ほんの少し前まで、グーグルマップにもヤフーマップにも八坂村に至る道路地図は見当たりませんでした。騒ぎになったのがきっかけなのか、今では道路が通っている地図になっています。そうすると、地図から漏れることもあるの
村の住民は現在2人
八坂村は古い歴史のある村ですが、超限界集落で住人は2人しかいません。昔は60人もいたそうです。地図で見ると樹海の中に家が数軒集まっています。閉鎖的ということではなく、2人では広がりようもありません。
昔からこのあたりには3つの集落がありました。八坂村を目指しても辿りつけないと都市伝説になり、徒歩で目指したり、車で目指したりしました。そして行きつけなかったと掲示板に書き込みます。幻の村と噂が膨らみました。
八坂村は三ッ沢を目指すと行ける
まず地図に載っている八坂は三ツ沢集落だったのです。だから地図を目安に行くと三ツ沢集落に着いてしまいます。そして八坂を目指して行くと分岐点にでます。ここで八坂方向に行くのではなく、三ツ沢方向に進むと八坂に出ます?
八坂方向に行くと空中庭園なる場所に出ます。八坂集落には現在誰もいない用です。ただオカルト要素はないもののこのあたりに車で入るとなぜかナンバーを控える人が現れると言われています。これは事実で、よそ者が入るとナンバーを控えるそうです。あなたは見られています。
地図にない村⑨岡山県津山市北部の「津川原村」
誤解する人が多いので前置きします。津山30人殺しは実際にあった凄惨を極める殺人事件ですが津川原村は全く別の事件です。最後の農民一揆の時代を背景に、混乱していた時代に起こった忌まわしい事件なのです。忘れてしまいたいような。
町民が皆殺しにされた村
明治6年6月、津川原村は町民を皆殺しにすべく、賀茂村の百姓に襲撃されました。日本の歴史上最後の百姓一揆とされている美作血税一揆で熱狂している社会的背景の最中、賀茂村の農民2000人が被差別部落の100戸の津川原部落を襲いました。
百人一揆の最中起こった悲劇
日本政府が近代化を図り士農工商エタ非人の制度を撤廃しました。津川原村の住人は周囲のエタ部落の者がエタのままでいいと証文を書かされるなか、プライドを持ち屈することがなかったのです。農民たちは部落の者と同じ湯に入ることが許せなかったと伝わっています。
彼らと同等だということに腹をたてた賀茂村の農民が斧や鎌などの武器を持ち、終夜追いかけて津川原村の18人を殺害、多くの重軽傷者をだしました。襲った方も15人が死刑となり、村の名前は消滅しました。
忘れ去られた津川原村
集落自体は今も残り、おぞましい記憶も受け継がれ現在も慰霊をしています。ここは津川原村ですかと質問しても知らないと言うか、違うと答えるそうです。誰も知らない、誰も語らない時が経ち忘れ去られてゆきました。
地図にない村⑩滋賀県の「甲頭倉集落」
甲頭倉(こうずくら)集落は滋賀県の山中にあります。1874年に滋賀県に編入され甲頭倉村になり、1889年に7市町村が合併1941年に多賀町に合併現在に至ります。甲頭倉集落は今も残りますが、地図上は多賀町です。
炭鉱や林業のための村
最盛期は53戸の家がありましたが、現在は衰退の一途を辿り廃村になりました。もともと炭を焼いて生計を立てていましたが、鉱山が開きにわかに活気を帯びました。30年で閉山となりゆっくりと廃村になりました。
家はいまだに残っている
地図から村の名前は消えてしまいましたが、集落は残っています。トタン屋根か瓦屋根の家が多く、アルミサッシが取り付けられた近代的な家です。しっかり管理されているらしく、保存状態は良好です。
許可があれば行ける場所
県道17号線に続く集落入口にバリケードが張られていますが、甲頭倉創生会の許可があれば、村に立ち入ることは可能です。村には祭りの道具など管理され、村の記憶を残そうとしています。誰もいない村の荒廃した気配はありません。
地図にない村⑪実在した?「巨頭オ」
2ちゃんねるに書きこまれた話しです。「昔行った宿のもてなしがとてもよかったので、ふいに行きたくなり車を走らせました」そして赤い字の看板を見つけ、道を入っていくと、宿などありそうもなく、記憶とは違っていました。
オカルト板での伝説の場所
2006年2月22日に初めて2ちゃんねるの死ぬほど洒落にならない怖い話しに投稿されました。道の奥で車を停めると奥から頭の大きい奇怪な姿の者たちが出てきました。恐ろしくて夢中で逃げ帰ったという内容でした。
鹿児島県で看板が見つかった。
それから10年以上たった2018年8月に鹿児島県の金峰山に向かう道で巨頭ォという看板を見つけたと、写真付きの書き込みがあり、一気に都市伝説の仲間入りを果たしました。あれか10年の歳月が経ち話にリアリティーが出て脚光を浴びたのです。