壮絶であったその半生は幼少期だけにとどまりません、第二次世界大戦中には中国へ出征しており、上海にて終戦を迎えました。復員後は劇場勤務などを経て東宝に就職して出演者のキャスティングなどを行い芸能界と関りを持つようになっていきました。
トニー谷の生きた時代背景
終戦後まだそんなに経っていない1950年代に人気を博した彼は、どのようにしてその芸風を確立していったのか。芸能界に身を置くようになった時期から人気絶頂期までの時代背景と絡めて見ていきましょう。
占領米軍が大勢おり、英語が流行
もともと子供の頃より勉強、とりわけ英語が得意だった彼は占領米軍が取り仕切る劇場のステージに上がり、アメリカのショービジネスを学んだと言われています。ここでの経験がのちのトニングリッシュを生み出すにあたって多くの影響を与えることになりました。
戦後の混乱期に成り上がった
戦後の混乱期に急速に復興が進む中、進駐軍を相手に慰問芸能活動を行ったりアメリカリーグのサンフランシスコ・シールズ軍が来日した際には華麗な司会者デビューを果たすなど、みるみるうちにその頭角を現し成りあがっていきました。
トニー谷息子誘拐事件からの逆風
大物売れっ子芸能人として君臨していたトニー谷を思わぬ悲劇が襲います。1955年 7月15日に彼の長男・正美くん(当時6歳)が何者かに誘拐されて身代金として200万円を要求されるという、世間を揺るがす大事件が起きるのですが、これが芸能人生を大きく左右する出来事になります。
誘拐理由に世間が共感してしまう
犯人は逮捕され正美くんは無事に帰還しますが、逮捕後の供述で「人を馬鹿にしたような芸が気に入らなかった」という犯行理由を明かし何と世間がこれに共感してしまいます。中には誘拐事件そのものが「自作自演」だと言い出す人までいて、彼の人気を下げる原因となりました。
マスコミに押しかけられたトニー本人は普段とはまるで違う真摯な態度で涙ながらに訴える等憔悴しきっていたのですが、日頃から好感度の低い人柄と芸風のせいで、世間の反応はたいへん厳しいものでした。数日後事件は解決し無事に長男は保護されたのですが、人前で涙する姿を見せた彼はこれを機に仕事は激減しスターの座から失墜していきます。
昭和・高度成長期に起きた誘拐事件についてはこちらから
テレビへの移行期の時代に取り残される
誘拐事件が彼に与えたダメージが相当大きかったのですが、その頃テレビが急速に普及しだした時代でもあったため、その好感度の低さからスポンサーからは嫌われ取り残されて徐々に起用されなくなってしまいました。
また、テレビでなりふり構わず涙で訴えかけたことが報道され、世間の彼を見るイメージが変わってしまい芸人として面白さが失われてしまったとする声もあります。芸人は同情されるような態度を見せてはいけない、という意見もありました。
トニー谷が後の大物司会者に与えた影響
嫌味で毒舌・とても品が良いとは言えないけれど、唯一無二でキレのある芸で戦後日本の芸能界に多大な影響を与えた功績は大きく、現在の芸能界にも脈々と受け継がれていると言えるでしょう。彼の存在がもたらした影響について具体的にあげてみました。