吉展ちゃん事件の全貌|警察がミス?死刑囚・小原保の生い立ちや自白の記録

ネズミモチは2年の歳月を意味していた

上野氏が司法解剖した結果、口の中からある植物の芽が三本採取されました。これはネズミモチというモクセイ科の常緑灌木で、種子が発芽するのに2年の期間が必要という特性があります。つまり、この人物が息をしなくなってから2年経っているということがわかり、小原の自供が嘘でないことが証明されたのです。

吉展ちゃん事件の犯人・小原保の生い立ち

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小原保という人間は、犯行に至る30歳になるまでいかなる人生を送り、どのようなきっかけで事件を起こすに至ったのでしょうか。そこには高度成長に沸く当時の日本社会の、影の部分を垣間見ることができます。

小原保は貧しい農家の10番目の子ども

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1933年の1月、福島県石川郡石川町の山間部に暮らす、貧しい農家の10番目の子どもとして、彼は生まれます。山深い土地のうえ、靴も満足にはけない時代、小学校へ歩いて通学するのは過酷なものでした。彼は小学四年生の時、足のあかぎれが悪化して骨髄炎にかかってしまい、手術の結果、足に障害が残ってしまいます。

足の障害と休学によって留年したことが、彼の人格をゆがませ、非行に走るようになりました。しかし、小学校を卒業してからは住み込みで時計職人の修行をはじめ、その後も仙台市にある身体障碍者の職業訓練所で時計職人の技術を学びます。

事件時はブローカー業の借金返済が集中していた

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20歳の時にあるデパートの時計部に就職しましたが、職場で足のことを笑われ、これに怒り退職します。借金を重ねながら転職を繰り返し、1960年に上京して上野の時計店で働き始めます。しかし、薄給で生活が苦しかったため、時計ブローカーの内職をしていましたが、これがばれて時計店を解雇されます。

時計や貴金属のブローカーとして食い繋いでいましたが、一時期は飲み屋の女将のもとでヒモのような生活もしていたと言います。事件を起こした当時は、ブローカー業などで生じた借金が20万円に膨らんでいました。逼迫した中で、以前映画館で予告編を見た黒澤明の『天国と地獄』を思い出し、この映画に倣って誘拐を思いついたとのことです。

吉展ちゃん事件の判決・上告審で自白を覆した?

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世間を大いに騒がせた男児誘拐殺人事件の犯人、小原保の審判が始まりました。その最終審において弁護人となった白井正明氏によれば、彼は当初の自供とは異なり「殺すつもりはなかった」と話します。果たして、小原に下された判決はいかなるものだったのでしょうか。事件は終幕へ向かいます。

東京裁判所出した判決は死刑!

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66年3月17日、地裁から小原に下されたの判決は死刑でした。3月31日に弁護側は控訴。控訴審は9月20日から始まりました。争点は計画性の有無です。被告は報道によって男の子の身元を知ったのであり、身の代金の要求を思いついたのはその後だというのが弁護側の主張です。しかし、11月29日に高裁は控訴を棄却します。

上告審で弁護人を務めた白井正明

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弁護側は高裁の判決を不服として上告しました。しかし、この上告審を担当していた国選弁護人は解任されてしまいました。新たな弁護人として抜擢されたのが、白井正明氏です。弁護士3年目の若手だった彼は、事務所の上司から「こういう重大事件で、刑事弁護の経験を積んでみろ」と推され、これを引き受けました。

小原保は一、二審の判決を覆した

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初め、白井氏は最高裁で判決が覆る望みは薄いと思われていました。しかし、小原が一審、二審では認めていた自供の内容が事実と異なると話し出したため、この考えを改めたと言います。当初の自供によると、小原は男の子を殺すために墓所へ連れて行ったと話していました。

しかし、実際は騒がれては困るので口をふさいだところ、いつの間にか死んでいたというのです。これが事実なら、殺人ではなく傷害致死の罪に当たり、刑は軽くなるかもしれません。小原は、自分のしたことには責任を感じ、反省もしているとも言っていたそうです。

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