上尾事件とは?国鉄と乗客の間で起きた大暴動の背景とその後に迫る

上尾事件とは、1973年に国鉄と乗客の間で起った事件を指します。上尾駅を皮切りに、首都圏全体にまで影響を及ぼした大規模な暴動です。この記事では、上尾事件の背景や事件当日の様子、事件当時の被害状況や上尾事件のその後についても紹介します。

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好奇心に突き動かされてただひたすら忙しい日々を送っています。

上尾事件とは?乗客と国鉄の暴動騒動

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まだ日本に国鉄があった時代、はじまりは国鉄当局と労働組合の衝突でした。昭和39年国鉄が赤字対策としてコスト削減や人員削減を始めたことです。労働側がそれに対抗して順法闘争と言うものを始めます。順法闘争とは規則を守りながら反対運動すると言うことで、迷惑を被ったのは乗客です。

順法闘争前に、国鉄職員による横柄で傲慢な業務態度は日々の利用者の話題になるところでした。日ごろから利用者には不満がありました。高崎線には国鉄職員専用列車と言われる列車がありました。通勤時間帯に1部の試運転列車を踏み切り前で待機させ、付近の国鉄職員を乗り降りさせていた機材私物化の最たるものでありました。

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またこの辺は急速な宅地開発が進み1971年駅の北側に東西を結ぶ橋ができ、駅に行くのに大変便利になります。新しい駅舎もできました。上尾はベッドタウンになり、乗客が一気に膨らみました。東京へ通勤する乗客に当時の線路容量が限界になっていたのです。しかも無時刻表と言われていましたが、混雑による遅れで、時刻表はないに等しかったと言います。

上尾事件の概要

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国鉄は昭和39年に赤字を出してから、赤字続きでコスト削減をする必要がありました。上尾は団地が出来たこともあり、急速な人口増加が懸念されていました。電車は毎日ラッシュで乗客は仕事に向かうのに電車に押し屋と呼ばれる国鉄の職員にぎゅうぎゅうと後ろから押されすし詰めにされた電車で都心に向かいます。

上尾事件の概要①国鉄が赤字続きでコスト削減の必要があった

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公共企業体であった国鉄職員はストライキが禁止されていました。国鉄側がコスト削減や人員削減に走り 2人配置されていた車掌が1人にされたりしたことに反発し、ストライキの代わりに順法闘争と言う方法を編み出しました。労働側はこの作戦でギリギリのところでルールを守り国鉄側に対抗をしていました。

順法闘争はこれが初めてではなく、過去に4回行われています。これで5回目です。これまで2、3日でしたが、今回は6日間です。その後2次闘争に入り、上尾事件はそれから2日経過した時でした。ホームに溢れた人が電車と接触事故を起こしたり、車両故障も度々起こしていました。

上尾事件の概要②国鉄労働組合による「遵法闘争」が始まっていた

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順法闘争とは人命尊重や運転保安確保を前面に掲げ全線で2、3割の減速をしつつ、踏切では一旦停止をするなど、法律に従った体の良い状況を作りダイヤを乱す行動をはじめました。それは国鉄当局の収入を減らすために反体制活動をした訳です。

理由はどうあれ、その行為は甚だしい乗客無視です。乗客は一人一人が国鉄の横暴さと怠慢に腹を立てていました。定刻通りには来ない上に、間引き運転をするため、連日の混雑で、乗客はうんざりしていたのです。事件の3日前には上野行きの列車が上野手前で1時間停車。乗客300人が線路を歩き、鶯谷に向かう事件がありました。

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事件の前の日に上野駅と大宮で、電車を待つ客がインフォメーションや事務所に詰めかけたり、しました。危険信号は黄色になっていました。それでも対策が遅れる国鉄側と労働側です。なんとか労働側が折れて、15日までは順法闘争を、休戦しています。 翌日は通常ダイヤで運行されています。

上尾事件の概要③鉄道の大幅な遅延や混雑で乗客苛立つ

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当日、 すでに4本の電車が運休し、1時間過ぎても電車は来ませんでした。朝から待っていた乗客は、ホームすら立てないほどの混雑の中で、発車を待ちます。これからそれぞれが都心に向かいます。これ以上待っていられないような焦っている状態です。

やっと籠原行きの電車が入ってきました。改札では入場規制をしていましたが、すり抜けてどんどんホームに上がってゆきました。すでに途中の駅で乗ってきた乗客で、車内はいっぱいでした。乗客はすし詰め電車の中で、喘いでいました。ドアが閉まらず次から次に乗車してきます。

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2番ホームに後続の電車が入ってきました。こちらは、前橋発の上野行きです。こちらもすでに満員な状態だったのです。どちらの電車も発車出来ないでいました。それに堪えきれなくなった乗客が騒ぎはじめていました。怒号が飛び交っていたのです。

上尾事件の概要④上尾駅、運転打ち切りの放送

当時の高崎線は急速な利用者の増加に対応しきれていませんでした。沿線に団地ができたことで上尾駅の利用者は14,000人を超えていました。ただでさえラッシュの時間帯は大変な混雑でした。が、サラリーマンだけでなく、都内の学校に通学する若者たちも増えてきました。

870人定員の電車に、3000人が乗車し、ドアが閉まらない状況の中、アナウンスが流れました。この電車は2本とも大宮駅を終点とすると。最初の事件が起きたのは順法闘争から8日目午前7時25分(日曜の3月11日には行われず)、アナウンスに乗客たちの怒りが爆発します。の3月13日でした。

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乗客の一部が線路に飛び降りて、列車の窓ガラスめがけて石を投げはじめました。ガラスの割れる音で、乗客の理性が一気に吹き飛びました。ヘッドライトが破壊されて、新聞紙に火がつきました。運転手を引きずり出そうとする者、駅の階段を駆け下りる者。

上尾事件の概要⑤上尾駅の乗客6000人が暴動、機動隊動員へ

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ホームに取り残されていた6000人の客もすぐさま騒ぎ出します。運転手はなんとか脱出し、脱兎のごとく逃げ出しました。他の運転手や車掌たちも、この異常事態に脱出します。駅を出たのは駅員だけではなく、職員のほとんどが退避して、なんとか近くの民家に逃げました。

騒ぎ出した乗客は駅長室に駆け込み、ロッカーを次々引き倒し、駅長や逃げ遅れた職員に詰め寄りました。ホームの乗客も破壊活動を続けて駅の電話線が切られました。券売機も破壊され、自動販売機も滅茶苦茶に破壊、信号機も破壊されてしまいます。駅長室では、消化器がぶちまけられ、新聞が散乱、駅長は怒号の中で、どうにもなりません。

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上尾の300m手前で停車していた新潟行きの特急トキにも投石があり、トキの運転席の窓ガラスも割られていました。上尾駅から職場は退避してしまいました。駅が乗客に占拠されるという前代未聞の事件に発展しました。その時の上尾駅には車内とホームに約1万人がいたといいます。大暴動です。止める職員はいませんでした。

上尾事件の概要⑥夜まで続いた暴動で逮捕者も

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すでに、機動隊550人が投入されていましたが、暴徒化した乗客たちとの睨み合いをする以外、手の施しようがありません。この騒動で、 7人の逮捕者が出ました。 これだけ大きな暴動で逮捕者が7人と言うのも上尾事件の特徴です。それには、乗客は一般市民がほとんどだったからです。

逮捕された1人はどさくさのうちに、駅の金を20万盗みました。また、駅長をハンマーで殴り、駅長は救急車で運ばれて行きました。幸い軽傷ですんでいます。また、取材に来ていた新聞社の記者に暴行を加えた者が逮捕されています。また発煙筒を持ち出したり、改札や券売機を破壊した者がいました。

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そうなると、黙って見過ごす訳にも行きません。電車を燃やした者もいましたが、罪には問えなかったのですね。暴徒が一般市民であり、あまりにも突発的であったので、犯人の特定は諦めたのか、またはこれ以上国民の反感をかいたくないってところでしょうか。事件、事故を見直してゆくと、いくつかの謎に行き当たります。

上尾事件の概要⑦他の駅でも器物損壊や駅長の拉致被害も

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動かない電車を見限った客が、大宮駅に向かい線路を歩きます。大宮駅までは8㎞もの距離です。途中宮原駅で、助役が乗客に捕まり、大宮駅までの4㎞を無理に歩かせ同行させました。乗客は大宮駅でも、投石や破壊をしています。大宮駅に着くやいなや、停車中の電車に投石、助役室を占拠しました。騒ぎは時間を追うごとに拡大してゆきます。

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