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考えてみれば当然ですが、人間の抱く欲望はひとつきり、たった一度とは限らないものです。

「あれが欲しい、これもしたい、それもあった!ああでこうで…まだ足りない…もっとたくさん…」。満たしても満たしても飽きることなく願望は沸き上がります。人間はいったいいくつの欲を抱え込んでいるのでしょうか?

煩悩の数は一般的には「108」

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有名なのでご存じの方も多いでしょう。その数なんと108つ!人は百種類以上の欲望を持った、とんでもなく強欲な生き物なのです。

数の由来に関しては諸説あります。108でなくである、さらに増えて8万4千であるとか、いや20減らして88であるという説も存在しますが、この場では最も一般的な「108」について言及していきましょう。

煩悩の数の数え方①三毒・五蓋について

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仏教は108の欲望を複数の種類にカテゴライズしています。まず大きく三種類に分けられ、五種類、六種類、三種類、二種類…と細分化していきます。

その欲求が人に生来備わっている特徴からくるものなのか、状態から来るものなのか、感性から来るものなのか。正しく把握していないと対処のしようがないものです。

煩悩を大きく3つに分けた場合「三毒」

人が抱く欲望の中の根源と言われるのが三毒(さんどく)です。「三」の数字が示すのは、貪欲さをあらわす貪(どん)、怒りや憎しみをあらわす瞋(じん)、無知からくる愚鈍をあらわす痴(ち)のことです。

この3つが心の奥底からまさに毒のように染み出て人を苦しめているのです。三不善根ともいい、それぞれ鶏、蛇、豚に象徴されます。

煩悩を大きく5つに分けた場合「五蓋」

五蓋(ごかい)は私たちの心を見出し、真理から遠ざける原因です。さとりや善行の妨げになるとされ、貪欲蓋(渇望)、瞋恚蓋(怒り)、こん沈睡眠蓋(怠惰)掉挙悪作蓋(不安定)、疑蓋(疑念)の五分類で形成されています。

ほかにも”五上分結”や”五下分結”など「五」に別けられる分類があります。

十二因縁の無明

生老病死という四苦で言い表される我々苦的存在は,無明ではじまり老死で終わる次のような十二種の契機によって成立するとみる因果法則である。無明(むみよう)→行(ぎよう)→識(しき)→名色(みようしき)→六処→触(そく)→受→愛→取→有(う)→生(しよう)→老死。すなわち無明があるから行があり,生があるから老死という。(引用:世界大百科事典 第2版)

無明とは文字通り、暗闇で迷うような状態のこと、仏教の目指す真理からもっとも遠いところを指します。すべては無明をはじまりとし、他の因縁の起因となって連続し続けている、という考えです。

つまり無名を、すべての苦しみを根源から絶たなくては、人の世にある苦悩の連鎖を断ち切ることはできないのです。

煩悩の数の数え方②六根(ろっこん)とは

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六根清浄という言葉を聞いたことはありますか?「どっこいしょ~」の語源になったともいわれている、心身ともに清浄で穢れない様を指し、修行やお参りの時に唱える祈りの文言でもあります。

清浄はなんとなくわかりますが、では「六根」とは?何を示す言葉か、あなたはご存じでしょうか?

6つの器官を表す六根

人間の感覚は五種類(五感)に分かれていますが、仏教においてはそこに心が加わって六種類とされています。眼(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、舌(味覚)、身(触覚)、そして意根(意識)です。

修行僧たちが山籠もりをしてるのは、世俗との関りを絶つことによって、六根を清く保つためなのです。

6つの感覚を表す六塵

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また、管轄を六分割した六塵という考え方もあり、先ほどの六根が働くことによって得られる感覚です。眼は色(映像)を、耳は声(音)を、鼻は香(におい)を、舌は味を、身は触(触覚)を生み出し、意根は法(心)を乱します。

感覚は人の喜びでもありますが、仏教の世界ではそういった執着はさとりの妨げになると考えられます。

3つの感情

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心の動きは好悪平の3種類、良し、悪し、中立に別けられます。感覚器官(六根)から発生した感覚(六塵)に対して生まれる感情です。

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