リクルート事件とは?戦後最大の疑獄事件の真相とは?

リクルート事件による追い風に加え、土井たか子という女性が党首を務めたことにより、社会党は翌年の1990年(平成2年)の衆議院選挙でも、「マドンナ旋風」と呼ばれたブームに乗って大きく議席を伸ばしました。ただしブームは長く続かず、1992年(平成4年)の参議院選挙、1993年(平成5年)の衆議院選挙で社会党も衰退しました。

55年体制の崩壊

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国民が政治を信じなくなる傾向は、1955年(昭和30年)から長く続いた55年体制(自民党が与党第1党で社会党が野党第1党)の崩壊につながります。自民党、そして国民の自民党離れの受け皿になることに失敗した社会党から離党者が続出し、彼らが中心に結成された新生党や新党さきがけ、日本新党などが躍進します。

この結果、新生党、日本社会党、公明党、民社党、社会民主連合、日本新党、新党さきがけが連立して、1993年(平成5年)8月9日に細川内閣が成立します。非自民連立政権がはじめて発足したことで、40年近く続いた55年体制は終わりをむかえます。

公職選挙法の改正

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国民が政治への信頼を失った結果、政界は「国民に信用される政治と政治家」という課題に、大きな関心を払い始めます。その結果1990年(平成2年)以降、いくつかの重要な改革が行われました。1994年(平成6年)に成立した「政治改革四法」はその主なものです。

改革のうち主なものは「選挙における小選挙区比例代表並立制の採用」「政党助成金制度の導入」「公職選挙法の改正(執行猶予付きの判決を受けた場合、議員などの公職に就くことはできない)」「閣僚の資産公開をする際には、本人だけでなく配偶者と扶養する子供も対象とする」などです。

リクルート事件後のリクルート社

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リクルート事件によって、株式会社リクルート自体も大きな影響を受けました。会社の評判は悪くなり、進学情報関連事業などの分野では、クライアント離れがどんどん進んで行きました。この深刻な事態からリクルートはどのようにして立ち直り、今日まで生き残ることができたのかを、ここでは紹介します。

江副浩正が経営から退きダイエーの傘下へ

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1988年(昭和63年)のリクルート事件の発覚後、7月に江副浩正氏はリクルートの会長を辞任します。その後1992年(平成4年)に自分が持っていたリクルート社の株をダイエー創業者の中内功氏に売りました。(この売却で、江副氏は約400億円の利益を得たといわれています。)

リクルート社はダイエーの支配下に事実上入ったのです。そしてダイエーは何人かの幹部をリクルートに送り込みました。しかしその他の面で、ダイエーは「物言わぬ株主」に徹することに決めます。そしてリクルート社が背負っていた負債の肩代わりはしないことも、決定しました。

バブル崩壊により経営危機に

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1991年(平成3年)に1980年代後半から続いていたバブル景気が崩壊しました。リクルート社はバブル期に手を出した不動産事業やノンバンク事業などに失敗、資金が焦げ付いてしまい、リクルート事件のため企業イメージが悪化した影響がこれに重なって、多額の借金を背負い込むことになりました。

有利子負債を自力で完済して2014年に東証一部上場

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ダイエーはリクルート社の危機においても「もの言わぬ株主」の姿勢を貫きます。このためリクルート社はダイエーから来た高木邦夫専務のもと全て自分たちで対応し、1994年(平成6年)には約1兆4千万円の有利子負債の返済を完了しました。2014年(平成16年)には、持株会社のリクルートホールディングスが東証一部に上場しています。

再建の途中において

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リクルート事件によってはじまった株式会社リクルートの危機を、同社は企業と社会、企業と従業員との関わりを徹底的に見直すことで切り抜けました。企業風土の徹底的な改革に取り組んだのです。

リクルート社はそれぞれの従業員にも当事者として問題と向き合うことを要求します。会社の立て直しは経営陣だけに与えられた課題ではない、ということです。従業員側でも検討や議論を積み重ねてゆきました。その結果出てきた提案は、同社の新しい経営理念や倫理綱領に反映されています。

ゼクシィ・SUUMOなどを手掛ける大手企業

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リクルート社は、ダイエーの業績悪化に伴って、2000年(平成12年)ごろに、ダイエーの支配下から再び独立します。現在のリクルート社は、どの企業グループにも属さない中立の立場で、さまざまな情報を提供する大手の総合サービス企業として事業を展開しています。

リクルート社の活動の中で特に知られているものとしては、「リクナビ」(就職)、「SUUMO」(住宅・不動産)などのサイト、そして情報誌の「ゼクシィ」(結婚)などがあります。海外事業も大きな柱になっています。株式上場後3年たった2017年(平成29年)には売上高が54%も増え、株式の時価総額は2.5倍になりました。

リクルート創業者「江副浩正」とは

リクルート事件は政財界を大きく揺り動かし、その後の政治の流れにすら大きな影響を与えました。それではこのような大きな事件を引き起こした江副浩正(えぞえ ひろまさ)氏とは、いったいどのような人物だったのでしょうか?

生い立ち

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江副浩正は、1936年(昭和11年)6月12日に、数学教師の長男として大阪府で生まれました。実母からは父親に一方的に離縁という形で引き離されたり、母親の違う弟がいたりするなど、貧しく複雑な家庭環境のもとで、江副はあまり目立たないがユニークな発想を持つ人間として成長します。

江副浩正のユニークな発想の一部をうかがわせるエピソードとして、大学受験の際の外国語科目に試験が比較的簡単で受験者数も少ないドイツ語を選んだことがあげられます。その結果、地元では裕福な家庭の子供が通う学校として知られている甲南中学・高校から東京大学に進学し、教育学部教育心理学科を卒業しました。

「ベンチャー起業家の草分け」との異名も

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江副浩正は東京大学に在学中、財団法人東京大学新聞社で働いて企業向けの営業の仕事を覚えました。そして卒業後の1960年(昭和35年)にリクルートの前身となる会社(「大学新聞広告社」)を創業し、何回か社名を変えながら、事業を大きく発展させました。社名を「リクルート株式会社」に変更したのは1984年(昭和59年)のことです。

創業当初の事業の内容は就職情報誌の発行だけでしたが、やがて不動産や転職情報の提供、子会社を通じての金融業やリゾート開発までジャンルを幅広く広げ、江副浩正は「ベンチャー起業家の草分け」という異名を取るほどの有名な経営者になりました。

事件を機に会長辞任

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しかし新興企業として財界の中で孤立をしがちだった自社の立場を強化しようとした江副は、リクルート事件を起こしてしまいます。その結果1988年(昭和63年)11月21日に国会(衆議院リクルート問題調査特別委員会)に証人として喚問された江副浩正はそれを潮時として、同年1月に就任したばかりのリクルートの会長職を辞任します。

そして1989年(平成2年)に江副浩正は贈賄罪で逮捕・起訴されます。裁判には2003年(平成15年)まで14年の年月がかりますが、最後は東京地裁で懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受けました。江副側も検察も控訴せず、そのまま刑が確定します。

その後の活動

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54歳という若さでビジネスの第一線から退くことになった後の江副浩正は、特例財団法人江副育英会理事長として人材育成活動を行ったり、慈善活動や好きなオペラの発展のために尽力するなど、文化面のパトロンとして活動を続けています。

特に江副のオペラへの傾倒と日本のオペラ界への貢献はかなりのもので、新国立劇場東京オペラシティに多大な支援を行った他、自らもオペラ興行団体「ラ・ヴォーチェ」を2001年(平成13年)に立ち上げ、代表を務めていました。「ラ・ヴォーチェ」は江副の死後名前をいったん「愛宕」に変更し、その後解散しています。

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